第5話 命の味と汚れた手

 手錠を外されたあとも、わたしはお巡りさんと歩いていた。草原の奥に向かう少年についていくよう、背中を押して促されたのだ。


 お巡りさんのコートが血で汚れているのと同様に、わたしも手首にべっとり血が付いていた。手錠を切るときに、包丁からついたのだろう。


 わたしたちはまだいい方で、先導する少年は顔半分が血で真っ赤に染まっていた。もちろん顔だけではない。着ているボロのシャツも、染め直したかのように真っ赤だし、右腕は両生類の皮膚みたいな汚れ方をしている。


 少年はそれを気にする様子はない。


 一分くらい歩くと、東屋のような場所が見えた。しかし屋根の下にあるのは、机や椅子ではなく、井戸だ。


 少年は木製のバケツを持って井戸に頭を突っ込む。手の届くところに水面があるのか、少年が持ち上げたバケツには水がたっぷり入っていた。


 それをわたしに渡してくる。


「え? おもっ……!」


  両手で抱えたにも関わらず、ずっしりとした重さに体が前に引っ張られる。


 倒れる前にお巡りさんが襟元をつかんで、姿勢を戻してくれた。そのままバケツも取り上げられる。


 お巡りさんはバケツを、片手で楽々持っていた。まともに立つことすらできなかった自分が、情けない。


 お巡りさんはそのままバケツを両手で持ち直すと、わたしの方に傾けた。


「まっ……!」


 水をかけられると思い、思わず手で顔をかばった。ただ水がかけられることはなく、バケツは傾いたまま止まっている。


「―――――」


 お巡りさんが何か言っているけれど、もちろん意味はわからない。


「え……と?」


 手を下ろすと、お巡りさんの目がそれを追っていた。


(あ、手を洗えってことか)


 手を前に差し出すと案の定、水をかけてくれた。わたしの手が綺麗になると、お巡りさんは右手で水をすくって、私の左頬を軽くすすぐ。


(顔にも血がついてた? ってことはジャージにもついてるよね……)


 突きつけられた現実を確認しようとジャージを見た。黒一色なので、汚れているのかよくわからない。それはそれで気味が悪かった。


 洗いたいけれど、これを脱いだら下着姿だ。


(さすがに無理)


 考えるまでもない。近くにいるのは男二人だし、ここは外だ。ここで洗うほど馬鹿じゃない。家にいるときなんて、同じ服を二日間そのまま着ることもあった。血で汚れたくらい我慢できる。


(……着替えたい)


 前言撤回。さすがに血の汚れは格が違う。


 お巡りさんも一度コートを脱いで、血のまだらを確認すると、顔をしかめた。少年だけは両腕と顔の血を落とすと、他は気にする素振りは見せない。


 少年はお巡りさんから、井戸桶を受け取って元の場所に戻すと、さっき牛を殺した小屋を指さして歩き出した。


(えぇ……またあの小屋に行くの?)


 嫌だと思っていても、お巡りさんたちの足は止まらない。そのままついていくと、少年はさっきの小屋には入らず、すぐ右を抜けた。


 その先には柵が開くところがあり、道に出れるようだ。


(交番に帰るのかな? すごく疲れたから、少し休みたいな)


 わたしの思いとは裏腹に、道に戻った少年とお巡りさんは右に歩き出した。交番とは逆方向だ。


 塔のある森が正面に見える。


 道の右側に牧場は続いていて、五十メートルも離れていない場所に小屋がもう一つあった。


 案の定、少年がその小屋に入っていく。でもお巡りさんはそれにはついていかず、小屋のすぐ横の柵に寄りかかった。


 どちらにならうか一瞬だけ迷ったけれど、勝手に建物に入る度胸なんて持ち合わせていない。わたしもお巡りさんと一緒に、小屋の前で待つことにした。


 お巡りさんの横で、同じように柵に寄りかかる。


「…………」


「…………」


 当然ではあるけれど、お互いに何もしゃべらない。きっと昨日の女の子が特殊なだけで、これが普通だ。


 でも、ただひたすら気まずかった。


 我慢できずに柵から離れて、辺りを見回す。


(挙動不審にみえてるんだろうなぁ……)


 人のいる場所だと落ち着かなくて、こうやって意味もなく動いてしまう。人に変に見られていると思うと、それは加速する。


 景色を見て気を紛らわそうにも、見えるのは牧場と畑と、小屋がぽつぽつ。それと塔のある森くらいだ。太陽が塔の左上にあるのが視界に入って、目がやられる前にそっぽを向く。その先でお巡りさんと目が合いそうになってそれを回避し――


(あれ? なんだろう? 今なにか違和感があったような)


 牧場に生き物の姿が見えないのは最初からだ。少年が牛を連れてきたのを考えると離れた場所にいるのだろう。


 わたしが立っている道にも変わったところはないし、森にも塔にも変化は見られない。


(ということは……)


 そのまま空を見上げた。そこには虹に囲まれた太陽が、塔の真上から左にずれたところに佇んでいる。


 わたしが解放される前は、太陽が塔の真上にあったはずだ。


(太陽が、左に動いてる)


 日本では太陽は右に動く。ここは地球でいうところの、南半球に位置しいているのだろうか。


「―――――――!」


 お巡りさんが大きな声を出して手招きする。知らない言葉で、わたしを呼んだのだ。


 手錠が外れて自由が近づいたせいか、ここが知らない場所という実感が強くなってきた。


 お巡りさんのところへ戻ると、少年が小屋から出てきたところだった。


 少年は右手にバスケットを下げ、左手にはどこかで見たような、ガラスの水差しを持っている。


(殺された女の子の、枕元に置いてあった水差しに似てるのかな?)


 殺された――こんな言葉があっさり出てきたことに変な不安を覚えた。


(わたしが寝ている横で人が殺されたんだよね)


 そう思うとぞっとする。わたしが殺されなかったのは、罪をなすりつけるためだろうか。


 少年がバスケットから、ピタパンにソーセージを挟んだような、ホットドッグのなりそこないを取り出してこっちに向けていた。


「……え?」


 わたしが受け取らずにいると、少年はうなずいて、もっと近くまでホットドッグを突き出した。


 ソーセージから油の焼ける香りがして、お腹が震えるように鳴る。


(そういえば、昨日から何も食べていないんだった)


 色々ありすぎて気にする余裕がなかったけれど、お腹は限界を超えていた。


「あ、ありが、と……」


 受け取って一番に感じたのがパンの固さだった。フランスパンのような固さではなく、クッキーのような、パンらしからぬ固さだ。ソーセージを挟むために曲げられた部分はひび割れていて、ちょっと力を入れれば完全に割れてしまいそうだった。


 ソーセージも黒ずんでいて、表面がおじいちゃんの肌のようにしわしわだ。


 いつもだったら口にしようとは思わない。そんな代物だった。


 ふと、目の前で殺された牛が頭に浮かんだ。このソーセージに使われているお肉も、ああいう風に殺された生き物なのだろう。


 気持ち悪くなったりはしなかった。むしろ、もっとおいしそうに調理してあげてよと、ちょっとした怒りが湧いてきたくらいだ。


 そのホットドッグのなりそこないに、思いっきりかぶりつく。


 ソーセージの固い皮を嚙み切っても、肉汁は一切流れ出ない。パンは弾力とか、もっちり感はないのに、妙な固さがあった。乾いた紙粘土をかじったら、こんな感じなのだろう。


 考えるまでもなく、コンビニのホットドッグの足元にも及ばない。味だけでいえば、最低ともいえる食べ物だ。それでも、空いたお腹に食べ物が流れ込んでくる感覚は心地いい。


(ああ、おいしい)


 夢中になって食べきった。

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