異世界は現代に付合するのか
セカイ系からイ・セカイ系への変遷おそらく2010年代以降から強く意識されてきたように思われる。
それ以前にも異世界に転移する話は存在したものの、そこで「チート」、あえて脚色して意訳するのであれば「
従来のセカイ系は世界の終わりと自己を取り巻く環境がぴたりとくっついてしまっているジャンルだと言われている。
この差は単に世界の切り替えが動向の話ではないと私は思う。
世界が終わったのである。
世界が終わることが当たり前になったのだ。
セカイ系なら日々の当てのない不安(人間関係、勉学…)そういった物を世界の果てという巨視的なスケールにして登場人物を立ち向かわせる。それは逃げれないものであって彼らをいつの日か押しつぶさんとするものとして顕現する。
対してイ・セカイ系においては人生を一旦終わらせる、または世界ごと変えることによって、そういった自分ごと消してしまいたくなるような不安“だった”ものが、自分から切り離され“過去の重石”、つまり超人への道として運命愛を肯定するための装置と姿を変えた…ように見える。
セカイ系が世界=日常を肯定するのであれば、それは回りくどいので、最初からそんなものはすでに消費された(世界が終わった)ものとみなす。
そういう意味ではイ・セカイ系は能動的である。
ところで近年の若者は…というようなワードをここ数年聞かなくなったのは私だけなのだろうか。
むしろ、ずいぶんと「イイコ」が多いように思える。
静かだし、いうことはちゃんと聞くし謙虚だし…まあ皮肉っぽくいうと大人に都合のいいのだ。最近の子は。
そのかわり、自分を責めることが多かったり、流されるままに生きている人も少なからずいるように感じる。
若者…所謂Z世代というのだろうか。
彼らは私にとっては随分豊かな生活を送っているように見える。
欲しいものがワンクリックですぐ手に入るし、昔のように駅の掲示板に待ち合わせ時間を書き込んだりしない。
しかし、いいことばかりではない。ネットは時としてしがらみを生んでいる。
そういうものはミュートする。ブロックする。リムる。アカウントを消す。
昔以上にコンテクストの鮮度が命の世の中では、情報は生きているようにも思え、一つの世界、そこでの
それを消すということは世界をおしまいにすることに似ているように見える。
あるいは。
その世界で、自分の抑圧された気持ちを言葉にしてぶちまける。仮面を被って実際に攻撃する。
本当に個人的な意見でしかないのだが、これが「チート」だと思っている。
そして飽きるとその世界は終わるのである。
だがここで一つ自分に対して疑問が浮かぶ。
それは“超人”と形容してもいいのかと。些か程遠いものに感じる。
そこに沿わせようとするには歪だ。
超人はそもそも不安を乗り越えきっているという前提がある。
この歪さこそがイ・セカイ系のエッセンスであり面白い部分だ。
イ・セカイ系はエタる(未完になってしまう)ことがそこそこ多い(個人の感想です)がその原因としてモチベーションが上がらないので執筆が続かないという点がある。
なぜモチベーションが上がらないのだろうか。
メタ的に言えば、読んでもらう前提だからである。投稿サイトに上げる場合、自己満足で物語を作ることは火打ち石にはなるが、燃料にはならない。
世界や時間、次元は増え続けても超越には至らないのは、いち投稿者としての自分がどうしても存在するからである。
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試しにここでエタってみよう。
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