よいすぷらったー

 内臓がなくなったことを想像したことはあるか。

 自分に欠損を強く感じたことがあるか。

 私にはある。

 恐ろしいのは私が、私の中身である五臓六腑が、空気だけになってしまったのではないのかと、自分が空気と同義になってしまったのではないのかと戦々恐々と生きていく自分しか見えなくなることだ。

 血は空気である。

 物質的な話ではない。我が形而上における話だ。

 血が我々に通っている限り、我々は空気だと薄々感じているのではないか?

 私は体の一部が血の塊の臓器と空気とが入れ替わったことでより強くそれを感じることとなったのだ。

 つまり、“空”恐ろしいのは新鮮な概念ではないのだ。

 我々は考える葦であるという言葉は有名すぎるほどだが、もっとも土、水、空気、そして踏まれた痛みを知覚することが何よりも難しい。

 そしてその空気ですら我々であるとするならば、いかんせん我々は曖昧模糊だ。コラージュだ。

 そして難しいことは感情の隅に追いやられて増幅し、Xというブラックボックスの中に入れられて恐怖という感情の処遇として置かれることになる。

 そして認知する。

 たまたまそれが楽園に蛇、楽園に林檎に知覚されだっただけのこと。

 生命の定義は永遠に不可能だ。なぜなら空気とは物質的に理解できてもそれはどこからやってきてどこへ行くのかわからないからだ。

 人間が生命として意志を獲得する瞬間を、誕生の瞬間を、未だ自ら新たな事象として発生させ、観測できないように。

 つまり我々は欠損があるために記憶に縋り付き情報を埋め合わせるという自己保存を生として獲得している。

 しかし、そうは言っても欠損が多いから“人間味”が増すというのは中々に言い難い。

 自己保存が不可能なほどにかけてしまうのならば緩やかな死が待っている。

 だから私が恐怖したことは自己保存できなくなることに対しての虚無感的な何かである筈だ。

 論が罷り通っているかは気にしていない。なぜなら自己満足を私の中に保存できさえすればいいのだ。

 それが空気とわからなければ我々は虚無的な臓器を満足に保存する。

 認知は欠損を見つけるシステム。

 空気を食べることができるのか。

 体がバラバラに砕け散る。

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