第一章①
「もうっ!鷹斗さん、聞いてます!?靴下は脱いだら洗濯機に入れてくださいって何回言ったら分かるんですか!?洗うのは私なんですよ!?ちょっとは私の身にもなってください!」
「だーっ!もう、分かったって!次は洗濯機に入れておくから!ね?由衣ちゃん、ごめんって!」
朝から家の中は賑やかだ。
「頼むから……静かにしてくれ……耳が……」
テーブルの上に突っ伏している椿。耳を押さえていた。
彼の特性ゆえに、耳の良さは動物並みだ。
「音が……」
彼がそう呟くものの、二人には聞こえていない。
三人での同居生活が始まり、一か月。
はじめはいろいろと遠慮していた二人だが、一か月もたつと遠慮はなくなるらしい。
「ここは俺んちだぞ……」
椿はそう言うが、言い合いをしている二人の耳に、椿の小さな声など入る訳もなく、彼は“秘密の部屋”へと籠った。
「ったく……なんで俺が逃げてんだ……くそ、耳が痛すぎる……」
椿は軽く頭を振り、耳を引っ張った。
彼は幼いころからの能力と、持って生まれた特性のせいで、音や光に異常に敏感だった。それだけでなく、人の感情までも自分の中へと取り込んでしまう。簡単に言うなら、相手の感情が分かるといった感じだろうか。
言い合いや喧嘩など持ってのほか。感情の嵐で、自らもしんどくなると椿は言う。
「どうせだからちょっと整理するか……」
一年前の出来事の後、椿は精神バランスを崩した。
最愛の父であり師である、陽行を死なせてしまったからだ。椿が直接関わっているわけではない。だが、昏睡状態に陥った彼を助けるために、陽行は自らの命を彼に移し、この世を去った。それを、椿は自分のせいだと未だに思っている。
精神バランスを崩した椿は、自分の部屋に結界を張り、出てこなくなった。
食事もまともに摂らない日々が続き、会話もない。顔を合わせるのでさえ、数日に一回あるかないか……。
そんな彼を心配し、鷹斗も泊りに来たこともある。由衣と情報交換し、椿を必死に看病した。だが、彼の心はなかなか元には戻らない。
精神バランスを元に戻すのに、一年かかった。
不安定になっている一年、椿はこの部屋に入ることはなかった。ここには自分のすべてが詰まっている。
手つかずになっていた一年、汚れも埃も、溜まっている。それを最近になってようやく片づけられるまでになった。
だが、掃除をしていた彼の手が静かに止まる。
「あ……」
彼の視線の先には、陽行との幼いころの写真だった。
教会に併設されてある施設前で撮った写真。写真の裏には“椿・五歳”の文字。
『椿~!五歳の誕生日おめでと~う!ほら、ケーキだぞ!』
『わ~!これおれのすきなやつだ!ありがとう!とうさん!』
この時の記憶がよみがえってくる。この時はまだ、陽行が育ての親だと知らなかった。本当の父親だと思っていた。
『お前は本当にかわいい子だな』
『とうさんにそっくりだよ』
そう言う俺を、陽行は嬉しいような悲しいような目で見ていた。今なら分かる。この時の父の感情は“複雑”というものだと。椿は写真をそっと撫でた。
「父さん……ごめん……死なせてしまって……俺なんか助けなくても……」
椿の周りには“負”が集まってきた。
部屋の明かりが点滅する。窓なんてないのに生暖かい風も吹いた。
「……さん!……椿さん!」
「おい!椿!開けろ!開けねえとドア、蹴破ってやるぞ!」
遠くに由衣と鷹斗の声が聞こえる。
「あ……」
椿ははっと我に返った。
写真を元に戻し、そっとドアノブに手を掛ける。
「あ!椿!大丈夫か?何があった?」
「別に……何でもない……」
彼はそうぶっきらぼうに言うと、キッチンへ行き、冷蔵庫を開け、作っておいたアイスコーヒーをグラスに注いだ。
「椿、何があったのかちゃんと話してくれ」
「だから何もないって。片づけてたら結界が壊れただけだ」
そう言うも、鷹斗は彼が嘘を言っていると気付いていた。
「……由衣ちゃん、椿……嘘ついてるだろ?何があった……?」
「おい!なんで由衣に聞くんだよ!俺が嘘ついてるって証拠あんのか!?」
「椿、お前な……俺に嘘がつけるとでも思ってんのか?嘘ついてバレなかったことあるか?ないだろ。俺は刑事なんだぞ。相手の嘘の一つや二つ、簡単に分かるに決まってるだろ。それに、お前は嘘ついてるとき、分かりやすいんだよ。由衣ちゃんの口から話されたくなかったら、お前が話せ……。お前が言う“負”ってやつ?また溜め込んだらヤバいことが起こるだろ……」
鷹斗はそう諭す。
椿は折れた。
「……写真……」
「写真?」
「ああ……父さんとの写真が出てきたんだよ。片づけてたら、目の前に落ちてきやがった。それ見て感情がおかしくなっただけだ……」
椿はそう言うと、机に突っ伏した。呼吸が荒くなるのが聞こえる。やがて鼻をすする音も聞こえてきた。
「椿さん……」
鷹斗は由衣に「本当か?」と聞いた。声は出さず、心の中で。「はい」と由衣も声を出さず頷く。
それを確認した鷹斗は、そっと椿の隣に座り、彼の背中に手を当てた。
「そうか……写真か……。確かにあれはヤバいな。見てたら色々思い出してくるもんな……」
彼がそう言うと、静かに椿が泣く声が聞こえてきた。
家の中に変化はない。由衣はあたりを見回す。
目で鷹斗に合図し、二人は椿をリビングに一人にした。
「由衣ちゃん、あいつ……」
「すぐに落ち着きますよ。椿さん、今までも何回かこんなことがありました。でも、すぐに落ち着いて、“由衣、コーヒー”って言ってくるんです。心配しなくて大丈夫ですよ」
由衣は慣れているのか、笑った。
「由衣ちゃんはこの一年、ずっと椿といたんだもんな。こうなったときの対処の仕方も、俺より知ってるよな……」
「もちろん。助手兼お世話係ですから」
二人は庭に出て、椿が落ち着くのを待っていた。
そして数分後、感情コントロールで何とか落ち着いた椿は、念で由衣を呼んだ。
「あ、椿さんが……」
由衣は部屋に戻り、「どうしました?」と声を掛ける。
「コーヒー……」
彼女が言った通り、椿は由衣にコーヒーを求めた。
そんな様子を見ていた鷹斗は、思わず笑いがこぼれる。
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