2
数日後、サクラから連絡があった。今日依子さんとサクラと夢乃さんでカフェで話をするそうだ。暇ならくればとのことだったので、暇をつくっていくことにした。黒のネックタートルと、チェック柄の濃いめグレーのジャケットと、タイトなシルエットの明るめのグレーのパンツに白のスニーカーで出かけた。吉田山のうえにあるカフェで待ち合せのため、自転車をまたいで急いだ。行くと時間より早く着いたみたいで、僕は先に中に入ることにした。窓辺の席が好きなのでそこに構えて、ブラックコーヒーをお願いし、ひとり文庫本を読むことにした。川上弘美のセンセイの鞄はまだ半分も行ってなかったので、丁度良い時間つぶしになりそうだった。川上弘美の文体を撫でるのとてもいい。この人の優しさがにじみ出ているのだから、僕もその気持ちに添えるし、できれば似たような女性と一緒にいたいと思っていたら、依子さんが先についた。
「おつかれー、あれ? サクラは?」
依子さんがそう言ったので、僕こそ依子さんと一緒に来るものだと思ったと伝えた。そういうと、「そう」とだけ短い返事をして、何を頼んだの?というあたりさわりのない会話でつないだ。依子さんは今日は仕事が昼までだったので、そのまま来たそうだ。仕事帰りのためほんのり頬が赤い。寒さのせいか、働いていて血流がいいのかだと思う。窓から外の景色が見えて、冬間近の外は、心なしか、景色の色味も少なくなっていた。依子さんが頼んだ飲み物が運ばれたころ、サクラと夢乃さんは一緒に来た。
「よお、お前何読んでんの?」
めざとく、近くに置いてあった文庫本に気づいたサクラが、依子さんの隣に座りながら僕に話しかけた。依子さんはにこやかに、夢乃さんに挨拶をした後、座るときに自分に声をかけないサクラを凝視していた。夢乃さんはダッフルコートに黒のニット帽をかぶり、チェックシャツにニットを合わせた格好で、およそあの夜の女性とは思わせない雰囲気がでていた。大きめの黒縁メガネが、大きいはずの瞳を囲い、ただ、可愛いだけの恰好を拒否しているようにも見えた。
「え、川上弘美のセンセイの鞄だよ」
「へえ、お前、それ好きそうだよな」
と言って、メニューを開いて夢乃さんに見せながら、サクラは僕との話を紡いだ。夢乃さんはこのお店は初めてだったらしく、メニューを見ながら依子さんにおすすめを聞いていた。依子さんはシフォンケーキを勧めて、二人でどの味にすべきか吟味し始めた。そうすると店員が注文を取りに来たので、二人が悩んでいるのでサクラがコーヒーを頼んで、もう少し後にもう一度注文をさせてほしいとお願いした。夢乃さんは小さく、ありがとうとサクラに伝えた。
「小説を読むのと、音楽を聴くのと、映画を見るのと、どれかひとつしか一生でできない場合、何を選ぶ?」
メニューが揃った頃に、サクラが周りを見ながらそう話しだした。一つしか選べないのなら小説かなとぼんやり考えていたら、夢乃さんが
「私は音楽にするわ」
と言った。
「俺も」
とサクラも続いた。二人は小説も、映画もどちらも好きだけど、自分の人生でどちらもあり得るかもしれない。そう考えたら、必要なのは自分の人生を彩る音楽だそうだ。二人はそんな風に考えていた。
「私は、映画かな。小説は読まないし、映画なら音楽も入っているしね」
と依子さんが言ったので、僕は小説と返した。それぞれ違っていいなとおもったのだが、どこか、おなかの底にある重いもので引っ張られているような胸の気持ちになった。
「わたしは自分のいろんなものを知ってるつもりだけど、私を全部わかる人は必ずいて、その人は私の知らない私を教えてくれるの。そんな人に出会えたら一瞬で私も分かってしまって、好きがとまらなくなるのよ。それって、躊躇すべきことじゃないわね。だって、何一つこの世に決まったことがないのよ。安定なんてまやかしだけど、私の直感はいつだって私の傍にいるのだから」
「俺も、自分のことを広げてくれる人と一緒にいたいし、その人に全てを委ねたい。自分の柔らかい部分は多くの人にさらすわけにはいかない。そうすると崩れてしまうものがあまりに多いからね」
夢乃さんとサクラはそのように語り合った。夢乃さんの言うことは大まかそのような人なのだろうと思っていたので、良いのだが、サクラの言ったことは僕のことではないのだろうと思ってしまった。サクラが僕の前で弱さを見せてくることはそれほどない。酔ってつぶれてでもしない限りは。そう思って、コーヒーの残りを見つめたら、目の前に座っている依子さんが、ぼそぼそとシフォンケーキを食べていた。もし、目の前のシフォンケーキが棒倒しの砂ならば、彼女は周りからブーイングをくらうぐらい、フォークにシフォンケーキを乗せれていなかった。
夢乃さんの趣味や、最近見た映画、本や、音楽、行った場所や、こんど行きたいところなど、いろいろと話してくれた。どれもこれも、素敵でいいなと思った。だけど、どれもこれもサクラがいいなと言っていたり、勧められたりしたものが多かった。
「私は、ヨーロッパに行きたい。歴史が深いし、それに人も社会も成熟しているし。何より彫刻を見に行きたいし」
どこに行きたいかなどの話題の時の依子さんだ。確かにヨーロッパには歴史深い彫刻が多そうであった。依子さんのシフォンケーキが完全に時間を止めてしまっていたが、またフォークをさしてシフォンケーキの時間が動き始めた。僕もヨーロッパに行ってみたいと言って、行くならパリやドイツの街並みがいいなと感想をいったところで、夢乃さんがイングランドがいいわよと教えてくれた。ロンドンの街並みにサングラスをかけた夢乃さんが歩くところを想像した。闊歩というべき彼女の姿は、とても似合っていた。
「そろそろ私は帰ろうかな、ありがとう。依子さんまた連絡頂戴。あとユウくんもお店に顔をだしてね。じゃあ、サクラもさようなら」
あ、と言って夢乃さんは依子さんのシフォンケーキをみて食べないのと聞いた。依子さんは口に合わなかったみたいと返すと、夢乃さんが、それじゃあたしがもらおうかなと食べてしまった。その時の夢乃さんは、とても可愛らしく、あの夜の僕の横にいた夢乃さんだった。
夢乃さんが出た後、お会計をすませたサクラが、スマフォを確認してから
「悪い、急な用が入った。依子先に帰ってくれる?」
と言った。本当の急な用が入ったのだろうか。
依子さんは下を向いて、頷いた。サクラは手をあげて、「またな」と言った。これまた効率のいい最後の挨拶だった。
自転車を押しながら、依子さんを途中まで送っていた。依子さんは全然しゃべらないので、僕も併せてしゃべらないようにした。自転車がカラカラとタイヤを回す音を奏で、二人の歩く靴の音をかき消してくれた。それが無ければ、回廊を二人きりで歩くような静けさと緊張感だったろう。サクラは何をしているのだろうとふと思ったが、考えるのを辞めようと思った。冬の風が吹いていた。来月には初雪が降るだろうなと、思っていたら、横に依子さんが居ないことに気づき後ろを振り向いた。
「ねえ、私って全然だよね」
一瞬わからなかったが、でもすぐに分かった。サクラのことだろう。
「そんなことないよ。依子さんは素敵な人だと思うよ」
そういった言葉が空中で霧散してしまうのはわかっていた。彼女は僕に言葉をかけてほしいわけじゃないから。
「夢乃さん」
一呼吸、その間、依子さんは下を向いていてくれたから良かったものの、僕はきっと瞳孔がひらいたか、瞬きが増えたか、とにかく、胸が締め付けられ、動揺が走ったに違いない。
「夢乃さんみたいな、人が、いいんだろうな」
下を向いた。かける言葉が見つからないってこういう時にあるんだなって思ってしまったし、僕は夢乃さんが欲しいと願っていたのだと気づいた。そうして、「願ってしまっていた」のだとも気づいた。
「私じゃないのかな……」
か細い声が響いた。気づけば、依子さんの家の近くまで来ていて、周りは夕方の前のひと時で、閑静な住宅街は夫の帰りを待つために家の支度に忙しいに違いなく、人通りが少なくなっていた。だから、彼女の声が耳にとどいたみたいなものである。
彼女の傍に戻り、背中を撫でてあげた。彼女は泣いてはいなかった。
「ねえ、そんな風に思わない方がいいと思う。僕だって自分の足元が泥みたいになっちゃてるけど、自分で泥の底にしゃがんじゃいけないよ」
そう言って、自分でも足元が不安な状態なのだと気づいた。
「ユウくん、ありがとう。でも今は、私に触らないで。そう。ごめんね」
そう言って、依子さんは前に進み始めた。空中で浮いた僕の手が置き場をなくして彷徨っていた。
「依子さん、あの作品、すごい良かったよ」
依子さんは、少しだけ、こちらを見てにかりと笑った。
「ユウくん、髪の毛って言ったじゃない。あれ、違うから。ぜんぜん違うから。あれは髪の毛なんかじゃない」
そうか、違ったのか。謝ろうとしたら、こっちを見た依子さんが、にやにやしていた。
「あれね、私の、排泄物よ。私そのもの」
そう言って、僕の眼を2秒ほど見つめて、じゃあねと駆けていった。僕は、動けなかった。そうだ、あれは髪の毛にしては少し、異物すぎた。あの異物が、僕にはちょうど良かった。依子さんはこちらを見ないでいなくなってしまったが、僕は僕で、あの日みた依子さんの作品を思い出した。男の人が女の人に取り込まれそうになっていたなと思い出したところで、そういえば、あの作品のタイトルを思い出せなかった。なんだったろうか。
「あ……【うずまく】か」
周りが夕刻を迎え、カラスが家につこうとしていた。太陽は沈んでいった。
◇◇◇◇
そのあと、サクラと依子さんは別れたらしい。夢乃さんはお店を畳んで、海外にいるとのことだ。サクラとはあれからも友達ではある。
うずまく 岸正真宙 @kishimasamahiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます