副業ヒーロー サラ・リィマン 〜社畜のおっさん、ヒーローになる〜

梅谷涼夜

社畜はヒーローになれるのか。

 俺は今までの人生で散々失敗してきた。


 人生の転機にかかわる進学、就職。日常的な細かい失敗は数えきれないほど。

 この三十年を振り返ると我ながら散々だと思う。


 今の仕事はつまらない。そりゃ第一志望じゃないから。


 でも『妥協する人生でもいいじゃないか』そう考えることにしたら、俺の人生は多少マシになった。

 現状に妥協し、会社のクソみたいな仕事をただひたすらにこなす日々。そうしているとあっという間に月日は流れ、いつの間にかにもう八年。俺も流れるままに中堅に。


 もし過去の俺にアドバイスできるなら、そんなこと考えたりもする。入試前の体調管理は万全にしとけとか、就活の面接で余計な事を口走るな、とかいろいろ言いたいことはある。


 勿論それで何かが変わるわけでもない。ただ、人生をふりかえって後悔を吐き出してるだけ。


 でも一つだけ、たった一つどうしても過去の俺に忠告したいことがある。


 なぁ、中学三年の守人英雄もりとひでお。お前が十五歳になったその日の午前零時、お前はある生き物と出会う。


 その生き物とは月明りキラキラと反射させ、全身を白銀に輝かせながら、


「君は英雄君だね?」


 と喋る小動物。


 『日本語を話す小動物が、初対面で自分の名前を言い当てた』という枕元に突然訪れた、突拍子もなく現実とは思えないほど数奇な出来事。


 その出来事に俺は完全に心を奪われていた。


 そして中二病が抜けきっていなかった俺は、そいつを「神の使い」だと信じて疑わなかった。

 今思い出しても恥ずかしいが、「ついに来た!」とすら思った。


 でも今ならわかる。そいつは神の使いなんかじゃない。悪魔だ。


 そしてその悪魔は呆気にとられた俺に向かって、こう言った。


「僕と契約して、ヒーローにならない?」


 当時変身するヒーローや魔法を使うヒロインに憧れていた俺にとって、その提案は十分すぎるほど魅力的だった。


 でも、その魔法のような言葉に、絶対に耳を貸すな。


 ――その悪魔に人生を狂わされたくなかったら。



 *        *



 午前六時。


 今日も目覚まし時計に叩き起こされ、寝起きは最悪だし気が重い。だが今日も今日とて仕事がある。

 寝ぼけ眼でテレビを点けニュースにチャンネルを合わせる。


「人類が初めて知的外宇宙生命体と友好関係を結んだ記念すべき日から、早くもあと一週間で五年が経過しようと――」


 その映像を横目に洗面所へ向かい、顔を洗って髭を剃る。


 顔を確認、剃り残しなし。

 相変わらず冴えない面だが、最低限の清潔感は確保できてる。


 そのまま寝室に戻り、年季も入りくたびれたスーツに着替える。

 荷物をまとめ玄関に。鏡で全身を確認。くたびれたスーツ以外は問題なし。


 ただ、なんか右肩がやけにくしゃくしゃ。週末にアイロンがけしよう。


 酎ハイ、ビールのロング缶、ハイボールの空き缶の詰まったゴミ袋、それとビジネスバッグを抱え家を出る。

 共用のゴミ捨て場に缶を捨て去り、駅へ。


 最寄り駅で午前七時二十五分発の快速、その電車に人込みを押しのけ無理やり乗る。現代の奴隷船に揺られながら、目的の駅に八時着。

 電車を降り、駅のキオスクでツナマヨと梅おにぎり、いつもの朝食セットを手に取りキャッシュレス決済。


 八時十五分。


 会社に到着。自分のデスクに直行し、ようやく朝飯。

 そこから、自主的な、就業準備。


 午前九時。


 正式に就業開始。そこからは特に語ることもない、しょーもない仕事が始まる。

 上に頭を下げ、下に指示を出し、下から上がってくる資料に目を通し、報告書をまとめ上に出す。


 語ることがあるなら、昼飯の社食のカレーくらいなもん。

 決して飛び切りおいしいわけではない。でも、食べてて安心できる懐かしい味。それが五〇〇円で食える。


 そんな昼休憩も終わり、仕事再開。再びパソコンと睨み合う。

 最近、長時間同じ体制をしてると肩が凝る。入社したばっかのときは全然そんなことはなかったはず。

 まだ三十代になったばかり。一般的にはまだまだ若いとはいえ最近急激に肩が凝るのだからしょうがない。


 午後五時、就業時間の一応の終わり。

 退社する社員たちに挨拶をし、見送りつつ、一息つきに自販機コーナーへ。そこでブラックコーヒーを買って、休憩用の椅子に腰かけながらコーヒーを飲む。


 そんなとき、


「お疲れさん」


 と聞きなれた声。その方を見ると、首に大森陽彩おおもりひいろと書かれた社員証を下げる、艶やかな黒髪ロングの女性。


「大森か、お疲れさん」


「最近頑張ってる同期にコーヒーでも……、ってもう買ってるのね」


「悪いね。ま、気持ちだけでも受け取っておくさ」


 そう言って大森は自分の分のカフェオレを買ってこっちに来る。


「最近ほんと頑張ってるよね。あんた」


「好きでやってるわけでもないんだが、でも上から割り振られてしまった以上やるしかなかないだろう」 


「でも端から見てもキツそう。老けた?」


「そんな気はする。ここ二か月で肩こりが。特に右肩なんか重りでも乗ってるんじゃないかってくらいキツイ」


「ここ二か月激務だしね。その様子だと今日も残業?」


「上に怒られない程度には」


「最近のあんた、働き方改革に逆行してるからね」


「しょうがない」


 大森はそう言いつつ、胸ポケットから電子タバコを取り出し吹かし始める。


「でも、そんなに激務続けてると肩以外にも何かしら影響でてそう」


 影響ねぇ。自分にことも顧みないくらい忙しかったからなぁ。


「あっ! そういえば、笑うなよ?」


「別に笑わないって」


「最近たまになんか、戦え……戦え……、って囁き声が聞こえる」


「あんた、なんかキメてんの?」


「そんなわけないだろ」


 大森はいつになく真剣なまなざしで俺を見る。


「過労で倒れる一歩手前って感じ。今日くらいゆっくり休みなよ」


「そうか?」


「そうそう。自分の生活を守るためってのは分かるけど、その前に身体壊したら元も子もないでしょ。命あっての生活! だから、一日くらい休憩いれたって誰も咎めないって」


「命ってまた大げさな……」


「本当に大げさなら過労死なんて言葉は生まれてない。それにこんな仕事、あなたしかできないことじゃないんだし、幻聴聞こえるほど追い込まなくてもいいでしょ」


 言われてみればそれもそうか。


「せっかく今日は好きだって言ってた……、なんだっけ? マジョ……」


「魔法英雄マジョマギア」


「そう、マジョマギの日なんだから、リアタイでもして来週に向けての英気を養いなさいな」


「たまにはそうするか」


「お疲れ」


「お疲れさん」


 飲み終わったコーヒーをゴミ箱に放り込み、デスクに向かって帰り支度。


 そして午後五時半、二か月ぶりに早めの退勤。

 いつもなら切羽詰まって作業を続けているだろうが、今日はこのまま帰れる。不思議と罪悪感もない。なんだかいいことありそうだなんて思いながら帰路につく。



 *        *



 同期に勧められての久々の早帰り。

 いつもと違い、帰宅ラッシュで混雑する電車。たかだか二か月ぶりでしかないが、なんだかこの混雑が妙に懐かしい。

 特快に乗るのも、最寄り駅に到着し人込みを掻き分けて下りる感覚も。


 下りる駅に到着し、夕食を調達しに駅に隣接するスーパーにに立ち寄る。

 食料品コーナーは、俺のような会社帰りのサラリーマン、献立にあと一品を求める主婦、お年寄り、学校帰りの若いのたちでごった返してる。


 俺は買い物かごを手にして、総菜コーナーへ。

 そしてその場へ行って軽くショックを受ける。


 陳列棚が埋まっている! そして、商品にお勤め品のシールが貼られていない!


 こんな光景を見たのはいつ以来だろうか。ここ最近は早く帰れて閉店ギリギリ。大体は閉店後なんてのが当たり前だった。


 こんな当たり前のことでここまで感動できるってことは、やはり相当疲れていたんだな。この感覚を思い出させてくれた彼女には感謝しないと。


 そんなことを考えながら、今日の晩飯に頭を悩ませる。

 とりあえず、家には冷凍のプチ晩酌セットがある。だから、ツマミよりは飯モノ。


 考えた末、大盛り中華丼に総菜のから揚げを選び取りレジに向かい、合計金額にして八四八円。たまの贅沢ならこれも悪くない。

 千円札を渡し、つり銭を受け取り、希望の詰まったレジ袋を手に下げ帰る。


 家に帰ると明日が来る、なんて最近は帰るたび思っていい感じはしてなかった。

 だけど今日は違う。今日だけは仕事を忘れ、夕食を楽しみ、好きな番組を見たいだけ観て一日を終える。

 そうできると思うと、家に向かう足取りも自然と軽くなる。


 口笛なんか吹きながら歩みを進める。幸せが待っている愛しの自宅へ。


 マンションに着き、エレベーターを待つ。ちょうど目の前でエレベーターを逃そうと、だいぶ上の階に向かってしまっても、今日は全然気にならない。

 やってきたエレベーターにい乗り込み、自分の階に。そしてウキウキ気分のまま、施錠を解除しドアノブへ手をかける。


 その瞬間――どうしてか全くわからないが――悪寒が全身を駆け巡った。


 この先に絶対に入ってはいけない、そう警告されているような雰囲気。しかし、厳かで背筋も伸びるようなこの感覚。


 いや、俺はこの感じを知っている。よーく知っている。それこそ、二度と味わいたくなかったほどに。そしてこのまま部屋に入ればどうなるかも。


 それでもこのまま扉の前で立ち尽くしてるわけにはいかない。

 意を決して戸を開ける。


 開けたドアから出てくるのは生ぬるく気色悪い風。俺の1DKは照らされるはずのない月明りに照らされ、玄関までもが昼のように明るい。

 そしてその月明りに照らされながら――


 俺の人生を狂わせた悪魔が、酒盛りしている。百九十九円の枝豆とビールのロング缶を小さな手で器用に持ちながら。


「もぐもぐ……、ゴックン。やぁ、今日は早いんだね」


 頭は犬、耳と身体はウサギ、足と尻尾は猫という姿の一見愛らしくも見える悪魔は、俺にそう語りかける。でも、俺はそれに何も答えられない。


 なんたって、二度と会いたくなかった奴が自分の部屋で酒盛りしてる。十中八九こうなるだろう。


「どうしたんだい? そんなとこにぼけっと立ったまま。上がりなよ、君の家だろう?」


 そうだ、ここは俺の家だ。というか、何でこいつに家主面されなきゃけないんだ。


「そうだよ。ここは俺ん家だ! どうして我が物顔で上がり込んでるんだ、この害獣」

「害獣とは失礼な! 忘れたのか? 僕にはちゃんと『ドリーミィ』って名前があるんだ」


 人の家に上がり込んで好き勝手食い荒らすその姿。害獣と呼ばずになんと呼べばいい? この合成獣キメラ


「キメラ呼ばわりとは心外だね!」


「人の思考を勝手に読むな!」


「キメラもなにもこの姿が標準的なドリーミィの姿さ! 下等生命体である君たち人間の認識というは実にちっぽけだ。そんな枠組みですべてを判断しないでもらえるかなぁ?」


 なんだか上司と話してる気がしてきて、ほんとめんどくさい。


「というか人の家と機嫌を荒らしに来たんなら、話すことは何もない。とっとと帰ってくれないか」


「じゃあ本題に入ろうか、守人英雄くん」


「君付けはやめろ」


「前はいつも呼んでいたじゃないか?」


「もうそんな歳でもない。馴れ馴れしい」


「じゃあ、ヒデオ。もう一度、僕と契約して――」


「それ以上言うな」


 なんで今になって、あの忌々しい言葉を聞かなきゃならない。


「人の話は最後まで聞けっての。君も失礼な奴になったもんだね」


「聞かなくてもその言葉の先はとっくに知ってんだよ。僕と契約してヒーローにならないか? ヒーローになってくれた暁には、君の願いを可能な限り何でも一つ叶えてあげる。だろうが」


「覚えているなら話が早い。さあ早く!」


「ふざけんな。昔した『二度と俺の前に現れるな』って願いを一方的に破っといて、何が願いを叶えるだ」


「君の願いを破ったのは申し訳ないと思っている。でも、経験者で即戦力になりうる君の力が必要なんだ!」


「だからって対価もなしにまた戦えってか? 二度とごめんだ」


「だから今回、特別に再契約としてもう一度君の願いを叶られるような形を取ってる」


「他をあたってくれ」


「この星にタナトスンが攻めて来るまで、あと一週間しかないんだ!」


 ドリーミィは前足で机を殴りつけてそう言う。

 その衝撃に空のビール缶もひっくり返る。


「そうやって相手の心理状態を圧迫して契約を迫る。お前らの常套手段だろ?」


「そんな訳ないだろう? 今はまさに、君らの星が滅びるかどうかの危機的状況なんだ!」


「じゃあお前らによっぽどの願いを叶えてくれないと困る」


「そのつもりさ」


 ドリーミィは俺の目を見ながらきっぱりと言い切る。


「なら俺の願いはその危機的状況を根源的に取り払え、だ。とっとと叶えろ」


「そんな都合のいい話あるわけないだろう?」


 やや食い気味にそんな返事が返ってくる。


「やっぱりほら吹きじゃねーか」


「あのねぇ、そもそも僕らがその願いに応えられるとしたら」


「したら?」


「僕らはとっくに叶えてる」


 予想外に正論が帰ってきて少し困惑する。


「……なら俺の人生を返せ」


「君の人生を? それはいったいどういう意味だい?」


「お前とかかわったことで俺は人生に失敗した。進学も就職も! だからその分の人生を返せってんだ」


「無茶苦茶な言いがかりはよしてくれ。僕とかかわったことと君の人生の失敗、因果関係がサッパリだ」


「センター試験の一週間前。忘れたとは言わせないぞ」


「センター試験……?」


 ドリーミィは何も覚えていないのか少し考え込む。

 大事な人生の分岐点を忘れやがって。お前が原因のくせして、ふざけんじゃねえ。


「変身後のバックファイア」


「……ああ! その節は悪かったね」


「悪かった? センター一週間切ってたってのに、人の都合もお構いなしに異星人と何連戦だ? そんでもって、その反動で身体が動かず寝込むしかなかった俺はセンターの会場にも行けなかった! なのにお前は悪かったの一言だけ? ふざけんなよ!」


 忘れもしない。正確には三日でボスクラス計六体の超オーバーワーク。


「就職にしてもそうだ。面接のときに――」


「ちょっと待ってくれ! 確かに原因はこっちに起因してはいる部分もあるけど、仮に君が万全だとして、進学にしろ就職いしろ成功していた保証なんかないだろう」


 知るか。全部お前のせいだ。


「それに」


「まだ何か文句でも?」


「時間干渉なんかできるわけないだろう」


「じゃあ、何なら叶えられるんだよ!!」


「君の言ってることが滅茶苦茶なんだ!!」


 俺とドリーミィの拳を受けて机が悲鳴を上げる。その衝撃で机の上の空き缶が地面に転がり、零れた酎ハイがフローリングを濡らす。


「昔の君はこんな滅茶苦茶な願いを吹っ掛けるような奴だったかい? 昔の君は言った。『強大な力で誰かを守るって憧れ、夢が叶うんなら、それだけで十分だ』って。そしてその通り、対価もなしに戦ってくれたじゃないか」


「それは過去の話だ。人間ってのは年月が経てばおのずと変わるんだ」


「でも、その憧れは今も変わっていない、違うかい?」


「どうしてそう言い切れるんだ!」


「部屋の隅に綺麗に飾ってある変身グッズたち。あれは、あのとき君が憧れていたヒーローやヒロインのものだろう? しかも大人向けに販売されてるグレードのいいやつだ。もし君の憧れが変わっていたとしたら、そんなものわざわざ集めたりしないはず。違うかい?」


「……」


 クソッ。


 この害獣に心の痛いところを突かれて、俺はつい言葉に詰まる。


「ああ! 確かにあのときの憧れを未だに引きずって生きてるさ!」


「じゃあどうして僕の提案を、憧れを叶えるっていう、君にとって魅力的な提案を断るというんだい?」


 魅力的? そんな提案はもう俺の目には魅力的には映らないんだよ。


「この歳まで生きてきて、もう痛いほど分かる。憧れだけじゃ飯は食えないし、自分の生活も守れない、ってな」


「他人に言われたことに機械的にはいと答え、指示に従い死んだように働くだけ、そんな今の君の生活に守る価値なんてあるのかい?」


「逆だ。そうすることでこの生活が守られてんだ。いつでも高みの見物決めこんでるような、宇宙人に何が分かる」


「やっぱり地球人、とりわけこの日本という国に住む種族のことは分からない」


 お前ごときに理解されてたまるか。感情もない生命体風情に。


 でもそれを聞いて、何かが心に引っかかる。


「……、ん? というか、どうしてお前が俺の今の生活を知っている? しかもまるで近くで見ていたかの如く」


「そりゃ、ここ二か月きっちり君を近くで見ていたからに決まってるだろう?」


「どっから?」


「君の肩の上でずっと見ていたよ。それに君が戦いたくなるように語りかけていたのに全然気づいてくれないし」


「肩の上?!」


 ……ってことは!


「最近の肩こり、幻聴はお前のせいか」


「まぁ、そういうことになるね」


「今すぐにやめろ。お前が肩に乗り続けるようなら絶対に戦わない。それと仕事中に話しかけてくるな」


「それが君の願いかい? それなら喜んで――」


「調子に乗るなこの害獣! 帰れ、今すぐに!!」


 俺は衝動に任せて手元にあったテッシュケースをドリーミィ目掛けてぶん投げる。しかし奴は軽い身のこなしで箱をヒラリと躱す。


「分かった。埒が明かなそうだから、今日はこの辺にしておくよ。次会うときは一週間後の今日。その日がこの星の終わりが始まる日。それまでにいい返事が聞けるよう期待しているよ」


 そう言ってドリーミィは光を放ちながら、どこかへ消えた。


 面倒な奴が消えて、この部屋は何事も無かったかのようにいつもの静寂を取り戻す。俺の乱され切った心とは真逆の静けさ。


『憧れ、夢が叶うならそれで十分だ』


 アイツが言った、昔の俺の言葉が頭から離れない。


 確かに昔は純粋にそう思ってた。しかし今の俺の目の前にあるのは、憧れや夢から遠く離れた仕事。ただそそれだけ。

 でも、その仕事をすることで俺は会社員という社会的身分が保証されるわけだし、ある程度安定した収入だってある。言うなれば俺は、自分がやりたいわけでもない仕事に生かされている。


 ――ヒーローやヒロインたちのように、自分の生活を心配せずにやりたいことをして生きていける。俺はもうそんな立場にはいない。


 自分の中に変わらない気持ちがあったって、それを成しえるのは無理なんだよ。


 そんなことを考えながら、壁にもたれかかる。そんなとき部屋を見回して気づく。


 誰もいなくなった部屋で俺を取り囲んでいるのは、大事に大事に飾ってある憧れの成れの果て。


 それを実感してしまった俺はどうにも空しく悲しい気持ちになり、何もする気になれなかった。おかげで楽しみにしていたはずのマジョマギも観ることなく、床に就いた。



 *        *



 ドリーミィが俺の部屋に現れてから、今日でちょうど一週間。

 今日こそがドリーミィは今日がタイムリミットだと言ったが、俺にとっても今日がリミット、先方様との大事な会議の日。


 ここ一週間はドリーミィの邪魔も入らず、集中して業務に取り組むことができて個人的には大満足。一応その辺の決まりは守るらしい。


 これで願いを叶えたことになってなければいいのだが。


 周囲をきょろきょろ見回してみるが、ヤツの姿も気配もない。

 先週あれだけ「大変な日がやってくる」とかなんとか言っていたが、結局のところ契約を迫るための嘘だったらしい。


「何こんな街中できょろきょろしてんの? 緊張かなんか知らないけど挙動不審よ、あんた」


「いや、別に? そんなことはないが」


「ならいいんだけど」


 あんまりにも真剣にドリーミィを探してるもんだから、同行してる大森にものすごく怪しまれている。かといって、本当のことを話してもクスリの使用を疑われるだけだから適当に誤魔化すだけだが。


 やはりアイツと関わったことで、俺の生活の平穏が大きく乱されている。


「ほら、そろそろ着くよ」


 都心のオフィス街に似合わない緑豊かな宇宙遭遇記念公園を抜けると、道路を挟んで地上四十階建ての大きな複合ビルが目に入る。そのビルは低層階にショッピング街や飲食店を抱え、高層階に企業フロアを抱える話題の建物。


 目を引くのは壁面に設置されている国内最大級のオーロラビジョン。これもこの建物の話題性の一つ。いろいろな催し物で使われる予定だというが、今日はニュースが映し出されてている。


 しかし、今日用があるのはその高層階にある企業。テナント料も馬鹿にならなそうなこの場所で日々働ける社員たちと、それでも経営が成り立っているという業績が羨ましい。


「まだそこそこ時間あるがどうする?」


 遅刻なんてもっての外。ゆえに時間に余裕をもって来たわけだが、少々早く着きすぎてしまった。


「その辺のベンチで時間潰すのがいいんじゃない?」


 約束の時間に早すぎるのも向こうに失礼だしな。


「そうするか」


 俺たちは公園の入口まで戻り、ベンチに腰掛ける。


 そこから見えるのは雲一つない青空、青々とした芝生の広がる原っぱ。そこそこ耳に入る車のノイズさえ耳をふさげば、大都会東京の中心地とは思えない光景が目の前に広がっている。



 平日の真昼間ということもあってそんなに人が多いわけではない。でも、赤ちゃんとベビーカーで散歩するお母さんや、楽しく余生を過ごしている老夫婦、大学生くらいの若い奴ら、それに息抜きか時間潰しか頭に雑誌を被せてベンチで横になっているスーツ姿のサラリーマン、そんな人たちが意外といる。


 道路一本挟んだ向こう側にいる労働者たちと違い、みな今日の空と同じくらい晴れやかな表情。


 実にのどかで平和そのものといった光景だ。


 もっとも隣に座っている大森は眉間に皺を寄せて、ノートパソコンと睨み合いをしているが。


「ふぁーあ」


 つい間の抜けた大あくびが出る。

 ベンチに降り注ぐ木漏れ日を浴びていると、大事な仕事の前だってのにどうにも眠気がやってきてしょうがない。


 本能に任せて頭を垂らし舟をこいでいると、


「うぐっ」


 突如として何かがズシンと俺の頭にのしかかる。

 危うく首が取れるかと思うほどの衝撃。


 気持ちよくうつらうつらしているときに何だ、一体。


「ねぇ、あんた――」


「ヒデオ、奴らが来る!」


 大森の発言を遮って、頭の上のヤツが俺に語り掛ける。


 やっぱりお前か、ドリーミィ。


「ちょっとコーヒー買ってくるけど、いる?」


「買ってくるって言ったって、あんた……、えぇ……? ……私はいいわ」


 大森にそう言い残してその場から退散。そして自販機、ではなく公衆トイレに足早に向かう。


「いい加減に頭から降りろ」


 誰もいないトイレで頭の上に図々しく乗り続ける奴に言う。


「うーん。足元は汚いけどしょうがないな」


 そう言ってドリーミィは洗面台の上に降り立つ。


「別に話すのならあの場でも良かったじゃないか」


「お前がいるから人目につかないところまで来たんだろうが。あんな大勢がいるところでお前と話せるかっての」


「いや、今の僕は普通の人には見えてないから大丈夫だってのに」


ドリーミィは前足で鏡を指さす。


 見ろってことか?


 その通りに鏡を見ると、そこに映っているはずのドリーミィの姿がない。どうやら本当に他人には見えてないようだ。


 ならここまで来なくても。……いや。


「見えてなかったらなかったで、虚空に話しかける頭おかしい奴に見えるから却下だ」


「そんな話に花を咲かせている場合じゃない! もうタナトスンが目の前に迫っているんだ!」


「どこに?」


「タナトスンはこの場所めがけてやって来る!」


「どうしてここに?」


「宇宙から見ればこの公園は絶好のランディングポイントなんだ」


 宇宙人がいうのだから妙に説得力がある。


「時間がない。早く外へ!」


 急いでトイレから駆け出すドリーミィを追って、俺も外に飛び出す。


 外に出た俺の視界に飛び込んできたのは、昼間だというのに見えるほど明るい流れ星。

 その流星は空中で周囲が白んで見えるほどの強烈な光を放ち、俺はたまらず目を瞑る。


 その数十秒後、ようやく視界が効くようになったころに襲い掛かってくるのは、空気を揺らし腹の底まで響く衝撃音。近くの音はまともに聞こえず、耳鳴り頭に響いて鳴り止まない。


 そして最後の仕上げに空から原っぱの中心に何かが降ってくる。着地の衝撃が大地を揺らし、その衝撃によって吹き飛ぶように俺の身体は地面を転がる。

 突っ伏している身体にまき上がった芝や土砂が雨のように降り注ぎ、白かったワイシャツを茶色く染める。


「おい! 立ってくれ!」


 そうしたいのはやまやまだが、その辺を転がったせいで全身が痛い。


 でも、痛みに耐えつつその場になんとか立ち上がる。


 空は晴れ渡っているはずなのに土煙が視界を閉ざして、数メートル先すら見えない。


「何が起きてんだ……!」


「だから言ってるだろう。アイツが、タナトスンが来たんだ!!」


 だんだんと目の前が晴れると公園の状況が分かる。


 平和な楽園、憩いの場が一瞬にして世界の終末のような景色へと変わってしまった。


 青々としていた芝は無残にもめくれ上がり、茶色い土肌が剥き出しに。その場には大勢が倒れうずくまっている。

 おじいさんは倒れたおばあさんの傍に寄り添い、とても不安げな表情。頭から血を垂らしながらも、お母さんが泣きわめく赤ちゃんを必死にあやす。


 うめき声、悲鳴、サイレン。そんな音が直接頭に響き渡る。


 そうだ! 大森!


 大事な同僚のことを思い出し、座っていたベンチの方へと目を向ける。


 しかしそこにはベンチも俺の荷物も、そして同僚の姿もなかった。


「おい……、嘘だろ」


「嘘じゃない、これは現実。そしてこれからが本当の地獄」


 十分終わりな光景が目の前に広がっているってのに、これが始まりだってのかよ。


「ほら、奴が出てくる」


 ドリーミィは墜落地点を指し示す。


 そこにはゆうに三メートルはある、狼のような頭の巨人がどっしりと立っていた。


 そいつは狼の化け物とはいえ、その姿は人狼というよりミノタウロスの狼版。首から下に毛は生えておらず、つるっとした黒い体表があるだけ。


「あれがタナトスン……」


「そうだ。でも、いきなりあのクラスを出してくるとはね。初手から本気で僕らの同盟国たる地球を滅ぼそうとしているらしい」


「マジかよ」


「そうだ。でも、地球酔いしている今がチャンス! さあ、早く契約してアイツを倒すんだ!」


 ドリーミィのこの状況にそぐわない、底抜けに明るい声が耳に障る。


「だからやらないって言ってるだろ!」


「この光景を目の当たりにしてもやらないってのかい?」


「お前と契約したらもう元の生活には戻れない、違うか?」


「まあそうはなるけど……」


「契約したら最後、俺はもう社会には戻れない。それはこの現代社会において、死ぬってことと同義なんだよ!」


 俺は自分で築き上げてきた、平穏で安定した生活を手放すわけにはいかないんだ。


「今すぐにアイツに対処できるのは君しかいない! 早く!!」


「だからやらないって――」


「ぐらぁぁあああああ!!!!!」


「ううっ」


 くそっ! あ、頭が割れそうだ……。


 俺たちの言い争いを遮り、耳をつんざく不快な唸り声がこの場に響き渡る。


「マズい! アイツの地球酔いが収まり始めてる!」


 タナトスンはその場で腕をブンブン振り回し、手当たり次第に周囲を攻撃している。地面に腕を叩き付ければそこに大きなひび割れが生じ、桜の巨木は真っ二つに折れる。


 でも不思議なことにタナトスンは周囲を攻撃するだけ。こっちに向かってくる気配はない。


「しめた! あのタナトスンは着地の衝撃で、視力に問題が生じている。さあ早く!」


「やらないって、言ってんだろ」


「分かった」


 ドリーミィは大きくため息をついて、俺に向かってそう言う。


「君が今ここでアイツを無視するというのなら、僕は金輪際君に関わらない。あのときの、君の願いの続きに戻ろうじゃないか」


「交換条件ってか。相変わらずやり口が汚いな」


「そんなんじゃない! 僕たちが欲しているのは、この現状をどうにかできる即戦力だ! だからこの事態に立ち会ってなお、見て見ぬふりをする奴なんか必要ない!」


 ドリーミィは折れた。あとは俺が決断すればこんな風に危険にさらされることも、こいつに付きまとわれることもない。


 ならば答えは一つ。


「なら、心おきなく俺の生活を守らせてもらう」


「そうかい。……分かった。君の好きにしてくれ」


 俺はタナトスンとドリーミィに背を向け、取引先の複合ビルに向け足を運び始める。


 地面を響き渡るタナトスンの足音、赤ちゃんの大泣き、助けを求める叫び声を背中に受けるが、気にも留めず歩みを進める。


 いや、気に留めてないわけじゃない。でも、俺は、俺の生活を……、守らなきゃならないんだ。


 それらの声を聞き入れないように、足元だけを見て必死に歩き続ける。


 そのとき視界の端に、俺とは逆向き、公園の中心に向かってゆくビジネスシューズが現れる。

 それに驚き顔を上げると、そこには見慣れた黒髪の後ろ姿。


「大森!」


 俺の声に一瞬反応するも、彼女は足を止めずにタナトスンの方へと走ってゆく。


「おい! そっちは!」


 彼女は向かってくるタナトスンを恐れもせず、泣いている赤ちゃんとそのお母さんの前へ、二人を庇うように立つ。


 タナトスンは視界が効かないはずなのに真っ直ぐ三人の元へ向かう。


 何故……? 


 相変わらず泣き続ける赤ちゃん。本能的に恐怖を感じ取っているのだろうか。


 そうか! アイツは赤ちゃんの泣き声に!


「大森!! そこにいれば確実にアイツにやられる! なのにどうして逃げない!!!」


「守人!!! そんなの決まってるでしょうが! この人たちの生活が、命が脅かされているのに、何もせず黙っているなんて私にはできない!!!」


「じゃあ、お前はどうなんだ!!」


「私にできることは、誰かを心配したり庇うことくらい!! それができることの全てなら、私はそれに全力で取り組むまで!!」


 どうして大森が、何も力を持たない彼女が、自分を犠牲にして誰かを守る必要がある?

 そして俺は、アイツに対抗できる可能性のある人間が、どうして逃げようとしているんだ?


 彼女は誰にやれって言われたわけでもないのに、その上適正もあるとは言えなくたって自分からやれることを全力でやろうとしている。


 でも俺はどうだ。


 契約さえすれば変身できる。ドリーミィに君にしかできないって念まで押されている。なのに俺は他人に任せられてることを、全力でやらないように振舞っているだけだ。


 それに誰かを守る、ってのは俺の夢、憧れだったんじゃないのか? そして今も変わってないんじゃなかったのか? このままここで見ているだけだと、それはドリーミィを追い払うための方便ってことになっちまうぞ!


 それでいいのか、俺は!


 でも、足が棒のように固まって全く動かない。現実の生活を失いたくない、と理性が足にブレーキをかけてしまっている。


 対照的にタナトスンはどんどん大森に迫ってゆく。視力も戻ってきたのか、ふらつかず力強く迫ってくる。


 ――俺は誰かの生活も守りたい。でも自分の生活だって守りたい。


 俺の中の憧れと理想がせめぎ合っている。


 でもこんな、わがままな願いをどうやって叶えればいい! やはり、どちらをとるか決めなきゃなんないってのか?


 ……ん? 願い? そうか願いだ!!


 そう考え着いた瞬間、足の理性のロックが解除され走れるようになる。


 タナトスンは既に大森たちの前に立ちふさがり、その長い腕をゆっくりとふりあげて殴りつけようとしている。


 俺は全力で足を動かす。


 間に合えっ!!


「うおりゃああああ!!!」


 助走をつけタナトスンのがら空きの懐に飛び込み、全力でジャンピングパンチ。


 しかしタナトスンの表皮は鉄のように固く、俺の拳に激痛の反動が返ってくる。そのせいで多分手首を捻った。

 その上、空中で反動を受けたもんだから、情けなく地面に背中を打ちつけるようにして転んでしまう。


「ああっ……、痛ってえ」


「守人、あんた何を」


 大森の言葉ど同じタイミングで、ドシンと大きな衝撃音。

 見るとタナトスンが俺と同じようにひっくり返っている。


「ヒデオ。今のパンチでタナトスンは重心を崩して転んだ! あの巨体なら起き上がるのに時間がかかるはずだ」


「大森」


 ドリーミィの言うことはとりあえず無視。相変わらず拳は痛むが、大森に話しかける。


「守人、あんた急にどうしたのよ」


「俺は俺のできることを全力でやることにした。こいつは俺が引き受ける。だから今のうちに、大森は二人も連れて早く離れろ」


「でも、あんたはどうなるの?」


「俺は誰かの生活も自分の生活も守る、そう心に誓った。だから大丈夫だ。さあ、早く」


「……分かった。頼んだわよ」


「ああ」


 大森はお母さんに肩を貸して急いでこの場から離脱する。


 準備は整った。さて……、


「おい、ドリーミィ!」


 俺はヤツを呼び寄せる。


「何だい、ヒデオ」


「なぁ、お前と契約すれば俺の『誰かの生活を守りたい』って憧れが、実現できるんだよな?」


「もちろんさ。まあ、使い方次第だけど。君は昔と同じで、とてつもなく大きなを秘めている。その上経験もある。だから変身さえすれば、君にとってさほど脅威ではないだろう」


 そう言ってから、ドリーミィはようやっと俺の発言の真意に気づく。 


「もしかして契約してくれる気になったのかい?」


「ああそうさ!」


「しかしあれだけ嫌がってた君が急に。どういう風の吹きまわしだい? これだから人間は分からないんだ」


「地球の平和がどうとかこの際関係ない。俺はやっぱり、目の前の誰かの生活を守りたい。ただそれだけだ!!」


「まあ、いいか。それじゃあ早速――」


「月二十万」


「へ?」


 そのままの流れで俺が戦うとおもっていたんだろう。ドリーミィはものすごくまの抜けた返事をする。


「キャッシュで月二十万。そして活動時間は日々の業務時間外! どうしても業務時間内にタナトスンと戦わせたいのなら、あらかじめ出現を予測して俺にスケジュールを出せ。あくまで副業として戦う。それが契約の対価としての、俺の願いだ!」


 そう。これがあの瞬間に思い付いた、俺の願い。


 叶えられそうもない願いならこいつに叶えさせればいい。そんでこの程度ならこいつだって余裕で叶えてくれるはずだ。


「なんとも生々しくて現金な願いだね」


「自分の生活も守れない奴に、他人の生活が守れんのかってんだ。これは俺の生活を守るため必要な、そして『誰かの生活を守りたい』っていうちっぽけな憧れを叶えるために必要な、大事な大事な願いなんだよ! お前にこれが叶えられないようなら、俺は契約しない」


「対価にしては実に壮大過ぎる願いだ。でも叶えてあげようじゃないか。そういう契約だからね」


 ドリーミィは俺の肩に跳び乗り、額に前足を当てる。


「契約は成立だ。さあ、秘めたる力を存分に発揮するといい」


「決まりだな。んで? どうやったら前みたいに変身できる? 昔持ってた銀メッキの十字架ネックレスなんてとうの昔に捨てたぞ!」


「ほら」


 ドリーミィは俺に向かってビジネスバッグを投げる。


「俺のカバンじゃねーか」


「昔の君は中二病という症状の真っただ中で理想に溺れていた。だからあのネックレスだった。でも今の君は現実にばかり目を向けている。だから今度の装備は君の現実の延長、ビジネスツールさ」


 遠まわしに過去の俺をディスりやがったな、こいつ。


「さあ、そのカバンから手のひら大の長方形のものを取り出せ!」


 なんだか漠然とした指定だな。


 多少もやもやしながら、言われるがままカバンの中身を見る。条件に合いそうなのは通勤定期、スマホ、そして名刺入れ。


 意外に候補があって困る。どれ選べばいいんだ?


「急げ! もうタナトスンは起きてこっちに向かってきてるんだ。適当に選べ!」


 言ってることが違う。でも時間がないのも事実。ええい、ままよ!


 そう思いカバンから適当に取り出すと、掴んでいたのは名刺入れ。


「名刺入れか。悪くない選択だ」


「で? こいつをどうすればいい?」


「思い切り空に掲げるんだ!」


 右手に掴んだ名刺入れを、言われた通りピンと手を伸ばし空に掲げる。


 すると、それに合わせて腰の革ベルトがごつごつと機械的で、そしてどこかおもちゃのようなベルトへと早変わり。よく見るとそのベルトの中央部には何かが収まりそうな長方形の窪みがある。


「一応は君の憧れにも寄せたよ。これは僕からのサービス。名刺入れと窪みのあるベルト。さあ、君ならこの先のことは説明しなくても分かるだろう?」


 ああ。もちろん! なんたってずっとこれに憧れて、これがやりたくて堪らなかったんだから。


 空に掲げていた右手を身体の横に水平に伸ばし、入れ替わるように左手を頭の上に! そして勢いよく名刺入れを腰のベルトに差し込み、左手を右肩に引き寄せ、こう叫ぶ!


「変身!!」


 その言葉を叫んだ瞬間、ベルトから眩い光が放たれる。その光は空中で段々と大量の名刺に変化し、俺の身体は光の名刺に包まれる。


 名刺に覆われた視界が開け、自分の身体を見ると、どうやら俺の服装はジャケットの模様が入った真っ赤な全身タイツにベルト、という何とも言えないものに変わったようだ。でも、いっちょ前に胸ポケットは使える状態でついているし、首にはマフラーのようにネクタイが巻かれている。

 頭に手をやると、顔の一回り外側に固い感触。どうやらフルフェイスのマスクのようなものを被っているようだ。


「さあ、行くぞ!」


 変身し終わった俺はタナトスンに向かって一直線。そして、さっきと同じ無防備な懐に飛び込み思い切り腹パン。

 拳は乾いた快音を立て相手の腹にめり込む。さっきと異なり、手は全く痛くない。


 頭の上から滝のように唾液が降り注ぎ、マスクやボディスーツを濡らすも中には全く滲みてこない。


 機能性も十分! これならやれる!


 腹を殴れば異星人も身体が丸まるらしく、おかげで丁度いい位置に頭が下りてくる。


「ふっ!」


 とその頭めがけハイキックをぶち当てれば、巨体は宙を舞って文字通り吹っ飛ぶ。

 すぐさま追いかけ、すかさず顔面に拳を一撃。タナトスンの唾液、それに砕けた牙が巻き散らされる。


 しかし、ヤツはすかさず体制を立て直し、その巨体に似合わぬ速度で俺に迫って攻撃せんと腕を振り上げる。


 躱す? いや、受け止める!


 俺はその場で咄嗟に両手を交差させ頭の上に掲げ、そこに振り下ろされるタナトスンの腕。とにかく両腕が折れそうで、足が地面にめり込み目線が低くなる。

 その衝撃は腕に留まらず、それを支える肘や肩の関節に、そして身体を支える脚部にもズシンとかかる。しかも、十センチほど足が地面に埋まってる。


 でも、そんなのに構ってる暇なんてない。


 向こうの腕が俺の身体から離れる前に掴んで、乱暴に一本背負いで地面に叩きつける。


 ダメージは入っているようだが、如何せん相手がタフすぎる。このままだとジリ貧だ!


「おい、ドリーミィ! なんか武器はないのか?」


「ほれ」


 ドリーミィが投げてきたのはまたしても俺のバッグ。しかし、バッグを手に取ると瞬時に持ち手と本体が硬質化する。


「カバンハンマー。威力は抜群さ。それで脳天勝ち割ってやれ!」


「サンキュー」


 伸びているタナトスンの頭めがけてハンマーを振り下ろす。ヤツの頭は地面に深くめり込み、足先まで高く跳ね上がる。


「ぐおおおぉぉぉ!!」


 脳天こそ割れなかったものの、苦しみ悶える声がこだまする。


 よろよろ立ち上がる背中に、ハンマーを大きく振りかぶってもう一撃!


 背中を衝撃を受け、タナトスンはボールのように転がり公園の外へ。道路に飛び出たヤツは自動車を跳ねのけ、押し潰しようやく止まる。


「マズい。タナトスンが向こうで起き上がってそのまま逃げだす可能性大だ! 急いで追いかけろ!」


 ドリーミィの言う通りに、俺もヤツを追いかけ公園の外へ向かう。


 公園の外に出ると、俺とタナトスンとの距離は十五メートルほど。そしてドリーミィの言ったように、ヤツ今にもどこかへ飛び出そうとしている。


「逃がすな! ネクタイで捕らえるんだ!!」


「分かってる!!」


 急いでネクタイを首から外し、投げ縄の如くタナトスンめがけて投げる。投げられたネクタイは大きく伸びて足に絡まり、ヤツが飛び去るのをすんでのところで阻止。

 空中で身体を捕らえられて、タナトスンが顔面から墜落。その衝撃にアスファルトも粉々にひび割れた。


「さあ、ヒデオ。そろそろ終わりにしよう! 名刺入れから君の名刺を取り出して、胸ポケットに差し込め!」


 何が起きるのか全く想像がつかないが、言われるがままベルトの名刺入れから自分の名刺と取り出し、胸ポケットに入れてみる。

 するとベルトから一枚の名刺が射出される。それを手に取るとそこには俺の名前ではなく『サラ・リィマン』という文字。


 察するにこれが俺のヒーローとしての名前か? なんの捻りもない、ダサい名前。でも、現実ばかり見ている俺にとってはある意味お似合いなのかもしれない。


「その名刺を両手で構えるんだ。そんでもって全力でタナトスンに名刺を振り下ろせ!」


「マナーもへったくれもない」


 でもまぁ、この際そんなことは気にしてられない。


「そうさ。今はそんなこと気にするな! やるべきことはただ一つ」


「アイツを倒して、みんなの生活を守ることだ!!!」


 名刺片手にタナトスンの頭上めがけて思い切りジャンプ。その高さは俺の想定を軽々超え、目の前の複合ビルの三階フロアと同じ高さまで達し、ヤツの頭はかなり下。


 その頂点で名刺を両手に構え、頭上に振り上げる。

 すると名刺がバリバリいう音と閃光を放ちながら巨大化していくのが、持っている手を通じてなんとなく伝わってくる。

 力を籠めればそれだけ名刺は大きくなる。


「はぁああああっ!!!!」


 力を籠め続けついにやって来る、名刺のサイズの限界値。


 こうなれば、後はコイツをタナトスンに向けて振り下ろすだけだ!!!


「行くぞぉおお!」


 必殺!


「メイシコーカンインパクト!!!!!」


 タナトスンの頭上から名刺を振り下ろし、相手を押しつぶすと名刺は消滅。

 巨大名刺の下敷きになったタナトスンは断末魔の叫びを上げることなく、俺の背後で大爆発。


 気になって複合ビルのオーロラビジョンを見ると、そこには爆発を背後に佇み大画面を眺めてるヒーローの姿がばっちり映っている。どこからか撮影されているらしい。

 身に着けているマスクさえも鮮明に映り、大きな二つの目、顎にはクラッシャー、そして触角らしき二本の角、という顔つきのようだ。


「やったよ! 流石、ヒデオ! タナトスンを倒した!」


 そう無邪気にドリーミィは俺の元へやって来る。


「でも、これで終わりじゃないんだろう?」


「まぁ、そうだね。でも君は奴らの上級格の戦士を軽々倒してみせた。この一件で地球にはこんな戦士がいる、ということが向こうにもすぐに知れ渡る。だとすれば彼らも今後、地球にはうかつに手出しできないはずだ」


「なるほど」


「とはいえ、完全に脅威が消え去ったわけではないから、そこんところよろしくね」


 最後にしっかり釘を刺す。抜け目ないヤツ。


「そろそろここからオサラバしよう。ヒデオ、僕の尻尾を掴め」


 ドリーミィの尻尾を掴むと、オーロラビジョンに映っているはずの俺の姿が消える。


「このまま変身を解いて、公園まで行く。そして原っぱに着いたら怪我を訴えて病院まで運んでもらうんだ」


「どうしてそんなことを?」


「そりゃだって、その方が取引先にも角が立ちにくいだろ?」


 こいつにしては意外と考えるな。とりあえず今回はその案に便乗しよう。


 透明のまま公園に戻り、変身を解く。すると全身が引きつって動けないほどの激痛に襲われる。


「バック……ファイア……」


 そのあまりの痛さに、俺の意識は闇の中へ引きずり込まれた。



 *        *



 タナトスンの襲撃から三日後の今日、俺はいつも通り出社し自分のデスクに向かい作業にとりかかっていた。

 ただその内容はいつもと異なり、方々への謝罪がメインなのだけれど。


 戦いの後、意識を失った俺はすぐさま救急搬送されたようで、目が覚めたときには既に見知らぬ病院のベッドの上。時刻は午後三時を回っていて、先方との約束の時間なんかとっくに過ぎていた。


 要するに俺たちは大事な約束をすっぽかしたのだ。


 ただ、不幸中の幸いなのは先方の会社からタナトスンの襲撃が一部始終見えていたこと。そしてその騒ぎに社内全体が素然としていて、向こうも正常な業務どころではなかったこと。そして搬送先の病院から連絡を受けた俺の会社が、すぐに相手方に連絡してくれたこと。


 この辺が重なったおかげで先方もそんなに気に留めておらず、「また後日」という寛大な対応をとってくれた。


 だから、今日の謝罪は主に迷惑をかけたうちの会社に対して。直属の上司とか、この件に関わった人たちとか。


 書面で謝罪文を作成したり、直接頭を下げに行ったり。そんなことを病み上がり一発目の仕事としてこなしていた。


 それももう大体終わったところ。


 あとは別件の届け出を会社に出して――


「守人、調子はどう?」


「ああ、大森か。まだ右手は痛むし、いいとは言えんな」


「あんな無茶するから。それに、意識なくして倒れてたなんて、全然自分の生活守れてないじゃない」


 大森は何も知らないし、そう思われるのも無理はないわな。


「悪かったな」


「ほんとよ」


 大森の視線が俺からデスクの上の書類に移る。


「それ何?」


「それは……」


「副業するの?」


「人の個人的な書類を勝手に読むな」


「悪い悪い。でも、机の上に雑に広げてあるからつい」


 きちんとしまっておくべきだった。


「それで? 何すんの?」


「普通気になっても、そういうのは聞かないもんじゃないのか?」


 そうは言ったものの、別にいいか。


「ヒーロー」


「へ?」


「だから、ヒーロー」


「ヒーロー!? 本気で言ってるの?」


 彼女はそう言って、口元に手を当てながら肩を震わしている。


「ネットか何かで、赤い謎のヒーローを見て感化されたってとこかしら? ああ! 消防団ね」


 まだ笑ってる。どうやら、俺の言ったことを全く本気にしてない。

 というか、その赤い謎のヒーローをする予定なんだが。


「はいはい、本物のヒーロー様からすればお笑いってとこか?」


「別に私はそんなんじゃないし」


「あの現場で自分の身を顧みず、人々の避難誘導、救助に貢献したヒーローってことで持ち切りだが」


「私は、自分のできることをやっただけ」


 でも、と言って大森は一呼吸おき、続ける。


「それはあのとき、守人が私の生活守ってくれたおかげ。だから感謝してる。何するかは知らないけど、これからも頑張ってね。私の、副業ヒーローさん」



 彼女は優しく微笑んで、この場を去っていった。


 ――と思ったら、途中で踵を返してこっちに戻ってくる。


「あっ、そうそう」


 そう言うと同時に、大森は自分の名刺入れから一枚の名刺を差し出してくる。


「ここ、近いうちに行くといいよ。きっと役に立つから」


 その名刺を受け取ると、彼女は今度こそこの場を去っていった。


 役に立つ? ヒーロー活動の?


 何だろう、と疑問を浮かべながらその名刺を見てみる。


 そこには、ヒロオ・メンタルクリニックという文字。


 アイツ……! 俺の頭は正常だ!!


「やっぱり本気にしてねぇじゃねーか」


「そんなの本気にする方がどうかしているよ」


 どこからともなくドリーミィがやってきて、そう吐き捨てる。


「うるさい、ドリーミィ。今は勤務時間中だ。話しかけんな」


「それもそうだったね」


 まぁ、本気にされてようが、されてまいが、俺はやる。


 なんたって俺は、『副業ヒーロー サラ・リィマン』になれたんだから。














 *        *



 真っ暗で何もないただただ、だだっ広い空間。その中心に私は立っている。

 謎の光源に照らされ、さながらスポットライトを浴びている気分だ。


「今日君をここへ呼び出したのは、君の任務に関することだ」


 どこからともなく、声がこの場に響き渡る。


「守人英雄は我々と契約を結びなおし、戦士としてタナトスンと戦う覚悟を決め、歩み始めました。もっとも、副業届にヒーローなんて書いたり、不安な部分は大いにありますが」


「報告によればめんどくさい条件付きではあるようだが、とにかく君の任務は達成された。地球人でありながら、君はよくやってくれてるよ」


「ありがとうございます。大ドリーミィ様」


「なんでも、君の必死な姿を見て、かれは決断したというではないか。とてもいい演技だ」


「畏れ多いのですが、あれは演技ではなく私の本心でして……。つい衝動的に身体が動いてしまった結果といいますか……」


「なに、謙遜しなくたっていい」


 どうにも伝わってないなぁ。


「ところで、君は任務中に彼付きの小ドリーミィを見て驚いてしまい、危うく正体を彼に悟られる一歩手前だったそうじゃないか」


 さっきのも、この件もわざと報告しなかったけど、なんでもお見通しってわけね。


「それはその……、あまりにもナチュラルにドリーミィが彼の頭に乗っていたもので、つい」


「彼は特別なことがない限り、一般人には我々の姿が見えないということを知っている。一般人として過ごしているのだから、くれぐれもそのことを忘れずに振る舞いたまえ」


「承知しました」


「それと、君に新しい任務を与える。君の力の行使、すなわち『変身』を許可する。その力でもって、サラ・リィマンを陰ながら支援し、戦況を我々の有利に傾けるのだ」


「はっ!」


「よろしく頼むよ、ミズ・大森。いや『レディ・オフィス』よ!!」


「お任せあれ」


 そう答えると、この場に響いている残響がピタッと止む。


 だいぶめんどくさい任務だけど、上に言われた以上やるしかない。仕事なんだもの。


 ――これからもよろしくね。私のヒーローさん。




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副業ヒーロー サラ・リィマン 〜社畜のおっさん、ヒーローになる〜 梅谷涼夜 @suzuyo_umetani

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