ExtraMission
鈴木真二
第1話 東京、世田谷
その日は早朝から曇天の空が大気を湿らせていた。昼から雷雨という予報は、どうやら前倒しになる気配がしている。
伊藤雅之は世田谷の自宅マンションから、自家用の黒いレクサスに乗って閑静な高級住宅街をゆっくりと滑るように走り幹線道路に出ると、霞が関へ向けてステアリングを切る。
平日なら一旦逆方向に向かって用賀インターから東名高速に乗っているところだが、車の少ない休日の早朝にその必要はない。そのまま一般道の流れに乗って三軒茶屋インターから乗るつもりでいた。
国道246号は、思った通り流れている。休みと言えど、あと1時間もすれば終日に及ぶ渋滞が始まるはずだ。
ジワリとアクセルを踏み込むと1.8トンのボディーは、ストレスなく加速し滑るように国道に合流して行く。エンジンの唸りは些かも伝わってこない。書斎のチェアーに座っているのと殆ど変わりがない。都心の日常にはあり得ない静寂を実現する先端技術の塊。この国が作り出した最高級の車を自分で運転しないのは損だと伊藤は考えている。それが法務省官僚であっても運転手付きの公用車を使わない理由だった。
若いころに経験した、シートに押さえ付けられるような胸のすく加速がもたらすスポーツカーの快感とはまた違う、レクサスの別次元の充足感が束の間、ここ数日に渡って伊藤の胸に巣くっている嫌悪感からの解放を許していた。
真上を走る東名高速を支える巨大なコンクリートの支柱を次々と後方へ追いやってアンダーパスに入る。頬に当たるオレンジのストロボ照明の瞬きは、既に法定速度を超えていることを示唆している。
フロントガラスに透過されている速度表示は65㎞/h。法定速度を5㎞/hもオーバーしている。法務省官僚としてスピード違反で検挙される訳にはいかない。伊藤は溜め息とともにアクセルべダルから力を抜いた。
それと同時に、後方から来た白いセダンが、伊藤のレクサスを左車線から追い抜いて行った。
あまり尋常とは言えないそのスピードに伊藤は困惑を覚える。
「おいおい、無茶苦茶なスピードだな、高速じゃあるまいし」
伊藤の独り言が終わらないうちに、今度は改造マフラーの爆音を轟かせた青白のハッチバックのスポーツカーが、先の白いセダンを追うようにして走り抜けて行きウインカーも出さずに車線変更をすると、あっと言う間に走り去って行った。伊藤の視界にはフロントガラスに透過されている45㎞/hの表示だけが残されている。
再びジワリとアクセルを踏み込んだ。
アンダーパスをくぐり抜けて地上に出ると、次はその先で交差する環状線を越える陸橋が続けざまに現れる。
改造マフラーが吐き出して行った排煙が薄っすらと車道に漂っていた。歩道を歩いている老婦人が手の平を空に向けて、雨が降ってきていないか確認している。雨はまだ降っていないフロントガラスはまだ隅々乾いたままだ。
陸橋を登り始めていた伊藤は、アクセルから足を離しブレーキペダルを踏んだ。
陸橋の頂上付近で2台の車が車線を塞ぐように停車してる。2台とも運転席のドアを開け放したままで、2人の男が道路の真ん中で互いの胸倉を掴み合っていた。今にも取っ組み合いになりそうな感じに見える。あおり運転のなすり合いか。
その2台は今しがた伊藤のレクサスを追い抜いて行った白いセダンと青白のハッチバックのスポーツカーだった。若くて小柄な方が青いハッチバックの持ち主に違いない。作業着姿で頭にタオルを巻いている。
対して白いセダンの方は、ひょろりと背が高くスーツ姿だが開襟シャツのせいか、どこか砕けた感じのする男だった。年齢は35歳の伊藤とそう変わらないだろう。
ルームミラーで後方を確認すると、2台の乗用車が陸橋を登り始めている。間もなく一緒に立ち往生する羽目になるだろう。
問題の2人は納まりが付くはずもなく依然として怒鳴り合っている。手が出るのも時間の問題と思われる。伊藤は思わずクラクションに手を掛かけるが、2人の矛先がこっちに向くとも限らない。ここは110番通報するに限る。伊藤はパーキングのボタンを押してサイドブレーキを踏み込むと、ホルダーに挿してあるスマホに手を伸ばした。
コツコツとウインドウを叩かれる音が、スマホの画面ロックを解除する手を止めた。外を見るとフレームレス眼鏡を掛けたサラリーマン風の男が、申し訳なさそうな顔で車内の伊藤を覗いている。前方の騒動のひどい迷惑を共有している連帯感のような気持ちが湧いていた。伊藤のレクサスの後ろに停車した車の持ち主だ。左の車線に停車した乗用車はまだ静観している。
伊藤はパワーウインドウを下げた。
早朝の高架下に響く男らの怒鳴り声と、少し甘い排気ガスの臭いが車内に割り込んでくる。やはり下手に介入するべきではない。更にその意を強くした伊藤は改めてスマホの画面ロック解除をしつつ、ドア越しに立っている男に対して、同じ迷惑をこうむった者同士としての眼差しを向ける。しかし伊藤がその男と視線を合わせるのと、その男が伊藤の首筋に6万ボルトのスタンガンを押し付けるのがほぼ同時に行われた。
スタンガンの激痛が伊藤の意識を断ち切るのに1秒も掛からなかった。何が起こったのか認識できない伊藤が最後に見たものは、前方で怒鳴り合っていた男たちが、途端に掴み合いをやめて、揃って伊藤のレクサスに向かって殺到してくるところだった。
何だこいつら喧嘩してたんじゃないのか。
伊藤はその疑問を抱いたまま昏倒した。
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