♯2 忘却の彼方へ
パワハラ上司何てどこにでもいる。
今日も怒鳴られ明日も怒鳴られ、毎回あんなに怒って飽きないものだろうか……。かくいう僕の会社にもいる。本田所長。噂では奥さんとうまくいってないらしく、今日も新入社員に激が飛ぶ。僕はそんな会社で二年目の事務員。この居心地の悪い営業所の片隅で、今日も息を殺して業務に励む。息を殺さないと僕が殺されるかもしれない。もちろんそれはただのたとえ話だけど、本田所長のそれはいつも殺意を感じるほど常軌を逸している。
「いいかお前ら! いつも言ってるけどな、もっとちゃんと仕事を覚えろよ! 毎回毎回! 馬鹿なのかほんと!? つっかえねぇ新人だよほんと」
ばんっと机をたたいてから始まるいつものこのくだり。死んだふりをしていないと、自分を殺していないといつ自分が標的になってこの殺意に満ちた……。いや、もしかしたら本当に殺すつもりなのかもしれない罵声の対象になりかねない。
それが始まったら僕はもう周りを気にしない。気にしていられない。自分が今作っている伝票を必死になって見つめて必死になって作って、そうやって周囲の空気から自分を外す。後輩が怒られようとも、僕には関係ない。
「……すいません」
「ったくよ。俺がお前らの時はな、残業してたって残業だなんて思わなかった。わかるか? 俺がお前らにしてやってることのありがたみを」
午前の就業時間はこうしていつも終わっていく。そう願いながら毎日なんとかベッドから起き上がる。
午後はもっとひどい。ある意味時間との戦いが始まる。定時で帰りたい社員と、理由が何であれ残業させたい所長との避けられない争いが。
夕方、新入社員はルート配送から続々と帰ってくる。こんなに早く帰ってきてもどうせ定時には帰れないし、また所長のいびりが待っているだけの地獄のような営業所に。新入社員は帰ってきても基本的に何もやることがない。営業に向かっている先輩達はあと一時間もしないと帰ってこないだろうし、分厚いカタログを見て商品を覚えるなんて僕だってごめんだ。でもだからと言って何もさせないと今度は僕があの恐怖の対象になってしまう。だから僕は、毎回のこの時間になると僕の仕事を少し分けてあげることにしている。配送するにしては量が少ない品物は配送業者に頼むことにしている。そのための梱包作業。
僕はその間に明日の配送の物資を集めてくる。仕事を少しでもしていないと、ここでは生きていけない。
僕の少しばかりの優しさに、後輩は気づきもしない。
そうしている間に、営業をしていた先輩たちが帰ってきて、所長の機嫌はいつもと同じで最悪で。いつも最悪なのだから、もしかしたらこれがあの人にとっての機嫌がいい状態なのかもしれない。なんて、二階にある倉庫で絶縁テープを探しながら考えてしまった僕は、自分にぞっとする。自分の中に少しでもあの人の像を描いてしまったことに。そんなことをするなんて、そんな暇はない。そうしていないとここでは生きていられない。
この世界では呼吸ができない。
死んだふりをしていないと、生きてもいけない。
この世界では呼吸が出来ない 明日葉叶 @o-cean
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