29.絵の具のせたら
学校から帰る。
晩ご飯の支度をする。
弟たちにご飯を食べさせる。
弟たちを寝かしつける。
父さんが帰ってくる。
父さんがご飯を食べる。
母さんが帰ってくる。
僕は二人にお休みを言う。
弟たちが寝てる部屋。
言い争う声が聞こえてくる。
父さんは母さんの仕事に文句を言う。
母さんは父さんの給料に文句を言う。
僕はその声を聞きながら、服を脱ぐ。
鏡を見る。
薄暗い部屋の中で、僕は化粧をする。
ベースメイク。
アイシャドウ、アイライン、マスカラ。
口紅を引く。
裸の上半身に、色を塗る。
七色の絵の具のせたら、完成。
レディみたいにはいかないけど、まあまあだ。
もう二人の声は聞こえてこない。
僕はそっと家を抜け出す。
静まり返った最下層の路地を抜ける。
歓楽街に入ると、一気に騒々しくなる。
角の店の前に何人かたむろしている。
奇抜な服装。
店に入る。
なじみのバーテンにお金を払いビールをもらう。
人が増えてくる。
二人連れの男たちが愚痴ってる。
また給料を下げやがった。
こっちは二人解雇だ。
その代わりCHRを入れやがった。
前のソヴリンの方がまだましだったな。
ああ、まったく。
いつになったら俺たちの暮らしは――。
照明が落ちる。
スポットライト。
レディの姿が浮かび上がる。
七色のドレス。
歓声と、同じくらいの罵声。
卑猥な言葉。
指笛。
レディは顔色一つ変えない。
彼は今日もきれいだ。
黒髪の歌姫。
スパンコールがきらきらと光る。
ピアノの音が流れてくる。
レディが腕を差し出す。
――ヘイ、レデイ
そう、あなたよ
人生を呪ってる人はたくさんいる
不満を抱えた母親
抑圧された妻
そんな人たちはきっと
できもしないことを夢見ている
私も誰かに教えてほしかった
これから私が話すようなことを
ジョージアにもカリフォルニアにも行った
どこへだって行ったわ
うさんくさい男に恋をして
愛し合ったこともあった
結局いつも私は去っていく
自由でいなくちゃならないから
楽園を味わったこともある
でも本当の自分でいたことはなかった※
少年の背後で何かが割れる音がする。
不協和音。
観客たちは頭を抱えていっせいにうずくまる。
嘔吐している者もいる。
バンドは演奏を止める。
レディが舞台袖に消えていく。
少年は地面に這いつくばりながらそれを見ている。
視界を黒いブーツが遮る。
制服の男たち。
少年は地面に唾を吐く。
脳波警察の犬どもめ。
そんな、言いがかりですぜ。
政治的な集会なんて。
音楽をやってただけですよ。
ほんとですって。
わかりやした。
明日出頭します。
へえ。
どうも、ご苦労さまでした。
ああ。
ちょっと。
ちょっと、旦那。
ちょっと、こっちへ。
話が違うじゃないですか。
いや、そう言われやしてもねえ。
商売あがったりですよ。
ああなるほど、そういうことですか。
ソヴリンに睨まれたんじゃあ、しょうがないですけど。
それは、大丈夫ですよ。
決して口外は。
分かってます。
それで、今晩は。
ひひひひ。
ステージも中断しましたから、元気なもんで。
いえ、嫌味なんかじゃ。
へへへ。
じゃあ、こちらへ。
レディ!
お得意様だぞ。
ボルの旦那がいらした。
今日はたっぷり時間があるんだ。
存分におもてなしして差し上げろ。
少年が目を覚ます。
尿と吐しゃ物の臭い。
店の裏の路地。
体を起こす。
まだ頭がくらくらする。
体に塗った絵の具は溶けかけている。
店の裏口のドアが開く。
レディが出てくる。
薄いコートを羽織っている。
疑似タバコを咥える。
路地を隔てて座っている少年には気づいていない。
やがて暗がりから男が現れる。
レデイに近づいていく。
レディは男に紙切れのようなものを手渡す。
男は去っていく。
少年は男の顔をどこかで見たことがある気がする。
でも思い出せない。
疑似タバコを捨て、裏口の方を向こうとしたとき。
少年の頭上の街灯がまばたきをする。
接触不良で壊れていた街灯が少年の運命を変えた。
レディは少年の存在に気付く。
レディは微笑む。
化粧っ気のないレディの顔を少年は初めて見た。
そして、レディが自分とそれほど歳が離れていないことを知る。
レディは歌い始める。
先ほど中断した歌の続きを。
――お願い、レディ
行かないで
あなたに伝えたいことがあるの
どうして私が独りぼっちなのかを
レディはゆっくりと少年の方へ近づいていく。
――あなたを見ていれば分かる
あなたも私と同じ
たくさんの偽りを繰り返し
そんな心を癒したいと思ってる
ニースやギリシャの島々で
ヨットに乗りながらシャンペンを楽しんだ
モンテカルロではジーン・ハーロウのようにふるまったり
普通じゃない経験もした
楽園を味わったこともある
でも本当の自分でいたことはなかった※
少年のすぐ目の前で、レディが歌っている。
少年は恍惚とした表情で、彼を見つめている。
レディは右手を差し出した。
少年はレディの左手が背中に隠されていることに気が付かない。
レディは言った。
ごめんね、リトル・レディ。
それは、少年がこの世で聞いた最後の言葉だった。
※『I've Never Been To Me』シャーリーン(作詞:ロナルド・ノーマン・ミラー、ケネス・ハーシュ)より引用。
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