16.木々の影
キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ。
それは何? とあの子は言った。
ある小説に出てくる言葉よ。
おまじまいみないなもの? とあの子は言った。
うーん。
おまじないじゃないけど。
でもそうね、一種のおまじないなのかも。
これはサイイチ・マルヤっていう人が書いた『Tree Shadows』という小説の中に出てくる言葉。
サイイチ・マルヤ。知らない。地球の人? とあの子は言った。
地球の人よ。昔のね。あなた、カワバタは知ってる?
知らない。有名な人? とあの子は言った。
ノーベル文学賞を取った人よ。学校ではまだ習ってないか。私の頃のカリキュラムにはあったけど。
マルヤの『Tree Shadows』は、カワバタの名前を冠した賞を取ってるの。
でも、カワバタは、あなたにはまだ早いかもね。
えー。早くない。私も読む。リリィのアーカイブにある? と、あの子は言った。
もちろん。
じゃあ、試しに読んでみて。
うん。それで、そのおまじないは、何のおまじないなの? とあの子は言った。
キノカゲ?
そうね。
何て言ったらいいか。
自分という存在が、いったいどこから来たのか、それを探るためのおまじない、かな。
ううう。なんだか難しそう。それって、哲学的な問い、みたいなもの? とあの子は言った。
ええ、まあ。そう言ってもいいかも。それにしても、哲学的な問い、なんて言葉、よく知ってたわね。
もー。私を何だと思ってるの。あーあ。もうちょっと、アクセス制限を緩くしてくれてもいいんじゃないかな。これじゃあ、量子コンピュータである必要ないんですけど? とあの子は言った。
だめよ。人間の子供と成長スピードを同じに設定しようって、決めたんだから。
うー、とあの子がうなる。
もしもあの子にアバターがあったら、十二歳の女の子が不満そうに頬を膨らませ、腕を組んでいる姿なのだろう。
でも急にどうして、そのおまじないを? とあの子は言った。
ああ、それはね。こうやって、人工太陽の光を浴びた木陰で、芝生の上に落ちた木々の影を見ていたら、不意に思い出したの。
その『Tree Shadows』っていう小説も、哲学的で難しいの? とあの子は言った。
いいえ。そんなことはない。でも、とっても不思議な話よ。原題は、『樹影譚』っていって、「樹の影にまつわるお話」っていう意味。作者のサイイチ・マルヤは、とても凝った小説を書く人だったけど、決して難解ではなく、知的好奇心を満たしてくれる作品をたくさん残した人よ。まあ、私はどちらかというと、文学史や歴史が専門だから、きちんとした書評はできないんだけど。
今は何の研究をしているの? とあの子は言った。
ある国の歴史を研究しているわ。
ねえ、マチコ。マチコは前に、過去の歴史を学ぶことで、それを教訓として、よりよく生きていくことができるって言ってたよね。今の研究にも、教訓があって、よりよく生きていくためのヒントみたいなものがあるの? とあの子は言った。
かつて地球にとある国があった。その国は、世界大戦の敗戦国で、当時ファシズムの支配下にあったの。でも、戦後は民主主義の国に生まれ変わった。それが、戦後八十年ほど経ったころから、変化し始めた。まず、言論の自由が緩やかに制限されていった。基準があいまいなまま法律が強化された。そして、武力行使を禁じた平和憲法が改正された。欧州大戦の影響で、非核三原則は放棄された。さらに政府は、かつての世界大戦時、ファシズムは存在せず、常に民主主義国家だったと主張し始めた。過去の歴史を否定、改変しようとしたのね。こうしてその国は国際社会からどんどん孤立していった。
仲間外れになっていっちゃったの? とあの子は言った。
そうね。その国と仲良くなってくれたのは、欧州大戦のきっかけを作った全体主義の侵略国だけだった。両国は急接近して、長い戦いに明け暮れた。結局、その国は滅んだわ。ただ、そのあとの災厄で、あらゆる国家は壊滅してしまったわけだけどね。
これから先、もしも地球にまた人が住めるようになって、国ができたりして、そうしたら、その過去の出来事は教訓として活かせるといういこと? とあの子は言った。
そうなればいいんだけど。それにしては、人間は本当に嫌になるくらい、同じことを繰り返しているわけなんだけど。
でも、これからもまたそうだとは限らないわ。そうでしょ? とあの子は言った。
そう願いたいわね。
ねえ、マチコ。今日もまた何か歌ってくれる? とあの子は言った。
あなたたちは、本当に音楽が好きよね。
いいわよ。
何がいいかな。
そのとき、風が吹いて、木々の影を揺らした。
第一世代の人たちが嫌がっていた人工の風。
でも私たちは地球の風を知らないから、何とも思わない。
風は、ざざざざと、木々を揺らした。
ざざざざざ。
あなた、リトル・ルナにいる人たちの母国語はすべてマスターしてるわよね。
オッケー、アイリス。
よし。
じゃあ、歌うわね。
――ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
昔海のむこうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終りがきた
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える
母の子守の歌
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このままみどりの波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
けれどさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ
波のように押しよせる
風よ悲しみの歌を
海に返してほしい
夏の陽ざしのなかで
ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない※
※『さとうきび畑』森山良子(作詞:寺島尚彦)より引用
そうね。
さとうきび畑は、第二区画にあるわね。
この歌はたぶんリリィのアーカイブにはないと思う。
マコトの端末には入っているけどね。
でも、あなたはもう覚えたでしょ。
あなたは、決して忘れないものね。
いつか、地球の歴史をもっと深く学ぶ時が来たら、この歌のことを思い出してね。
それで、この歌のことを調べてみて。
そして、自分なりに、考えてみて。
あなたに心はないけれど、私たちよりも深く考えることができるから。
そのときに、またお話ししましょう。
楽しみにしているわ。
アイリス。
私たちの希望。
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