13.唇に触れた
マイルス・デイヴィス。
うん、天才だ。分かるよ。よくもまあ、あれだけのものが途切れることなく湯水のように湧き出てきたものよね。エネルギッシュで、いろんなことに挑戦して。必殺のフレーズ、いったいどんだけ持ってるのよ。でもちょっと、天才過ぎて、イッちゃいすぎちゃってて、怖い。コルトレーンもイッちゃってるけど、怖くはない。好きっていうより、すごい、かな。
クリフォード・ブラウン。
別の意味で天才よね。でもマイルスみたいな得体の知れない感じじゃない。早くに死んじゃったから分かんないけど、たぶんそんな気がする。暖かい音を出す人よね。私は結構好きかな。
ディジー・ガレスピー。
この人、可愛くて好き。チャーミングよね。ガレスピーといえばビバップだけど、ハードバッパーとも一緒にやったり、懐広いよね。あと、ラテンとか、アフロキューバンもやったりしてて、ノリが最高。
ルイ・アームストロング。
サッチモね。超有名。確かに先駆者としてはすごいんだろうけど、あんまりピンとこなかった。でも、あのボーカルはすごい。特に私は、エラ・フィッツジェラルドとのデュエットがすごく好き。
リー・モーガン。
ずるいよね。かっこよすぎじゃない? 曲もかっこいいけどさ。ステージの合間に愛人から射殺されるって、すごくない? しかもそのとき彼は三十三歳。ジャズマンかよ。いやそうなんだけど。ガラガラヘビもいいけど、メッセンジャーズのときもいいよね。
ドン・チェリー。
この人からは本当にいろんな刺激を受ける。いつ聴いても新しい発見がある。いつか自分の演奏に取り入れられたらいいなと思うけど、なかなか難しい。ただガチガチの前衛っていうのじゃなくて、どこか暖かい感じが好き。
アート・ファーマー。
一般的にそれほど優れた演奏家とはされてないかもだけど、実はすごく好き。特にベニー・ゴルソンと一緒にやってるやつ。ゴルソン・ハーモニーと相性がいいのよね。私のスタイルとちょっと似てるところがある。でも、フリューゲルフォーンはセンチメンタルすぎてちょっとね。
ほかにもすごいトランぺッターはいっぱいいるけど。
でも。
一番好きなのは、チェット・ベイカー。
神は私たちに一つの才能しか与えないっていう言葉があるそうだけど、彼はトランペットの才能、歌の才能、そしてルックスと、三つも与えられている。与えられすぎじゃない? まあ、その代わり、という言い方もアレだけど、ひどい欠点も持ち合わせちゃってるんだけどね。
若いころからどこか老成しているっていうか、達観しているっていうか、そんな味わいの演奏なんだよね。そういう若い時のもいいけど、晩年はさらにとんでもないことになっていく。何度も何度も洗ってほとんど色がなくなったデニムのシャツみたい。
そして歌声。若い頃はとにかく美声。しかもこれみよがしのうまさじゃなくて、語りかけてくるような感じ。聴いてるとたまに、低い声の女の人が歌ってるような錯覚に陥る。そのくらい、表現が柔らかい。あの顔でこの声って、反則でしょ。
さらに晩年がすごい。晩年の彼はいろいろとあって、それが影響しているわけだけど。なんかもう、歌っていうよりも、この人の声そのものがひとつの楽器、ひとつの音楽のジャンルって感じだ。唯一無二。そう思ってた。
彼に会うまでは。
私がマコト・ヤナギと初めて会ったとき、彼はピアノの調律をしていた。
ホールにはそのとき、誰もいなかった。
調律が終わると、彼はピアノを弾きながら、歌い始めた。
たぶん私がいることに気がつかなかったんだろう。
最近はもう人前で演奏することはなくなったって聞いてたから。
そのとき彼が歌ったのは、知らない曲だった。
でもそんなことはどうでもよかった。
え。
チェットじゃん。
この声、この抑揚、この表現。
晩年のチェットじゃん。
私が息をのむ音が聞こえたのか、いやまさかそんなことはないと思うけど、彼は手と歌を止めて、振り返った。
ごめん。
人がいるって思わなくて。
あれ。
君は確か、学校の吹奏楽部でトランペット吹いてなかった?
うん、知り合いの子がね。
それで、この間たまたま演奏会を見たんだ。
いや、ソロがなくても憶えてるよ。
僕はどちらかというと、ソロをやった子より、君の音の方が好きだな。
だから憶えてるんだろうな。
いや。
活動はもう引退して、最近はもっぱら若い子のサポートが多いな。
いやいや、もうかなりの歳だよ。
なんせ、第一世代だからね。
ああ、構わないよ。
当面はここに通うことになるから。
時間があるときに来てくれれば。
こちらこそ、よろしく。
ええと。
よろしく、レイナ・チェン・ハッチャーソン。
恥ずかしいことに、それまでちゃんと彼の音楽を聴いたことがなかった。
リトル・ルナの音楽家たちの作品はたくさんアップされていたけど、つい、昔の地球の作品を聴いてしまうのだ。
私はマコト・ヤナギの作品を聴いてみた。主に彼のボーカル曲を。
確かに、似ている。声そのものはチェットそっくりだ。
でも、なんだろう。
アーカイブにあるどの曲も、あの日私が聴いた彼の歌とは何かが違っていた。
日付を確認すると、あることに気がついた。
彼はある時期からはボーカル曲を録音していない。
それ以降は、インストゥルメンタルの曲ばかりだ。
ボーカル曲の最後の録音は、今から四十年も前の日付だった。
珍しいな。
レイナが音楽のことで質問があるなんて。
わが娘ながら、君の独立心にはいつも感服するけど、もう少し親を頼ってくれても――はいはい。
マコト・ヤナギ?
彼は優れた作曲家だよ。
何度か一緒に活動したことがある。
確かに、昔は歌も歌ってたよ。
僕はあんまり聴いた記憶はないけど。
ふうん。
それは、なんとなく分かる気がするな。
チェットか。
実際に聴いたわけじゃないから、正確なことは分からない。
ただ、彼が歌わなくなったのには、理由がある。
彼は、親しい人間と二度と会えなくなる出来事があって、そのときから歌は歌わなくなったって聞いてる。
もう四十年ほど前になるかな。
いやいや、リトル・ルナで、寿命以外で命を落とした人間はいないよ。
あのとき、三人の人間が、地球に降りたんだ。
ミッションの詳細はリリィが教えてくれるよ。
さあ、そこまでは知らないな。
あまり本人に尋ねられるような話でもないからね。
参考になったかな。
いえいえ。
ああ、ところで、最近作った僕の曲なんだけど――はいはい。
最近すごく調子いいです。
ヤナギ先生のおかげです。
だって、先生ですから。
呼ばれたことないんですか。
ああ、じゃあ、慣れてください。
もう慣れましたか。
まだ慣れないんですか。
先生、ここのロングトーンが。
慣れてきましたね、先生。
あの、先生、質問があるんですけど。
意味があると思いますか。
私たちがやっていること。
第一世代の人たちの中には、芸術家や歌手や演奏家がたくさんいました。
でも、第二世代、第三世代と、その数は減ってきています。
私は父も母も音楽家だったから、自然にこの道を選んで、これまで深く考えたことがありませんでした。
リトル・ルナでの日々の活動にはすべて同一の価値があると設定されています。
だから金銭のやり取りはないし、必要なものはすべて与えられている。
私たちがやっていることに対して、これまで誰かに意味がないとか、価値がないとか言われたこともないです。
でも、不安なんです。
これから先もそうであればいいんですけど、実際のところ、この先どうなるのか誰にも分からない。
それに、アーカイブには膨大な量の過去の作品があります。
わざわざ、私たちが新たに生み出す必要があるのでしょうか。
昔、ある人に言われたことがあるんだ。
僕たちのように、人の感情に寄り添える能力があるのは、すごいことだって。
リトル・ルナの活動規範には、細かな設定はされていないけど、僕たちのような活動はちゃんと価値があると思うよ。評議会でも基本的な骨子としてそこは認められている。
新しい作品を生み出すこともちゃんと意味がある。
その時代、そのとき、その場所でなければ生み出せないものがあって、それはその時代、そのとき、その場所を生きる人たちにとって、とても大事なものなんだよ。
そういうものを生み出す人は、必ずいなくちゃならない。
必要があるよ、僕たちは。
そのある人って、地球に降りた人ですか。
ツェリン・ドルマ。
ツェリン素子を作った人ですよね。
私たちが使っている、高効率水素発生装置を発明した人。
その人がいなくなったから、歌うの、やめちゃったんですか。
あの。
すみません、立ち入ったことを聞いちゃいました。
自分でも、よく分からないんだよ。
未だに。
確かに、うまく歌えなくなったのは、彼女がいなくなってからだ。
でもそれが原因なのかどうか、自分でもよく分からなかった。
ああ、どうだろう。
たぶん難しいと思う。
まあ、一応考えておくよ。
それは言われたことがあるけどね。
特に気にはしてなかったな。
検討はしている。
君も粘るね。
分かった。
でも、ひとつ、条件がある。
トランペットパートは君がやってほしい。
そしたら、録音してもいい。
どうかな。
うん。
いいね。
じゃあ、ちょっとやってみるか。
チェットのオリジナルはギターとベースだけど。
まずはピアノとボーカルで。
そのあと、入ってきて。
スリー、フォー、
――君の唇の感触
僕の顔に触れている
それは冷たくて甘い
その柔らかさの中にあるやさしさ
僕の心臓は鼓動を忘れてしまう
やっぱり、すごい。
これでうまく歌えないって。
どんだけハードル高いのよ。
――君の手の感触
僕の額に触れている
君の瞳が愛に輝いてる
今それは神聖な瞬間
君の唇が触れている
僕の唇に※
※『The Touch of Your Lips』Chet Baker(作詞:Ray Noble)より引用
先生がこちらを見る。
すっ。
息、吸い込み。
そして、マウスピースが唇に触れた。
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