10.ピンクのパールをつけたクマ

 こんな日に限って、車いすの調子が悪いなんて。

 ほんと、私ってついてないわ。

 ああ、ごめんなさいね、マヤ。

 ええと、あれはどこにやったかしら。

 カレンが作ってくれた髪留め。

 あら、ほんとだ。

 もう、私ったらほんと、おばかさんね。

 ちゃんと付けてたわ。

 じゃあ、みんなで出迎えましょう。

 はるばる空の向こうからやってきたお客様を。


 ツェリン!

 ツェリン・ドルマ!

 久しぶりね、本当に。

 リオデジャネイロの学会以来だから、ええと、二十何年?

 まあとにかく、無事でよかったわ。

 あなたが、天気読みね。

 あなたのおかげで、通信環境が維持できて助かったわ。

 ここではもう、男の子の格好をしなくてもいいのよ。

 ふふふ。

 もちろん、知ってるわよ。

 ミシガン、ありがとう、ご苦労さま。

 あら、二人はもう仲良しになったのね。

 ミシガンは、今ここのリーダーよ。

 私?

 私は何かしら。

 みんなからは、お母さんって呼ばれてるけど。

 ええ、いいわよ、天気読み。

 ツェリンは……。

 そうね。

 博士、か。

 博士って呼ばれるのは本当に久しぶりだわ。

 ヴェラ・スマイルズ博士。

 いいわね、たまにはそういうのも。


 デイジーの予想でも、あと数十年のうちに、雨季が来る。

 長い雨季が。

 それが終わったら、世界は一変する。

 空は晴れ、太陽が降り注ぐ。

 でも、人類は放射能を大量に含んだ雨に耐えられない。

 おそらく、ほとんどの人間が死ぬでしょう。

 ここにいる私たちを除いて。

 私たちは何としてでも生き延びなければならない。

 私たちだけの力で。

 皮肉なことに、デザイナーチャイルドを糾弾する人間もいない。

 だから私は、倫理を捨てて、彼女たちを生み出す。

 有能な女性たちを。

 そしていつか空が晴れたら、あなたのツェリン素子が革命をもたらすわ。

 個人が生涯で使用するエネルギーをノーコストで賄える。

 さらに、私の人工光合成を組み合わせれば。

 それと、ここにある大量の精子バンク。

 人工胚。

 研究開発のガイドラインはデイジーに教えてある。

 人類は変化するわ。

 そうなるまでには長い長い年月がかかるけれど。

 大事なのは、持続すること。再生すること。有機的なこと。

 その礎となるのは、私たち女性よ。


――ゆらゆらと漂う天使の髪

  空中に浮かぶアイスクリームの城

  羽の渓谷はどこまでも続く

  かつて私は雲をそんなふうに見ていた

 

  でも今や雲は太陽の光を遮り

  人々に雨や雪を降らすだけのもので

  やりたかったことは沢山あったのに

  雲は私の行く手を阻むものとなった

 

  私は雲を二つの側面から見ようとした

  上から見て

  下から見て

  それでもやっぱり雲というのは幻のようなもので

  結局のところ私は雲のことなんて

  これっぽっちも分かってはいなかったんだ※

   ※『青春の光と影』ジョニ・ミッチェル(作詞:ジョニ・ミッチェル)より引用


 これ、いい歌詞ね、ツェリン。

 この端末はリトル・ルナから持ってきたの?

 そう。

 いいお友達ね。

 この端末は大切にしなさい。

 あなたはまだ若いから――いえ、充分若いわよ――そんなことは思わないかもしれないけど、私たちのような研究者にはインスピレーションを与えてくれるものは大事よ。

 私はこの曲を聴いて、DNAコンピューティングについて十個の新しいアイデアを思い付いたわ。

 残念ながら、私にはもうそれを形にする時間は残されていないけど。

 ともかく、私たちの物語にとって、この端末は重要な役割を果たすような気がするわ。


「ヴェラ。あなた、あのクマのぬいぐるみ、どうしたの?」 


 ああ。

 ごめんなさい。

 ちょっと、うなされてただけよ。

 大丈夫よ、ええ。

 本当に。

 じゃあ、水を持ってきて。

 ありがとう、ミシガン。


 お母さん、私あの人、好きじゃない。

 お父さんって呼ばなきゃだめ?

 どうしても?

 あの目。

 私を見る。

 あの目。

 

「ヴェラ。お父さんからもらった、あのクマのぬいぐるみ、どうしたの?」


 あんなことは一度だけだった。

 あんなふうに、私に触ったのは。

 

「ヴェラ。あのクマは?」


 知らない。

 憶えてない。

 私はパブリック・スクールに入るとすぐに、家を出た。

 そのときはもう、あのクマはなかった。

 どこに行ったのか、知らない。


「ヴェラ。これ、クマの耳じゃない?」


 知らない。

 いいえ。

 本当は知っている。

 私は、クマの腕を切った。

 足を。耳を。目をえぐった。お腹を割いた。

 嫌なことがあるたびに、私は。

 そして、あのクマは。

 クマは。


 違う。

 私が彼女たちを生み出したのは、そんなことが理由じゃない。

 デザイナーチャイルドを生み出したのは、そんなことが理由じゃない。

 ここを女性たちだけの砦にしたのは、そんなことが理由じゃない。

 そんなことが理由じゃない。


 ここに来てからまだ間がないというのに、ごめんなさいね、ツェリン。

 延命措置はできるけど、そのリソースは別のところに使いたいから。

 将来の計画はすべてデイジーに引き継いであるけど、あれをどうするかは、あなたの判断に任せるわ。

 あれが人類にとって正しいことなのかどうか、私には分からない。

 結局のところ、私は人間のことなんてこれっぽっちも分かってなかったのかもしれないわね。

 研究者は、常に物事をいろんな角度から見なければならない。

 私は常にそう思ってやってきたわ。

 上から見て、下から見て。

 それでもやっぱり、難しかったわね。

 人間と言うものは。

 彼女たちのこと、よろしくね。

 あなたが間に合ってくれて、本当に良かった。


 お母さん。

 あのクマはね。

 ここにあるのよ。

 彼女たちが繕ってくれた。

 腕も足も目も耳もお腹も元通り。

 素敵でしょ。

 服も作ってくれたのよ。

 アクセサリーもね。

 カレンは手先が器用なの。

 ピンクのパールをつけたクマよ。

 いいでしょ。

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