20

 宙色は夜になるまで自室で過ごしていた。昨晩あれだけ大騒ぎしていた『七月のロマン』の面々も、流石に二晩続けて宴会をすることもなく、食事も各自で適当に済ませているようだ。気を利かせた伊藤が食事を部屋まで運んできてくれたので、宙色もわざわざ食堂に行くこともなく夕食を済ませることができた。

 部屋で一人ベッドに寝転がり、宙色はぼんやりと窓の外を眺め続ける。どれだけ考えても、自分が『七月のロマン』に入るべきかの決心がつかないでいた。伊藤の話では、この部屋自体は何日でも使って構わないということだが、自分の仕事もいつもまでも放っておくわけにはいかないため、明日の朝の便ではここを発つ必要がある。返事はじっくり考えていいとも言われているが、東京に戻る前にある程度結論を出しておきたかった。

 窓の外から見える空からは段々と明るさが失われていき、やがてすっかりと夜になる。明日は出発の準備もあるため早起きしなければならないので、このまま寝てしまってもいいところだが、流石に一日何もしていなくては眠ることも難しそうだ。

 なんとなしに窓を開けてみると、遠くで波の音が聞こえてきた。そう言えばせっかく離島に来ていたのに碌に海を見ていなかった気がする。この時間に海辺に出たところで泳ぐこともできなければ景色を楽しむこともできないが、都内にいてはそうそう気軽に楽しめないことには違いない。宙色はポケットにスマホだけ突っ込むと、部屋を後にした。


 建物の敷地を出てものの十分ほど歩くと、こじんまりとした砂浜があった。すっかり暗くなっている上に海水浴場と違って整備されていないため、足元にはゴミや大きめの石がごろごろと散乱している。スマホのライトで足元を照らしながら慎重に海へと歩いていくと、暗闇の中に人影が見えた。

 その人物は宙色に気づいたのか、振り返って宙色のスマホの明かりに眩しそうに目を細めた。

 「あ、すみません、人がいるとは思わずに」

 慌ててライトの向きを下にして謝罪すると、その人物が少し驚いたような声をあげた。

 「ああ、なんだ宙色君か。昨日ぶりだね」

 「中井さん」

 聞き覚えのある声に、宙色は少し安堵する。

 砂浜に腰かけていた中井は、耳に着けていたワイヤレスイヤホンを外しながら立ち上がった。手ぶらのようだが、音楽でも聴きながら何か考え事でもしていたのだろうか。

 「こんな時間にどうしたの?散歩でもしに来たのかい?」

 「いえ、そういうわけではないんですが……」

 「そうかい?まあ、せっかくだし座りなよ。少し話でもしようよ」

 中井はそう言って自分が座っていたあたりを指さす。スマホのライトを向けてみると、比較的平らで横長の石が転がっている。少々窮屈かもしれないが、二人分くらいは問題なく座れるだろう。宙色は中井の言う通り、彼の隣まで歩み寄ってその場に座りこむ。ひんやりとした感触が心地よかった。

 「意外と座り心地悪くないだろ?」

 中井が再び腰を下ろしながら、少し自慢げに尋ねてきた。

 「まあ、見た目よりは。それに、静かでいい場所ですね」

 「だろ?うちはなんだかんだ設備も整ってるし、リラックスするための休憩室もあるけれど、やっぱり一人になりたいときはあるからな」

 「……なんかすみません、お邪魔でしたよね?」

 中井の話を聞いてなんだか申し訳なくなり、宙色は謝罪する。すると中井は慌てて首を振って否定した。

 「いや、全然大丈夫。別に隠してるってほどの場所でもないし。それにそもそも、宙色君に知られたところで特に問題ないからな」

 中井が焦って否定する様子が少し愉快で、宙色も思わず笑みを浮かべた。

 「まあ、確かにそうですね。自分も明日の便で一旦東京に帰るつもりなので」

 「え、そうなの?……まあ、宙色君も今持ってる仕事かあるし、あんまり長居はできないか」

 宙色の言葉に中井は一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに納得したように頷いた。

 「はい、明日からはこの二日間分働かないといけないので……」

 「人気者だねえ」

 「……まあ、ありがたいことに」

 この二日で幾度となく言われてきた軽口に、宙色もつい冗談めかした返答をし、中井も肩を揺らして笑った。中井は比較的年が近く、イラストレーターとアニメーターで分野が違うこともあり、伊藤とはまた違った意味で気兼ねなく話ができる相手でもあった。

 「けど、宙色君がうちに入ったら困るな。やっぱりこの場所のことは忘れてくれ」

 中井は何の気なしにそう言ったが、その口調からして宙色が『七月のロマン』に勧誘されていることも知っているのだろう。そして、恐らく宙色が梨子のことも含め、『七月のロマン』の真相について既に知っているということも、他のメンバーにとっても周知の事実なのだろう。

 「……そうですね。実際どうするかは、まだ決めかねてるんですが」

 宙色が素直に言うと、「あ、そうなの」と軽い口調で中井は言う。

 「まあ、大事なことだからじっくり考えたらいいと思うよ。僕も結構悩んだし」

 「そうなんですか?」

 宙色に尋ね返され、中井は神妙な顔つきで首肯した。

 「僕の場合は、まだアニメ会社に所属していたからね。ここに来るとなると会社を辞める必要が出てくるから、流石に即決はできなかったなあ」

 中井は過去を懐かしむように語る。恐らく中井が『七月のロマン』に所属したのはそれほど昔のことではないだろうが、彼にとっては遠い昔の出来事に思えるほど、この場所で過ごしている時間は濃ゆいものなのだろう。

 中井の横顔を見ていると、彼に対して尋ねたい質問が頭の中に浮かんできた。宙色はそのまま口を開こうとしたが、すんでのところで思いとどまる。今自分が問おうとしたことは、人によってはかなり繊細な問いかけになるからだ。宙色は言葉を選びながらゆっくりと口を開く。

 「中井さんは、その……」

 「なんだい?別に怒りはしないから、なんでも言っていいよ」

 必死に言葉を選んでいるのが伝わったのか、中井に先回りされてしまった。なんだか申し訳ないが、宙色もその言葉に甘え、率直に問いかける。

 「後悔、してないんですか?ここに来たことを」

 「ないね」

 答えは一瞬だった。考えも悩みもしなかったのは、こちらの質問をあらかじめ予想していたからか、あるいは彼の中に確固たる答えがあったからか。いずれにせよ、中井の中にそう断言できる根拠がないとできない回答だった。

 なら、そう言い切れる理由はと尋ねようとすると、またしても中井が先に口を開いた。

 「そもそも、僕にとって作品を創ることはあくまで手段なんだと思ってる。もちろん僕なりに信念やポリシーを持って創作に取り組んでいるつもりだけど、そこが本質かと聞かれるかと少し違う気がするんだ」

 「……というと?」

 「僕にとって、作品を完成させることは一番の目標じゃないってことさ。そこから先、その作品で見た人を泣かせたい、笑わせたい、感動させたい。そうやって他人の心を動かしたいのさ。だからこそ、スポンサーや制作会社の意向も、つまらないマーケティングも一切絡まないここでの作品作りは、僕に合っている」

 そう語る中井の目に迷いはなく、口調も心から楽しそうだ。自分や伊藤の例から、ここにいるクリエイターは誰もが自分たちの在り方に苦悩しているものと思い込んでいたが、どうやらそうではないらしい。

 「なんだか、中井さんって俺が思ってたより合理的ですね」

 「なんだその感想。逆にどういうイメージ持ってたんだ」

 宙色の率直な感想に、中井は冗談交じり小突いてくる。

 「それに、どちらかというと君もどっちかというと僕側のタイプだと思ってたんだけどね」

 「自分が、ですか?」

 予想外のコメントに、宙色は思わず聞き返す。

 「ああ。なんとなくだけど、君にはいい意味で創作に対する『こうあるべき』みたいなこだわりのようなものがあまりない気がする。だからこそ、イラストの幅も広いし、他人の作品からも技術や魅力的な作風をどんどん盗める。そういうタイプな気がするよ。あくまでなんとなく、だけどね」

 中井はもう一度念を押すようにそう言ったが、彼の言っていることはかなり確信をついている気がした。自分の手で何か作りたい至高の作品のイメージがあるわけではなく、ただ漠然と『良い』作品を生み出したいというのが、クリエイターとしての自分の欲求だ。そしてその『良い』作品の判断基準さえも、己の主観からというより、これまで触れてきた数々の名作や世間で評価されてきたものから逆算されてできたものに依っている気がする。伊藤に『七月のロマン』に誘われたのも、自分のそういうところが見抜かれていたからなのだろう。

 だとすれば、やはり『七月のロマン』の在り方を認め、彼らとともによりよい作品を創っていくべきなのか。創りたいものに対して絶対的なこだわりというものがない自分のような人間こそ、『七月のロマン』の一員に相応しいのではないか。

言葉を発しない宙色に対して、中井はしばらく何も言わずにじっと目の前に広がる暗い海を眺めていた。だが、やがておもむろに立ち上がると、宙色の肩を軽く叩いて優しく口を開いた。

 「まあ、一番大事なのは君がどんな思いで創作を始めたのか、ということかもしれないけどね。仕事として絵を描いていたことではない、本当に自分の創りたいもののために創作をしていたころの自分。君にもそういう時期があったんじゃないか?」

先に戻るよ、と言い残し、中井はその場を離れていった。宙色は少しの間去り行く彼の背中を見送ってから、中井に言われたことを反芻した。

 絵を描き始めたきっかけ。それこそ、宙色にとっては何か大きな意味があるものではなかった。ただ、他人よりも絵が上手く、なんとなくそれを仕事にできそうだからイラストレータ―という道を選んだ、それだけに過ぎない。益々、『七月のロマン』として活動しない理由がなくなっていくように感じた。

 宙色は静かな波音を立てる海を茫然と見つめていた。そこには確かに広大な光景が広がっているはずなのに、今はただひたすら闇に包まれていた。

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