19
一体どれくらいそうしていただろうか。控えめに扉をノックされる音が聞こえ、宙色は顔を上げた。どうぞ、と返事をすると、ゆっくりと扉を開けて来訪者が顔を見せる。
静かに入室してきた伊藤は、こちらを見てたじろぐような仕草を見せた。余程ひどい顔をしていたのかもしれないと思い、宙色は無理にでも笑顔を作った。
「……おはようございます」
「おはようなんて時間じゃないけどな」
伊藤も真似をするように曖昧な笑みを浮かべながらそう返してくる。部屋に入ってきた伊藤は、遠慮がちにベッドのそばの椅子に座ると、口を開いた。
「辰巳さんから話は聞いたよ。あの後、結局梨子とも話したらしいな」
「ええ……おかげで、いい作品が描けましたよ」
「……悪かったな。騙すような真似をして」
宙色の言葉に、伊藤は申し訳なさそうな顔で返す。宙色も、別に伊藤を困らせるつもりはなかったので、努めて明るい口調で言い返す。
「いえ、大丈夫です。多分言われても信じられなかったと思うので」
宙色が正直に言うと、伊藤も力のない笑みを浮かべた。
「そうか……そうだよなあ。あれは、なんというか……その……どうしようもないよなあ」
散々言いよどんだ果てに、そう言ってお手上げと言わんばかりに肩をすくめた。
「……そうですね。あれはもう、どうしようもないですよね」
そんな伊藤の様子に宙色も少し安堵して笑う。伊藤もかつて同じ絶望を経験したのだという事実に、少しだけ心が救われたような気がした。
「なんていうかあれだな。初めてゲームのネット対戦をやったときに似てるんだよな」
「……というと?」
伊藤の言葉の真意がわからず、宙色は素直に問い返す。伊藤は雑談でもするような軽い口調で言葉を続けた。
「子供の頃ってさ、ゲームの細かい仕様とかわからないままやりこむだろ?ポケモンとかでも、努力値とか個体値とか無視してひたすらレベルあげちゃうみたいな。それでも周りも皆ガキだからそれだけで戦えちゃうわけ。でも、中学生とかになってはじめてネットで対戦やると、全然勝てなくて。あの時の絶望にちょっと似てるよな」
伊藤は昔を懐かしむような目をして語る。そんな彼に、宙色は少し遠慮がちに言葉をかけた。
「すいません、そのたとえはちょっとわかりません……」
「なんでだよ、お前もゲームとか好きだっただろ?」
「俺の世代がゲーム始めるころには、ネット対戦って割と当たり前だったので……」
「クソ、こんなところでジェネレーションギャップを感じるとは」
本気で悔しがる伊藤に、宙色は声をあげて笑ってしまう。その様子を見て、伊藤は悔しそうにしながらもほっとしたような顔をした。宙色をこの場所に読んで梨子と話させたことに、責任を感じていたのかもしてない。
恐らく、宙色が今感じている絶望は、伊藤がかつて通った道なのだろう。だからこそ、宙色の精神面を案じて、こうして明るく振舞おうとしてくれている。
彼の作品作りのスタイルは、もう宙色が知っているものではない。この『七月のロマン』の一員である以上、伊藤も梨子からの告げられるイメージを元に創作を行っている。クリエイターとしては、伊藤は宙色が出会ったころから全く別人と言えるかもしれない。
だが、それでも伊藤という人の本質は宙色が出会ったころから変わっていないのだ。面倒見の良い彼の姿を見て、宙色はその事実を再確認する。
だからこそ、宙色は答えづらい質問でも真摯に答えてくれるだろうという信頼の元、伊藤に問いかける。
「伊藤さんが、どうして俺を『七月のロマン』に誘ってくれたんですか?」
宙色の問いに、伊藤はさすがに少し面食らったような表情を浮かべた。だが、気まずそうな様子を見せたのは一瞬で、すぐに真面目な目でこちらを見据えながら語り始めた。
「まず第一に実力だ。言っておくが、梨子と話せば誰でもあんなことができるってわけではない。梨子の言葉を作品に落とし込めるのは、十分な腕前と彼女のイメージをくみ取れる読解力がある人間だけだ」
伊藤はじっとこちらの目を見ながら話す。梨子に授けられたイメージを元に創作を行うことは、誰にでもできることではないのだと、宙色に、そして自分自身に語り掛けるようでもあった。
伊藤の言葉は紛れもない事実なのだろう。梨子が語るのは、あくまで理想の作品のイメージに過ぎず、それを具現化させているのはここにいる一級品のクリエイター達だ。半端な技量では梨子から授かったイメージを100パーセント作品に落とし込めない。そして、実力があっても読解力がない人間では、梨子の要領を得ない説明から彼女の中にある至高のイメージを引き出すことができない。圧倒的な技量と梨子のイメージをくみ取る頭脳を併せ持つ『七月のロマン』の面々なしでは、梨子の中に眠る傑作は決して世界に産み落とされない。そのことは、彼らのメンバーにとって一つの誇りなのだろう。
「……なるほど。でも、もちろんそれだけじゃないんですよね?」
宙色はある種確信のようなものをもってそう尋ねる。宙色にとっても、知名度や世間からの評価よりも、伊藤が言ったようなクリエイターとしての能力を評価して勧誘を受けたというのは悪い気はしない。
だが、ただ実力があるだけならば宙色以上に適任のクリエイターは大勢いるだろうし、何より変に知名度がある宙色のような人間が所属するには、『七月のロマン』という団体は隠すべき秘密が多すぎる。いささかリスキーと言わざるを得ない。
だから、自分が選ばれたのには他にも理由があるはずだ。そして、それはあまりポジティブなものではない。そんな予感が、宙色の中にひそかにあった。
そして、案の定伊藤は先ほどよりずっと言いづらそうに口を開いた。
「……ある程度優秀なクリエイターなら、梨子と出会えば皆ああなる。その人の心情や思想、創作に対する主義や姿勢も関係ない、あの子が示すのはそれくらい絶対的で、圧倒的なものだからな。だから、どうせあの子と会わせるのなら、あの子の神託を必要としている人間の方がいい」
伊藤の言葉が、宙色の胸に突き刺さる。口調こそ重かったが、その言葉はとても明瞭に発せられた。
梨子の神託を必要とするもの。すなわち、作るべき作品のイメージが自分の中で薄いもの。クリエイターにとっての核とも言える『自分が何を描きたいか』がないのだと、伊藤は宙色に言っている。
本当なら、激怒してもよい場面だったかもしれない。伊藤の言葉は、創作を生業としているものにとっては侮辱に等しいものだ。だが、宙色の中には不思議と怒りは湧いてこなかった。
「……まあ、それを言われるとどうしようもないですね」
宙色はそう言って苦笑いした。
伊藤の言う通りだ。宙色には多くのクリエイターが持つ、こんな作品を創りたいという衝動がないのだ。普通自分が創りたいものが先にあって、そのために技量を身に着けるのがクリエイターの常だ。だがなまじ器用だった宙色は、具体的な理想を持たず、ただ漠然と至高の作品を創りあげたいという理想の元、ここまで創作を続けてしまっていた。
優れた技量を持ちながら、自分の中に目指すべき作品のイメージを持たない宙色のような人間にとって、確かに梨子のもたらすイメージは必要なのかもしれない。伊藤は、そこまで見抜いたうえで宙色をこの場所に招いたのだろう。
そして、宙色が怒る気になれなかったのにはもう一つ理由があった。苦笑する宙色に対して、伊藤も諦めのような感情をこめて返答する。
「そして、それは俺も同じだ」
伊藤は己の罪を告白するように、絞り出すように言葉を続ける。
「ここ数年、自分に何が描きたいかが分からないまま絵を描いてきた。クライアントの依頼に沿うものさえ描いていれば仕事にあぶれることはなかったが、ずっとクリエイターとしての俺は死んでいたんだ。この年で描きたいものがなくなっちまうのは、絵師としてあまりに致命的だからな。辰巳さんに誘われて梨子と会ったのは、そんな時だった」
伊藤は当時を思い出すように一呼吸おき、小さく笑うように息を吐いた。
「最初は俺もショックだったよ。あの子に描かされた最初の作品は、明確に描きたいものがあったころの俺の絵よりも遥かにいいものだった。自分の未熟さと才能のなさを思い知らされたよ。でも、今考えるとあの時俺は救われたのかもしれない」
伊藤はそう結んだ。救いというのは言いえて妙だ。今の伊藤に、自分が何を描くべきか悩んでいたころの面影はない。彼には、梨子の中に眠る至高の創作物を実際に形にし、世に送り出すという使命があるからだ。梨子の神託は伊藤に傑作のイメージを与えるだけでなく、彼にクリエイターとしての指針を授けたのだ。そういう意味では、彼女の行いが、悩めるクリエイターを一人救ったと言える。
宙色は昨晩の辰巳との会話を思い出す。梨子のイメージを元に作品作りを行っているのは、あくまで適材適所の役割分担にすぎないと辰巳は言っていた。今ならその言葉の意味もわかる。宙色や伊藤のように、実力を備えていながら自分が描きたいものがないクリエイターに、作品を創る力を持たない梨子がイメージを授ける。お互いに足りないものを補い合って作品を創る、集団での創作での理想の形だ。
歪に思えていた『七月のロマン』の在り方は、本当は集団としてのクリエイターの形の理想形なのかもしれない。今、宙色は昨晩とは真逆の印象を、彼らに対して抱いていた。
『七月のロマン』の実力も、環境も、その理念も、今の宙色は理解している。ならば、宙色が『七月のロマン』に入るか否かを決めるのは、残り一点のみ。
梨子という他者に自分の創作を委ねることに大して、自分の中で折り合いがつけられるか、それ次第だった。
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