17
「こっちのフォルダは?こっちも君が描いたの?」
「あ、そっちは違いますよ。見てみてください」
梨子の言葉のままにもう一つのフォルダを開くと、中には数枚のイラストが保存されている。それらを確認し、宙色は思わず息をのんだ。
保存されていた作品は描かれているものも作風もバラバラだったが。そのどれもが熱のこもった傑作だった。作者の描きたいものが全面的に表れており、引き寄せられるような魅力にあふれている。技術も迫力も、先ほどの作品たちとは全く別次元だ。
「これってひょっとして……」
「はい。そっちのフォルダは私じゃなく、ここに住んでいる人たちに描いてもらったものです。一緒に出掛けた時とか、お仕事の合間とかにたまに描いてもらってるんです」
宙色の言わんとすることを察したように、梨子はそう説明した。その答えは予想通りのものだったが、作品のクオリティは想像以上のものだった。
短時間で描き上げた作品が多いからか多少荒々しさもあるが、それを加味してもこのまま世に出しても評価されるだろう作品ばかりだ。本業とは別の場所でもこれほどの作品を生み出せるのだから、『七月のロマン』所属のクリエイターのレベルの高さがうかがえる。同時に、そんな才能にあふれた人々が自分たちの意思で作品を創るのではなく、辰巳から聞いたような歪な形で創作活動に取り組んでいることが残念に思われた。
「そうだ!あの、一つお願いしたいことがあるんですけど」
そんな宙色の心中も知らずに、梨子が朗らかな調子で尋ねてきた。
「なにかな?」
「あの、ご迷惑でなければでいいんですけど、宙色さんにも一枚描いてもらいたいものがあるんですけど……」
梨子の言葉に、宙色は逡巡する。暇つぶしに描いたスケッチブックへの落書きならいざ知らず、子供相手とは言え軽々しく頼まれてイラストを描いてよいものか。『七月のロマン』所属のクリエイターたちにとっては梨子は自分たちのスポンサーの身内だが、宙色にとってはあくまで他人だ。そんな相手に、自分の作品を安売りすべきではないのかもしれない。
だが、宙色は少し考えたのち、笑顔で首肯した。
「まあ、一枚くらいなら大丈夫」
「本当ですか!ありがとうございます!あの、お金も払いますので」
「いやいや、いいって」
梨子は慌てて付け加えるが、お金をもらってしまっては正式に仕事として引き受けることになる。それはさすがにはばかられる。宙色は単に、このタブレットに保存された他のどのイラストレータよりも良い絵を描いてやりたいという、対抗心から彼女の頼みを聞いたに過ぎないからだ。
「で、何か書いてほしいものはある?」
本人の頼みで作品を描く以上、一応梨子にそう尋ねてみる。すると梨子は唸り声をあげて考えこみながら、考えを言葉にし始めた。
「うーんと……上手く言えないんですけど……私、中学生のころに家族で北海道に行ったんですよ。その時函館に行ったんですけど。その夜景がすごく綺麗で」
「函館の夜景か。あいにく写真でしか見たことがないんだよな……それでもいいなら描くけど」
宙色が聞き返すと、梨子は首を大きく振って否定して言葉を続けた。
「いや、そうではないんですよ。上手く言えないんですけど……その時夜景がすごく綺麗で。でも、旅行から帰ってからネットで検索してみたら、私が見たものよりもずっと綺麗な写真がたくさんあって。その時はすごくがっかりしたんです。でも、この島に初めて来た夜に、二階のバルコニーから星を見たんですよ。私、ずっと都内に住んでて星空ってみたことがなかったんですけど、それもすごく綺麗で。その時に、昔見た函館の夜景を思い出して……」
「ふむ……」
断続的に話し続ける梨子の話をしばらく聞いていたが、やがて宙色はペンをとって大まかな構図を練り始めた。梨子の話は脈絡がなく要領を得なかったが、じっくり話を聞いていると何となく彼女が言わんとすることが分かるような気がした。曖昧な調子で語り続ける彼女の話を聞きながら、並行して少しずつ全体の構図を決めていく。
はっきり言って、梨子の説明はお世辞にも上手なものとは言えなかった。話にまとまりはないし、そもそも言いたいことが定まっていない。だが、それは彼女が物事を順序だてて話すことや自分のイメージを的確に伝えることが苦手なだけで、彼女自身の中には何かしら言わんとすることがあるのだろう。一人の表現者として、宙色はそれをなんとか読み取ろうと、ところどころで梨子に質問をしながら絵を描き上げていく。
そうしていると、まだ自分が駆け出しのイラストレーターだったころのことが思い出された。まだ実績も知名度もなく、名前を売ることとキャリアを積むことのために様々な仕事を請け負った。中には要領を得ない指示で何度もリテイクをさせられるクライアントもいたが、そのたびに何度も対話を重ねてクライアントの中にある正解を模索していった。今の状況は、その時の感覚に近いものがあった。
途中で投げ出してしまってもよかった。報酬をもらっているわけでもなく、自分が心底描きたい絵でもない。適当に仕上げてもただの素人の梨子相手にはバレないだろう。だが、どれだけ梨子の説明が曖昧で不明瞭なものでも、宙色は彼女のイメージを的確に具現化させようとペンを走らせた。説明下手な素人の依頼であっても、作品として仕上げてやろうという意地もあった。
梨子の話は続き、やがて日は昇り行く。途中で彼女が用意してくれた麦茶を口にしながら、宙色は完成へと向けて筆を走らせた。
「よし……こんなもんかな」
最後の一筆を描き終え、宙色は作品の上書き保存をしてから一息ついた。
描かれているのは自然の美と人工物の美の対比だ。海とそこに浮かぶ島という上下に分かれた構成で、本来島と星空の美しい風景が写るはずの水面に、人工的な風景である夜景を描いた。色塗りはまだできていないが、この作品はむしろモノクロで表現した方が良いだろうと思われたので、ここで完成だ。
「お疲れ様です!本当にありがとうございます!見せていただいていいですか?」
宙色の言葉に、隣で完成を待っていた梨子が歓声を上げる。宙色は彼女にタブレットを渡し、わずかに残っていた麦茶を一気に飲み干す。とうに日は登り、気温も上がっていた。早く室内に入って涼みたいものだ。
「……やっぱり宙色さんはすごいです。私のあの説明でこんなにすごい作品を創るなんて」
「まあ、それがプロの仕事だからな」
極度の疲労と達成感で、宙色は普段なら口にしないようなセリフを吐く。先ほどまでは気にならなかったが、徹夜明けの目には燦燦と降り注ぐ日の光はひどく眩しく思えた。
それにしても、疲れと動揺もある中にしてはよい作品が描けたものだ。そう思うと、もう一度自分の描き上げた作品が見たくなった。
「それ、もう一回貸してくれないか?」
宙色の言葉に、梨子は嬉しそうにどうぞ、とタブレットを手渡ししてくる。宙色は今しがた自分が描き上げたばかりの作品を再度見直して、
目を疑った。
そこにあるのは、確かに自分が描き上げた作品だ。画面上部の自然風景も、水面に映る風景も、細部を見れば確実に自分の手で描き上げたものだとわかる。
だが、全体を見ると、まるで自分の作品ではないように思えてくる。自分の中からは、決してこんなイメージは生まれない。まるで知らない自分が描いた作品のようにしか思えない。
途端に、先ほどまでの時間が何か恐ろしいものに思えてくる。この絵を描いている間、宙色はずっと梨子の中にある正解を自分が引き出しているつもりで作品を創っていた。だが、実際のところは全くの逆だ。宙色自身が、今目の前に具現化しているこの傑作に向けて導かれていたに過ぎない。作品の完成形はずっと梨子の中にあった。彼女は、それを的確に伝え、表現する言葉や画力を持っていなかっただけなのだ。
宙色は目の前に顕現した奇跡の一枚を茫然と眺めながら、辰巳から聞かされた言葉を頭の中で反芻していた。
『梨子がクリエイターと話す。インスピレーションを受けたクリエイターが、その衝動のままに作品を創る。それだけで、理想の作品が出力される』
違う。インスピレーションなんて生易しいものではない。自分で体験してみて初めて、宙色は彼らが言っていたことの本当の意味が分かった。
梨子がクリエイターに与えるもの。それは人の考えでは到底たどり着かない、至高の作品のイメージ。それはまさに神に与えられるごとき唯一無二の正解であり、最早神託と呼ぶべきものに違いなかった。
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