16

 しばらくの間、辰巳と宙色はともに沈黙を保った。辰巳は言うべきことは全て話したと言わんばかりに、とうに氷の解け切ったウィスキーのロックを呷り、宙色もその様子を黙って見ていた。

 『七月のロマン』の歪なあり方は到底すぐに受け入れられるものではなかったが、辰巳の主張も即座に否定できるものではなかった。そもそも、宙色は未だに辰巳の語ったことが真実だと信じ切れていなかった。ただ話すだけで、クリエイターに傑作のインスピレーションを沸かせることができるなんて。例えそれを可能にする人間がいたとしても、それは自身も創作に精通した人間のはずだ。一介の少女であるはずの辰巳梨子にそれができるとは、未だに信じられなかった。

 その時、廊下からわずかにだが物音が聞こえてきた。どこかの部屋の扉の音だろうか。続いて、静かにだがぱたぱたと足音が聞こえてくる。誰かが起きだして、廊下を歩いているのだろう。

 その足音が去ってから、辰巳は廊下側の壁を眺めながら静かに呟いた。

 「恐らく梨子だな。あの子は最近朝が早いんだ」

 そう言われ、宙色は思わず腕時計で時刻を確認する。辰巳と随分話し込んでいたのか、時刻は既に朝五時まえだった。

 「高校生が、随分と早起きなんですね」

 「まあ、学校が学校だけに自由な子だからね」

 そう言ってから、辰巳は何か思いついたように口を開いた。

 「宙色君。梨子と話してきてはどうだい?」

 辰巳の言葉に、宙色は思わず彼の顔を凝視する。したり顔ではあったが、冗談を言っているような風ではなかった。

 「だって君、まだ信じてないだろう?」

 辰巳に胸の内を言い当てられ、宙色は思わず眉間にしわを寄せる。その物言いは、まるで彼女と話せば辰巳の言っていることが真実だとわかると言わんばかりの言いぐさであった。

 「……いいんですか。今聞いたこと全部言っちゃっても」

 「ああ、すまないがそれはやめてほしい。あの子は自分が『七月のロマン』の作品に関わっているとは到底思っていないからね。だから、さっきまでの話はオフレコで頼むよ」

 よくもまあぬけぬけとと、辰巳は一層嫌悪感をあらわにした。だが、そんな宙色の露骨な感情をまるで気にしないように、辰巳は言い放った。

 「だって、君だって気になるんだろう?宮本君や伊藤君たちに傑作を作らせているのがどんな人間かを」

 辰巳の言葉に、宙色は小さく歯ぎしりした。辰巳のその言葉は、一人のクリエイターとしての宙色の好奇心を明確に言い当てるものだったからだ。


 そうして、宙色は今、『七月のロマン』の中核を担う人間と一対一で隣り合って座っている。

 話したいこと、聞きたいことは山ほどあった。『七月のロマン』から発信された多くの傑作の原石が彼女の中から生まれてきたのなら、どうやってそれらの作品を思いついたのか。彼女自身、これまでどのように育ってきたのか。そして、彼女自身、自分がここのクリエイターたちの作品に関わっていることに本当に気づいていないのか。

 だが、実際に彼女と対峙してみると、そういった疑問より先に『そもそも辰巳の言っていた話が本当なのか』どうかが疑わしく思えてくる。『七月のロマン』というそもそもが常軌を逸した存在の、あまりに非現実的な真相を聞かされたところで、その核とされている梨子という少女の印象は変わらなかった。

 「こんな早くに起きて何してるの?」

 「なんだか目が覚めてしまって。それに、私はこの時間帯が結構好きなんです。日の出くらいの、誰も起きてない時間が。明るいのに静かな感じが好きで」

 「……ひょっとして、邪魔しちゃった?」

 「あ!いえ、そんなことないです!むしろ、宙色さんとはお話したいと思っていたのでうれしいです!」

 宙色の問いに、梨子は大げさに首を振って否定する。その様子が子供らしくてなんだか笑ってしまう。目の前にいるのは少し大人と話しなれているだけのただの子供だということを、改めて思い知る。

 「俺と話していても、何も面白いことはないと思うよ」

 宙色が投げやりに言うと、またしても梨子はかぶりを振った。

 「そんなことないです!私、宙色さんの絵がすごく好きで、聞きたいことはたくさんあるんです!」

 半ば興奮気味にまくしたてる梨子に、宙色は内心ため息をついた。あまりにも平凡な梨子の様子に、なんだか拍子抜けしたような気分になったからだ。

 「それより、一つ聞いていい?」

 「はい?なんですか?」

 出し抜けに聞かれ、梨子は少し驚いたようだ。目を丸くしている彼女に対して、宙色は一歩踏み込んだ問いかけをした。

 「君自身は、絵を描いたり、物語を考えたり、何か創作活動したいとは思わないの?」

 宙色の問いかけに、梨子は一層目を見開いた後、何やらもじもじと恥ずかしがる様子を見せた。しかし、やがて意を決したような顔つきになり、彼女は脇に置いてあった一台のタブレットを手に取った。

 「実は……最近少しだけ、これで絵を描いたりしているんです。私も」

 恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、彼女は慣れた手つきでタブレットを起動させる。彼女の私物らしく、ホーム画面には電子書籍や楽曲制作のアプリが数多く並んでいた。その中の、宙色も愛用している有料のイラス作成トツールを彼女は開いた。

 「これ、誕生日に叔父に買ってもらって。全然下手なんですけど、時間があるときは一日一枚くらい書くようにしてるんです」

 「デジタルで描いてるのか。現代っ子だな」

 宙色がそう言うと、梨子が少し緊張が解けたようにくすくすと笑った。宙色自身も若手のイラストレーターだが、デジタルで絵を描くことがここまで主流になったのは最近のことだ。梨子のようなデジタルネイティブの世代とは、また一つ感覚が違うものがある。

 「どんなもの描いてるんだ?良ければ。見せてもらってもいいか?」

 宙色が尋ねると、梨子は一瞬戸惑ったがすぐに作品を保存しているフォルダを開いて、どうぞとこちらに端末を渡してきた。

 フォルダには数十枚のイラストが保存されていた。日付が新しい順からイラストを見ていく。保存されたイラストは様々で、風景を描いたものや版権物の作品の二次創作もあり、カラーまでついているものもあれば下書きだけで終わっているものもあった。

 「宮本さんとか伊藤さんとかに見てもらうこともあるんですけど、やっぱり恥ずかしいですね。私なんかの絵をプロの人に見てもらうなんて……」

 不安さと恥ずかしさの入り混じった声の梨子に対し、宙色は優しく微笑んだ。

 「……いや、どれもよく描けているよ。デジタルって慣れるまでが大変だから、それでこれだけ描けてるのは十分すごいと思うよ」

 宙色の言葉に、梨子は心の底から嬉しそうに明るい表情を見せる。当然だ。誰だって自分の作品が肯定されるのは嬉しいことだ。まして絵を描き始めてすぐの十代の少女がプロのイラストレーターから褒められたとなれば、その喜びもひとしおだろう。

 だが、そんな彼女を尻目に、宙色は内心深いため息をついていた。

 別に梨子の絵が下手なわけではない。技術的にはまだまだ未熟だがそんなものは後からいくらでも身に着けられるものだし、そもそも十代半ばの子供なら継続して絵を描き続けている時点で十分及第点といえる。

 だが、彼女の絵には熱がなかったのだ。それは技術や経験とは関係なく、まして才能とも関係がない部分だ。自分の描きたいもの、作りたいものが彼女の絵からは見えてこない。少なくとも宙色の目には、彼女の絵は、単に周りの大人のクリエイターたちの見よう見まねで作品を創っているようにしか映らなかった。

 もちろん、彼女が趣味で絵を描いているだけならそれでも全く問題はない。仮にこれからプロの絵描きを目指すのだとしても、これから作品作りを考えていけばよいだけの話だ。だが、彼女が現在進行形で『七月のロマン』の作品作りの根幹に関わっているとはとても思えない。彼女の絵は、そんな平々凡々とした作品だった。

 やはりこんな素人同然の少女からのインスピレーションだけを元に創作するなんて、どうかしている。宙色は裏切られたような気持になりながら、タブレットを梨子に返そうとし、ふと別のフォルダが目に入った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る