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 宮本から渡された作品のプロットと脚本に一通り目を通し、宙色は小さく息を吐いた。そのまま座り心地の良い椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。

 一時間尺程度のそのアニメの脚本は、非常に面白いものだった。昼という概念がない常夜の世界で暮らす社会で、二人の男女が出会う。少女にはその世界にはないはずの『月明かり』をつかさどる力があり、その明かりによって二人は未開の世界を旅していく。プロット自体はシンプルなボーイ・ミーツ・ガールものでありながら、どこか新しさを感じる赴きあるストーリーだ。

 何より、宮本アリスの描けた脚本とキャラクターデザインが秀逸だった。脚本は人物のセリフが中心でありながら、ストーリーだけでなく作品の世界観をも雄弁に語っており、登場人物の言葉遣いから既にキャラクターの魅力が十二分に伝わってくる。彼女の小説は代表作を何冊か読んだことがあるくらいだったが、そのどれにも劣らない出来栄えに思えた。加えて、キャラクターデザインも彼女の良さをそのまま、作品に雰囲気に合った落ち着いたものになっている。作品のテイストに合わせて自分の作風を上手く落とし込む手腕に、宙色は思わず舌を巻いた。

 それに加えて、この作品はまだ完成していないのだ。ここから、『七月のロマン』の他のクリエイターたちによって絵となり、動きが加わり、音楽で作品が彩られる。それらの相乗効果によって出来上がる作品のクオリティがどれほどのものになるか、最早想像できない。

 これが超人クリエイター集団、『七月のロマン』の実力。今の宙色は、初めて作品を見たときの何倍もの憧憬を、彼らに対して抱いていた。

 感動で煮えたぎった脳を静かに深呼吸をして冷ましながら、宙色はゆっくりと体勢を戻した。いつまでも呆けているわけにはいかない。なぜなら、宙色の隣で今まさに、その天才たちが作品作りを行っている最中なのだから。こんな場面を見逃すわけにはいかなかった。

 宙色が宮本の脚本に読みふけっている間、宮本と中井は既に絵コンテづくりに取り掛かっていた。壁に取り付けれらたホワイトボードには既に大まかな流れと必要なシーンが列挙されており、既に全体の流れは決まっているようだ。今は二人で実際に絵コンテの作成に取り掛かっており、既に入りに数分分の絵コンテは完成しているようだ。

 「お、宙色君読み終わった?じゃあ、こっち来て一緒に考えてよ」

 体を起こした宙色に気づいた宮本にそう呼びかけられ、宙色も近くの席に場所を変える。

 「これ、ありがとうございます。アニメの脚本って初めて読んだんですけど、脚本の時点でこんなに面白いのって正直感動しました」

 読み終えた脚本を返しながら興奮冷めやらぬ状態で語る宙色を制するように、宮本は手首をふらふらと振った。

 「そうかいそうかい。まあ、感想は後で聞くよ。どんなに脚本が良くても、いい映像にしないと意味がないからさ。これ、アニメだし」

 宙色の感想には目もくれず、投げやりに彼女は言う。確かに彼女の言う通りだ。途中まで傑作だと思っていた作品が、イメージしていたものを上手く形に落とし込めず、完成してみれば半端な出来になってしまったという経験は宙色にも何度かある。最初に抱いていた通りの秀逸なイメージをそのまま作品に落とし込むことは、思っているよりもずっと難しいことなのだ。

 宙色が宮本達の手元を覗き込むと、ちょうど二人は物語のヒーローとヒロインが邂逅するシーンの絵コンテを考えていた。中井が大まかに流れを描いていき、時折宮本と言葉を交わして部分的に修正し、一シーンずつ作品がビジュアルに落とし込まれていく。コンテが一枚上がるたびに、作品に命が吹き込まれていくようだった。

 だが、中井たちの作業の特筆すべき点はそのクオリティだけではないことに、宙色はすぐに気づいた。横から眺めていて、中井はほとんど書き直しをしていないのだ。書き始めるタイミングで場面転換や構図に少し悩んで宮本と会話を交わすことはあれど、一度筆を走らせ始めればそこから手が止まることはほとんどない。まるで最初から正解が見えているように、中井は迷いなく宮本の脚本を静止画に翻訳していく。絵コンテなので細かい書き込みがないこともあるが、それにしても中井の書き進めていくペースは尋常ではなかった。

 宙色が中井とあったことがあるのは一度だけで、実際の仕事ぶりを見るのは初めてのことだったが、ここまで筆の早いアニメーターだとは思わなかった。それに、絵コンテと原画は似て非なる肯定なので、中井にとってこれは本職の作業ではないはずだ。にもかかわらずここまでのスピードとクオリティを両立するとは、さすがは『七月のロマン』の一員だけある。

 しかし、それまでほとんど止まることなく筆を走らせ続けていた中井の手がピタリとと止まった。数秒間躊躇ったのち、作業を始めてから初めてペンを置き、考え込むように俯いた。

 「さて、ここはどうしようかねえ」

 隣でところどころ口をはさんでいた宮本もそうこぼす。口調こそ飄々としているが、その瞳は真剣そのものだ。

 彼らが悩んでいるのは主人公が初めてヒロインと出会うシーンだ。ヒロインの力で光を与えられ、生まれて初めて暗視ゴーグルを外した主人公。二人の出会いのシーンであり、劇中でも非常に重要なシーンであり、初めて他人の顔を鮮明に見た主人公の感動を表現する必要がある難しいシーンだ。

 その中で、特に彼らが思い悩んでいたのは初めて明らかになるヒロインの表情だ。微笑んでいるべきなのか、驚いているべきなのか。はたまた主人公に気づいていない様子の横顔を描写すべきなのか。どんな表情でも絵になりそうなものだが、逆に言えばどれが最適解となるのかが難しいところだ。

 「ヒロインの性格を考えると、笑っているべきかもしれませんね……後の展開を考えても、彼女の明るい性格を最初の印象として受け手に伝える必要もありますし」

 「まあ、全体のバランスを考えるとそうかもしれないけど、なんとなく驚いた顔も見てみたいんだよね、私は。ほら、笑うシーンは他でもあるけどあんまりびっくりしないじゃん、ヒロインこの娘。普通に驚いた顔とかかわいくなりそうなんだし、驚かせておくのもありかもって思うけどね」

 ストーリーの整合性やシーンとしての見どころなど、様々な観点から中井と宮本の議論は続いた。どちらの主張も一理あるし、作品全体の一シーンに過ぎないので、はたから見ればそこまで悩む必要があるのか疑問に思うかもしれない。

 しかし、神は細部に宿る。些細なシーンだとしても一切妥協せずに、自分たちが納得する答えに行きつくまで考え続ける。彼らは今までも、そんな地道な歩みで傑作を作り上げてきたのだ。先ほどまで迷いなくすらすらとペンを走らせていた時よりもずっと強い敬意を、宙色は今、中井たちに抱いていた。

 その間、宮本と中井はずっと同じシーンについて議論をしていたが、やがて宮本が何かを思いついたかのようにこちらを向き直って口を開いた。

 「そうだ。宙色君ならこのシーン、どう描く?」

 「え、俺がですか?」

 唐突に話を振られ、宙色はつい間の抜けた声を出してしまう。話が行き詰ったがゆえに意見を問われたのかと思ったが、宮本の表情は真剣そのものだ。

「だってせっかく来てもらってるんだし。こういうワンシーンでキャラクターを魅せるの、宙色君得意じゃない?」

 軽い口調で宮本は語り、その横で中井も静かに頷いた。

 途端に、それまで感じていなかった重圧が宙色の心にのしかかってきた。もちろん、先ほどまでもただの傍観者でいたつもりはなかった。宮本にも最初に好きに意見を言っていいとも言われていたし、この場に招いてもらっている以上、一人のクリエイターとして意見できることがあればどんどん口をはさんでやろうと思っていた。しかし、アニメという本業とは違う畑で、しかも迷いなく作業を進めていく中井たちに圧倒され、いつの間にか一歩引いた視線で彼らの会話を眺めてしまっていた。

 だが、宙色も一人の創作者だ。それに、ついさっきまでトップクリエイターとしての偉業を見せつけられた宮本と中井から、一人のプロとして意見を求められている。これ以上に嬉しい期待はない。

 そうですね、と呟きながら、宙色は頭をフル回転させて自分の考えをまとめる。自分が尊敬するクリエイターから試されているようなこの状況に、宙色は心を躍らせていた。

 「自分なら、このシーンは――」

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