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その後、辰巳は宙色がこれまで受けてきた仕事や現在の生活の様子などを根掘り葉掘り聞いてきた後、おもむろにこんなことを尋ねてきた。
「ところで、宙色君。君は何歳の時に、どうして絵を描き始めたんだい?」
辰巳の質問に、すっかり砕けた調子で会話を楽しんでいた宙色は少し考え込んだ。メディアで数多く取材を受ける宙色にとって、その問いは何度も経験してきたものだった。だからドラマ性のある経験を交えたエピソードは自分の中に用意してあったし、それを即答することもできた。
だが、辰巳という男を前にしてあつらえ向きの返答をするのは、なぜだか躊躇われた。理由はわからない。辰巳はビジネスの世界においては紛れもない一流の人間だ。しかし、『七月のロマン』の活動を支援しているということ以外に関しては、創作においては素人同然であるということはこれまでの会話からもわかっていた。だが、なんとなく、彼に対して余所行きの言葉を使う気にはなれなかった。
数瞬の思考の末、宙色は己の直感に従うことにした。
「そうですね……まず半分は消去法ですね」
「ほう」
冗談めかした答えに、辰巳は興味を示したようだ。バックミラー越しに見える彼の顔が、宙色の言葉の続きを待っているように見える。隣で黙って運転している伊藤にとっても宙色の返答は予想外のものだったようで、ちらりとこちらを伺ってきている。
「元々絵を描くのは嫌いじゃありませんでした。中学のころくらいから身内の中で絵を見せ合ったり漫画を読んでもらったりはしていましたし、当時から同年代の人間よりかは技術も才能もずっとあったと思います。職業としての絵描きを目指し始めたのは十七歳の時ですね」
「十七歳というと……高校二、三年生くらい?」
「二年の時ですね。そろそろ真剣に進路を考えるかってなった時に、将来のことをイメージして急に嫌になっちゃったんですよね。このまま特に学びたいこともないまま大学入って、適当な会社に入って、一生好きでもない仕事をする……って考えると、怖いとかじゃなく単純にめんどくさいし楽しくなさそうだなって思っちゃって。絵を描くことは比較的好きなことだったし、これで食っていけたならって思って、イラスト系の専門学校に入りました。そこからは、ご縁があって在学中から色々お仕事もらって、って感じですね」
口調こそ軽いものだったが、それは宙色にとって誇張もなければ飾り気もない素直な思いだった。将来、やりたくもない労働には身を費やしたくない。だが、やりたくないからといって職に就かずに生きていけるほど現実が甘くないことは、子供ながらにわかっていた。だからこそ、自分が最も苦痛ではない絵を描くという行為で食い扶持を稼げるようになることを目指した。天才だ神絵師だなんだと世間ではもてはやされてはいるが、宙色の根底にあるのはそんな打算的で消極的な動機だった。
「まあ、夢のない話ですよ」
「ハハっ!」
宙色が最後に呟いたその言葉に、それまで静かに話を聞いていた辰巳は高らかな笑い声をあげた。失敬、と断りを入れ、辰巳は続ける。
「いいじゃないか、夢のない話で。夢だけで何かを為すことができるのならば、この世の中はもっと単純で平和なものだろうからね」
辰巳は冗談めかしたように言う。表現こそ多少大げさではあるものの、その考え自体は実にビジネスに携わる者らしい、実利的なものだなと宙色は思った。
ただ、辰巳の現実的な発言に宙色は少しだけ違和感を感じた。その疑問を、そのまま辰巳に問いかける。
「そういう辰巳さんは、どういう経緯で『七月のロマン』に出資されているんですか?」
先の会話でもわかったことだが、経営者や投資家としての経歴を持つ辰巳は、一般的なクリエイター達よりも余程合理的な思考を持つ男だ。もちろん『七月のロマン』が生み出している作品はどれも傑作ばかりだし、その活動を支援したくなる気持ちもよくわかる。だが、ビジネスという観点から見たとき、『七月のロマン』の在り方はあまり収支がよいものとは思えなかった。
辰巳の言葉通り、『七月のロマン』の今後に期待しているという意味でその活動に投資しているのだとしても、金銭を顧みない今の活動方針を変えない限り、今後も大きな収益は望めないだろう。
では、なぜ辰巳はリターンの見込めない『七月のロマン』という集団に投資し続けているのか。宙色のその問いに、辰巳はほとんど考える時間をおかずに言葉を発した。
「確かに、『七月のロマン』の活動ははっきり言って儲かるものではない。出来上がる作品の質はともかく、量に対して時間をかけすぎているし、計画性も薄い。四六時中作品作りのことを考えているかと思いきや、一日中だらだらとしている日もある。というかクリエイターという生き物はちょっと非合理すぎないか?きちんと戦略さえ立てれば、いくらでも儲けられる作品作りができるだろうに」
辰巳が滔々と語るのを聞きながら、運転席の伊藤が思わず苦笑いをしている。宙色とて最近仕事が増えてきてからはコツコツと作品作りに勤しむようになったものの、心当たりがないわけでもないので耳が痛い。伊藤に倣って苦笑しながら茶を濁した。
「……まあ、実際のところ『七月のロマン』に稼いでもらおうなどいう気持ちは毛頭ないんだがね」
一通り不平をこぼした後、フッと笑いながら辰巳は言った。伊藤もいる手前、フォローのつもりかと思ったが、表情を見る限りどうもそうではないらしい。
「経済活動の基本は、他人ができないことを代わりにしてあげて、そしてその対価を貰うということだ。そういう意味では、私が彼らの活動を金銭でもって支援しているのは至って正常な行為と言えるね」
「……と言いますと?」
辰巳の含みを持たせた言い方に、宙色は尋ね返しながら後部座席の様子を伺った。移り行く窓の外の景色を眺めながら、辰巳は宙色の問いに軽やかに答えた。
「私はただ、対価を払っているだけだよ。私のような人間には到底できない、いや、世の中の他のどんな人間にもできない、彼らの創作活動に対してね」
そう語る辰巳の顔を、宙色はよく知っていた。そこにいたのは、ビジネスに精通した投資家ではなく、ただ自分の好きな作品に対して一途なファンの一人だった。
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