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 つい一時間ほど前にその輪郭が見え始めた島の影は、今となってははっきりと形をとらえられる距離にまで近づいていた。

 そろそろ到着かと思った矢先、船内にアナウンスが鳴り響く。どうやら船は間もなく目的地に到着するらしい。ここまでかと額の汗をぬぐって、青年は先の尖った鉛筆をケースにしまう。船が出発する前に撮影したターミナルの写真と、出来上がったスケッチブックを見比べる。アナログで、しかもデッサンをするは久しぶりのことだったが、仕上がりは存外悪くない。

「うわあ、すごい!」

 青年が満足げにスケッチブックを眺めていると、後ろから高い声が聞こえた。振り返ると、五、六歳ほどの少女がキラキラと目を輝かせて青年の描いた絵を覗き込んでいた。別段子供が好きなわけではないが、自分の絵を褒められるというのは、相手が誰であろうと嬉しいものだ。

 「こら、そろそろ島に着くから戻ってきなさい!……すみません、うちの子がご迷惑おかけしませんでしたか?」

 後ろから追いついてきた母親らしい女性が、少女を抑えながら謝罪する。青年は大丈夫ですよ、と手を振りながら、おもむろにスケッチブックのページをばりばりと破った。冊子から破って一枚になった絵を、母親に手を握られている少女に渡した。

 「はいこれ。よかったらどうぞ」

 青年の言葉に、一瞬驚いた少女はより一層目を輝かせた。小さな体から精一杯の大声で礼を言ってくる。

 「え、そんな悪いですよ。いいんですか?」

 母親も同様に驚いた顔をして青年の方を見てくる。青年はにっこりと微笑み返した。

 「大丈夫ですよ。落書きみたいなものですから」

 思わずいつもの口癖で落書きという表現を使ってしまい、慌てて口元を抑えた。子供相手とは言え、落書きをあげたと言えば親は気分が良くないだろう。

 だが、母親に青年の言葉を一切気にしている様子はなかった。それどころか、こちらの顔見てポカンと口を開いている。

 あ、これは別の方向で不味いやつか。青年は慌てて軽く頭を下げて立ち去ろうとする。

 「あの!もしかしてあなたって!」

 後ろから母親がそう声をかけてくる。やはり嫌な予感が当たってしまったらしい。相手が若い世代であれば顔が知られていることもあるかもとは思っていたが、青年は自分が思っていた以上に有名人らしい。

 自分のことを知ってくれているのはありがたいが、あまりこの島に来ていることを知られてくはない。青年は呼びかけてくる声を聞こえないふりをして、早歩きでその場を後にする。運がいいことに、ちょうど目的地の島に船が到着したとアナウンスが流れた。

 人気イラストレーター、宙色そらいろは、これ幸いと人の合間を縫って出口へと急いだ。


 今度は正体がバレないように、途中で鞄から取り出した帽子を目深にかぶり、下船の列に並ぶ。ついでに伊達メガネとマスクも着用し、万全の状態で船を降りる。

 東京湾に面する汽船のターミナルから、ジェット船で約二時間。宙色は本州から百キロ近く離れた離島に降り立っていた。人口一万人に満たないこの島はそれほど観光業も盛んではなく、同じ船に乗っていた人間の多くはこの島に実家があったり親族がいたりするのだろう。

 そんな中、宙色は初めて訪れたこの島で、きょろきょろとあたりを見回していた。目当ての人物はすぐに見つかった。ターミナルの向かいの駐車場に車を停めて、スマホを確認している人物の元に歩み寄る。

 「お久しぶりです、伊藤いとうさん」

 宙色が声をかけると、顔をあげた男は一瞬不思議そうな顔をした後、すぐに怪しい相手でも見るかのような表情になった。

 「その声は……宙色だよな?どうした、その恰好」

 「さっき船でファンの方に会いまして……身バレしないように、一応」

 そう言いながら、宙色はマスクを外して汗をかいた口元を手で扇いだ。その様子に男は、さっきまでの訝しむような表情から一転、大きな笑い声をあげた。

 「ハハハ!そうかそうか!いや、神絵師様は辛いなあ!」

 「あなただって大概でしょ……」

 伊藤は自分よりも年上で、イラストレーターとしてのキャリアも長い。知名度や人気で言えば宙色が既に追い抜いているかもしれないが、実力やコアなファンからの支持の強さは伊藤だって引けをとっていない。

 「俺はあくまでただの絵描きだよ。というか絵描きでそこまで顔が売れることあんまりないだろ」

 「まあ、それはそうかもしれませんが……」

 伊藤の言葉に、宙色はどことない後ろめたさを感じながら答えた。実力と同じくらい知名度がものを言うこの業界では、腕を磨くだけでなくメディアへの露出やSNSの活用も仕事のうちだ。だが、伊藤のように実力一本で仕事を勝ち取っている同業者の前だと、どうしても自分が過大な評価を受けているような後ろ暗さを覚えてしまう。

 伊藤はそんな宙色の心中を察したのか、お前も大変だな、と明るい顔で肩を叩いてきた。学生のころから何かにつけて世話になっている伊藤は、家族以上に宙色のことをよく理解してくれている兄貴分のような存在だ。

 「しかし、ファンに出くわしたなら、それはそれでファンサービスしてやればよかったじゃないか。それくらいは時間待ってやれたのに」

 気のいい伊藤は気楽に言うが、宙色はその楽天的な態度に思わずため息をついてしまった。

 「そういうわけにはいかないでしょ……もしそれで騒ぎになったら、困るのはあなたたちじゃないですか」

 宙色の言葉に、伊藤は一瞬きょとんとした様子だったが、すぐに思い出したようにそれもそうか、と呟いた。相変わらずおおらかな人だ、とやれやれと首を振る。

 「じゃあ、早速になるが案内しようか。俺たち、『七月のロマン』の事務所に」

 伊藤は不敵に笑って、停めていた車の運転席に乗った。

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