第3話

 5月1日

 エスビー食品、カレー、シチューなど家庭用の即席 製品を約8%値上げ。

 日本人の暮らしぶりは悪くなる一方だ。


 5月3日 - 特定秘密保護法の反対活動を行っていたSASPLの後継団体として、自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALs)発足。 


 刑務官の後藤備後ごとうびんごは山南に憎悪を抱いていた。山南は組長になる前は豊後ぶんご組で地上げ屋をしていた。

 地上げ屋とは、建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収する人・企業のこと。

 都市における土地は、細切れの状態よりも街区単位でまとまっている方が、大規模な建築物が建てられ、面積当たりの利用価値が高くなる。そのため細切れの土地を買い取り区画を大きくして、都市再開発用地に提供する手法である。


 土地の整理分合によって公共用地を生み出し、なおかつ地区全体の土地の価値を高めるという点では、土地区画整理事業や市街地再開発事業などの都市計画事業(面整備)は、公的な地上げ行為と言える。


 日本ではバブル景気時に、地主や住民を恫喝して強引に土地を買い漁り、街区単位でまとまった段階で転売して、膨大な利益を上げる地上げ屋が台頭していた為、ネガティブなイメージがつくきっかけになった。


 しかし本来の地上げは、権利関係の複雑な土地・建物を買収する都市開発の専門業者として存在していたものである。


 1980年代後半のバブル景気の時には、地価が右肩上がりで上昇を続けた。こうした中で、暴力団が関わり暴力的手段によって立ち退きを迫ったり、金銭に糸目を付けない買い取りを行うなど、強引な手法で土地の売買を行う業者が目立つようになり、地上げ屋はネガティブな表現として用いられることが多かった。


 1991年 (平成3年)にバブル崩壊が起き、東京都区部の地価が下落。それに伴い、地上げ屋は目立たなくなっていった。地上げ途中だった街区は、買収済みの更地がまだら状に残り、旧来の町並みは破壊されたまま、再開発も進まないという「中途半端な状態」で放置され問題となった。その空き地は、固定資産税対策として「駐車場運営」で細々と運営されている。


 その後、1990年代後半に諸外国からの資金により不動産ファンドが活性化、市場に勢いが出てくると、それに釣られて地上げ屋は再び姿を現すようになった。


 2000年代に入り、景気回復に伴って、オフィスなど不動産市場は活況を呈した。だが、サブプライム問題などもあり、不動産市況に水を差され、活動が沈静化した。民間業者が主体の日本とは対照的に中華人民共和国では土地が全て国有と公有であることから土地使用権の売買を財源にしている地方政府が暴力団や警察も動員して死傷者も出す地上げ行為を行って人権問題となっており、強引に立ち退きを迫る政府に抵抗する住民が孤立化させられる釘子戸が世界的に注目された。


 2015年には、1980年代に地上げで宅地が虫食い状態になった、東京都新宿区富久町の一角にあった土地を都市再開発した富久クロスが完成し、話題となった。

 

 備後の父親は世田谷でラーメン屋を経営していたが、山南の魔の手にかかって、トイレで首を括ってしまった。

 

 備後は東京都青梅女子刑務所に勤務していた。

 資料室でファイルを見ていた。目黒桃子、彼女は婚約者を山南組によって、事故に見せかけて殺されている。

 共犯者にするにはもってこいだ。

 

 長年服役する別所べっしょが、もう何度目かとなる仮釈放の審査を受け、更生したことを訴えるがやはり却下される。別所が落胆し部屋を出ると、桃子は「どうでした?」と心配そうに声をかけたが無視された。

 新入りの受刑者のパリスはピラルクー所長と主任刑務官の阿久津一美あくつかずみから脅しを含めた青梅刑務所の紹介をされ、その晩に取り乱したパリスがピラルクーから過剰暴力を受けて死んでしまう。


 5月4日

 孤立していた桃子はやがて別所に声をかける。「私は音楽鑑賞が趣味なんです」

「サン・サーンスは知ってる?」

「『動物の謝肉祭』とかでしょ?」

 シャルル・カミーユ・サン=サーンス(1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト。

 

 内務省に勤める官吏の家庭に生まれるが、生後数ヶ月で父親は亡くなり、母親と大叔母に育てられる。モーツァルトと並び称される神童で、2歳でピアノを弾き、3歳で作曲をしたと言われている。また、10歳でバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンたちの作品の演奏会を開き、16歳で最初の交響曲を書きあげている。1848年に13歳でパリ音楽院に入学して作曲とオルガンを学ぶ。特にオルガンの即興演奏に素晴らしい腕を見せ、1857年から1877年にかけ、当時のパリのオルガニストの最高峰といわれたマドレーヌ教会のオルガニストを務める。


 1861年から65年にかけてニデルメイエール音楽学校で生涯唯一の教職に就き、フォーレ、アンドレ・メサジェ、ウジェーヌ・ジグーなどを教える。特にフォーレとは終生の友人となった。普仏戦争終了後の1871年にはフランク、フォーレらとともに国民音楽協会を設立し、フランス音楽の振興に努めた。


 サン=サーンスは作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者として国際的に活躍したが、パリでは長い間その作品に反対する意見が多かった。その状況がはっきりと変わるのは、1881年にアカデミー会員に選出され、1883年のオペラ「ヘンリー八世」初演が大成功を収めるころのことだった。57歳の1892年にはケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られ、1901年にはヴィルヘルム2世からプール・ル・メリット勲章を授与された。1913年、78歳のサン=サーンスは、レジオン・ドヌール勲章の最高位であるグラン・クロワを贈呈されている。1921年、アルジェリア旅行中に86歳の生涯を閉じ、葬儀は、その多大な功績に相応しく国葬で執り行われた。

 

 これをきっかけに桃子は別所と交友を重ね始める。他方、桃子はピラルクーとその配下に性行為を強要され、抵抗のため常に生傷が絶えない生活が続いた。


 5月6日 - 気象庁は、箱根山に火口周辺警報を発表し、噴火警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺規制)に引き上げた。神奈川県箱根町の大涌谷周辺では小規模な水蒸気噴火が起きる可能性があり、立ち入りを規制。


 イカロス食品にプルートって新人がやってきた。 外国の人だ。西山はプルートに教育してる。

「松田はどうしたんですか!?」    

 西山は麦原に尋ねた。

「電話してるけど連絡が取れないのよ!」

「無断欠勤とは許せんな!」

「松田ってどこから来てるか、芹沢、何か知らない!?沖縄一緒に行ったんでしょ!?」と、麦原。

「工場のすぐ近くって言ってましたよ!」

「沖縄か〜、今やってる『まれ』に出てる土屋太鳳って沖縄出身だよな!?」

 西山がプルートに尋ねた。

「ダレデスカ!?ツチヤタオッテ!?」

「プルート君に聞いても分からないよ!彼はイタリヤから来たばっかりなのよ!」

「麦原さん、イタリヤじゃなくて正式にはイタリアです!」

「西山さんって一々細かいわよね!?」

 麦原が舌打ちをした。

「旅の疲れで寝てるんじゃないの!?」  

 西山は大あくびをした。蒸気で現場はほどよく暖かい。コンベアーが動いてることもあり皆、声を張り上げている。

 

 午後6時に仕事が終わり、更衣室で芹沢たちは着替えていた。

「明日は松田来るかな?」

 縞々のトランクスと黒のVネックという、みっともない姿で西山は芹沢に尋ねた。

「多分、来るんじゃないですか?」

 芹沢はまだ作業着のままだ。

「縄文杉は行ったか?」

「どこにあるんです?」

「屋久島だよ。アソコは恋愛のパワースポットだよ」

「屋久島ってのは沖縄ですか?」

「鹿児島だよ。福岡から直行便が出てる」 

「西山さんって福岡に住んでらしたんですか?」

「昔な。おまえ、早く着替えろよ?じゃあな、お先〜」


 西山は車でイカロスまで来てる。西山は黒のジャガーに乗り込んだ。ジャガーは、イギリスの高級車メーカーである。現在はランドローバーとともに、インドのタタ・モーターズ傘下に属し「ジャガーランドローバー」を構成する。

 イグニッションキーを捻った。エンジンがかかる。

 途中、コンビニに寄って『午後の紅茶』のレモンティーのペットボトルを買った。ジャガーのすぐ隣には沖縄国で生産されてる『デージ』って白いスポーツーカーが停まっていた。沖縄用語で『でーじ』は大変とか、すごい、大事って意味がある。

 西山は子供の頃から外車に憧れていた。何で海外ナンバーの車が走ってないのか気になって、貿易商をしていた父親に小学生の時に尋ねた。

『外車に海外のナンバープレートを装着すること自体は違法ではないものの、日本で走らせるためには日本のナンバープレートを装着しなければなりません。 日本のナンバープレートをつけずに走ると違法になります』

 西山の父は我が子にでも敬語を使っていた。

 デージを運転しているのは座波だ。デージのガラスにはスモークフィルムが貼られてある。

 フィルム自体はカー用品店・ディスカウントストアなどで1台分3~5千円程度で購入できる。ガラスの大きさに合わせて型紙を起こし、それに沿ってフィルムを切り抜く(あらかじめ車種別に切り抜かれた型紙・フィルムの市販品もある)。窓を洗浄して汚れやゴミを取り除いた後に霧吹きで石鹸水を吹き付け、フィルムをガラスに貼り、ゴムヘラなどで中心部から空気を抜くように押しつけていく。空気を抜きながら平面のフィルムを曲面に合わせて張り上げるためには、熟練の技術を要する。

 座波の本業は塗装業だ。

 芹沢は西山の住所を突き止めるために本人に尋ねようとしたが、座波がストップをかけた。

 警察が職場を聞き込んだらアウトだ。

『それじゃあ、僕が尾行します。刑事ドラマみたく電柱に隠れたりするんでしょ?』

『それもダメだ。尾行役は俺がやる』

 還暦過ぎて派遣社員になったと芹沢から聞いていたから、フケだらけの長い白い髪の男を想像したが、七三分けでブルーのフレームの眼鏡を掛けた優男だ。どことなく大河ドラマ『新撰組!』で山南敬助を演じた、堺雅人さかいまさとに似てる。

 数分で西山が戻ってきた。

 

 追跡した結果、西山は千葉県にある関宿町せきやどまちから来てることが明らかになった。 

 関宿地区は関宿藩の城下町として栄えたが、1871年(明治4年)の廃藩と昭和以降の水運の衰退・消滅によって小都市としての独自性は失われた。関宿城の遺構は利根川や江戸川等の合分流点付近に位置し明治以降に行われた河川改修のために保存状態が極めて悪く、元の武家屋敷等もあまり残されていないために、いわゆる「城下町」としての景観はない。二川地区と木間ヶ瀬地区は農村地域であった。 その位置から同じ千葉県内以上に利根川対岸の茨城県や江戸川対岸の埼玉県との結びつきが強く、水運の衰退以降も利根川に架橋された境大橋と江戸川に架橋された関宿橋を介して茨城県猿島郡境町とともに県境を越えた商業中心地となっていたが、交通体系や商業構造の変化によって衰退傾向にある。


 千葉県の西北部、県の最北端に位置する。東は利根川を境に茨城県と、西は江戸川を境に埼玉県と隣接する。2つの大きな河川にはさまれて千葉県が北へ細長く伸びる位置にあり、北端は利根川と江戸川の分流点になっている。これは利根川水系の治水と水運を目的に江戸時代初期に行われた利根川東遷事業の結果であり、最終的には明治以降に行われた河川改修の結果、現在のような形状になった。元々関東平野の中心に近い関宿は軍事上の要衝であったが、利根川本流と江戸川の分岐点となった江戸時代以降は水運上の要地としても栄えた。しかし、交通の主役が水運から鉄道に移ると、交通拠点としての重要性は急速に低下した。地形は平坦であり、江戸川と利根川沿いは低地であり、そこに農地が集中している。平坦な地形ゆえに標高は低く、最高標高地点は15.6mである。

 

 西山邸は赤レンガの外壁に非対称の平面と窓で温かみのある外観がある。

 座波は建築学に興味があり、西山邸みたいなのをゴシック・リヴァイヴァル様式と呼ぶ。

 座波はスマホのカメラで西山邸を撮影し、経路とともに芹沢のスマホに送った。

 

 同じ頃、加須のアパートには芹沢の母、佐紀子さきこが来ていた。

「最近、仕事の方はどうなの?」

 佐紀子は60歳だ。

「まぁ、順調だな」

 芹沢は佐紀子に聖水を飲ませた。当の本人はミネラルウォーターだと思ってる。

 佐紀子の体は透明になった。

 洗面所の鏡の前に立って素っ頓狂な声を上げた。

「キャアァッ!!」

「元に戻るまで外に出ない方がいいな?車に轢かれたら大変だ」

 佐紀子は、ミネラルウォーターの販売元のマーキュリー社に電話してる。

 担当者は成分を調べるから、ペットボトルを送ってほしいとのことだ。

「あっ!漏れそう」

 佐紀子はトイレに入った。しばらくするとトイレから出て来た。

「あっ!元に戻ってる」

 佐紀子は急に皺が増えた。聖水のせいかも知れない。

「本当に!?」

 手を洗うついでに鏡の前に立って、安堵の息を漏らした。

 聖水は尿にして出すと効力がなくなるらしい。

 西山を殺すときは水分をとらないようにしないと。

 佐紀子は歩きで買い物に出かけた。

 ゲームをやろうとハーフパンツのポケットからスマホを取り出した。

 座波からの情報を読んだ。

 凶器をどうするか悩んだ。金をかけたくないならキッチンにある包丁が1番だ。ディスカウントショップでナイフを買ってもよかったが、捜査がはじまったら足がつく可能性が高い。

『MONONOKE』をやりながら自宅周辺を歩いた。道端に凶器になりそうなものは落ちてないだろうか?

 加須市は2010年3月に旧加須市・北埼玉郡騎西町・大利根町・北川辺町が新設合併して誕生した。県内の市町村で唯一、北関東の群馬・茨城・栃木の3県に全て隣接する自治体である。


 読み方は主に尻上がりのアクセントだが、駅のアナウンスなどでは熊谷市や羽生市、久喜市と同様、尻下がりのアクセントで読まれることがある。


 埼玉県の北東部に位置する。隣の久喜市とともに県利根地域の中心的な都市の一つでもある。


 加須・大利根地域と北川辺地域の間に利根川が流れ、市の北東部に渡良瀬川と渡良瀬遊水地がある。地形としては概ね低地に属し平坦であるが、市域の海抜は15メートル以上あり、一部は台地状(沖積台地)になっている部分もある(カスリーン台風では利根川の旧河道(会の川)の自然堤防上に発達した加須市街地は浸水を免れた)。市の中心部を東西に東武伊勢崎線および国道125号・加須羽生バイパスが横断している。南北に東北自動車道が貫いており、加須インターチェンジがある。南西部の騎西地域を国道122号・同騎西菖蒲バイパスが通る。さらに北東部の北川辺地域を東武日光線が通り、同地域内に駅が2つある。また、東西方向に国道354号が走り、茨城県古河市と群馬県邑楽郡板倉町をつなぐ。


 渡良瀬遊水地付近は県境が非常に入り組んでおり、次々と県が変わる(埼玉・群馬・栃木)。堤防に沿って埼玉県道9号佐野古河線が通っている。埼玉県から直接栃木県へ入る事のできる道路は、この県道と堤防下を走る市道だけでアクセスはあまり便利ではない。また埼玉県と栃木県を結ぶ主要幹線(国道4号、東北自動車道、東北本線(宇都宮線)、東北新幹線)はいずれも茨城県古河市の一部を経由して栃木県に入る。


 埼玉県の自治体で、唯一栃木県に面している。

  

 芹沢は八幡沼はちまんぬまにやって来た。加須市麦倉に所在する沼である。

 この八幡沼は旧合の川の河川跡に所在し、かつての洪水時に形成された押堀おっぽりである。所在地周辺は主に水田などの農地となっており、集落や工場なども所在している。また、沼はほぼ自然のままの姿が残されており、沼の南側には旧合の川の堤防が所在している。

 

 充電するのに電気代がかかるからゲームはやらないことにした。

 草むらで斧を見つけた。🪓芹沢は聖水を斧にかけた。斧が透明になった。

 20時くらいに家に戻ってきた。

「どこに行ってたの?」と、佐紀子。

「ウォーキングしてた」


 5月7日

 競艇選手の1485加藤峻二が現役引退。登録1000番台の選手は全員引退した。

 岐阜県恵那市に住む女が、約半世紀前に死亡した両親の生存を装い、年金を不正に受給していたとして逮捕。両親の年齢があまりにも高齢だった事を不審に思った日本年金機構による調査で発覚。不正受給金額は5000万円以上に上ると見られるが、その大半が公訴時効(7年)を迎えている。


 竜瑠美は本庁の地下にあるカフェで、ブラックコーヒーを飲んでいた。あまりに熱くて舌を火傷しそうになった。

 辺銀巧ぺんぎんたくみ殺しを思い出した。

 5月1日に浅草にある住宅街で起きた凄惨な事件だ。巧は雷門近くでペンギンクリニックを経営していた。🐧

 巧は体を斬られていた。巧のケータイには『犯人は悪』というダイイングメッセージが残されていた。巧はどことなく俳優の松方弘樹に似ていた。年齢は65歳だという。

 娘の夏海なつみにメールが送られていた。

 死ぬ寸前に電源が落ちたようで、充電してから調べた。

 巧は『犯人は悪人』と送ろうとしたのだろうか?

 瑠美は昨日、八丈島に住む夏海に会いに行った。

 夏海は37歳、吉高由里子に似ていた。

 夏海にダイイングメッセージの話をした。

『人を殺すってことはそれだけで悪いことに思えます。あっ、もしかしたら服部さんかも知れません』

 服部正樹はっとりまさきは巧の部下だった男だ。事務員をしていたがクビを切られてから、一度クリニックに来て『テメェなんか死んじまえ!』と暴言を吐いたらしい。

 夏海は巧が殺されたとされる午後10時〜午前0時は八丈島の家にいて、夫とトランプをしていたそうだ。

 辺銀なんて変わった名前だな?と、思い瑠美は夏海に尋ねた。辺銀は沖縄県石垣市によくある名字らしい。

 夏海の夫の野洲雷斗やすらいとは民俗学者で、八丈島に伝わる怖い話を教えてくれた。

 かつて八丈島の山奥には、防災のための山小屋があったが、夜になるとここにテンジが現れ、小屋の番人の耳や足をつねるなどのいたずらをしていた。番人が驚いてテンジを怒鳴りつけても、テンジは「ヒャッ、ヒャッ」と笑いながら逃げて行くだけだった。


 ある晩、美しい少女が村の名主の娘を名乗り、ぼたもちの差し入れといって重箱を届けに来た。山番は、こんな夜に娘が1人で山を訪れるわけがない、テンジに違いないと考えた。重箱を受け取ると見せかけ、娘を小屋に引き入れようと手をつかむと、その手は竹で出来ていた。山番がナタで竹の手を斬り落とすと、テンジは悲鳴を上げて逃げていった。残された重箱にはぼたもちではなく、牛の糞が入っていた。


 翌晩、テンジが自分の手を求めて小屋へやってきたので、山番は小屋に残されていた竹の手を投げ付けてやった。テンジは手を受け取り、いつもの笑い声を上げて山へ帰って行った。


 その年、八丈島を大飢饉が襲った。山番の番人も飢えに耐えかね、小屋で死を待つばかりだった。ある夜、小屋に何かが投げ入れられたような音がした。よく見るとそこには、山芋や木の実がどっさりとあった。


 番人はテンジがくれた物と確信して礼を言うと、いつものようなテンジの笑い声と、山の方へ駆けて行く足音が聞こえた。番人はその食料の差し入れのおかけで、飢饉を乗り越えて生き延びたという。

 

 もしかしたら、巧は『犯人は悪魔』って送ろうとしたのだろうか?

 雷斗は奥さんよりかなり年上、年齢は56歳。どことなく小日向文世に似ている。

 

 5月9日 - 日本動物園水族館協会が、世界動物園水族館協会から4月21日付で会員資格停止処分を受けていたことが判明。和歌山県太地町で追い込み漁によって捕獲されたイルカを、国内の水族館が入手していたことが倫理規定に違反していると指摘される。

 

 瑠美は午前9時に深川に住む服部に会いに行った。チャイムを押したが出てこなかった。

「ダメだこりゃ~」

 深川は東京都江東区の西側に位置し、深川地域に属する。北で平野、東で冬木、南で富岡、南西で門前仲町、西で福住と隣接する。江東区深川は、首都高速9号線深川線の北側から運河までの一帯で、北西端には清澄橋、北東端には木更木橋があり、清澄通りを境に西側が1丁目、東側が2丁目になる。当地を含む広域の深川一帯(旧:深川区)は、地名を冠した深川丼(深川めし)が名物としても知られる。

 

 いわゆる「深川」と呼ばれる広域地域(深川区全域)は、慶長の初期 (1596~1614)、江戸がまだ町造りを始めたばかりの頃、摂津国(現:大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が小名木川北岸一帯の開拓を行い、その深川の苗字を村名とし、これがこの地一帯を呼ぶ名称となった。江戸初期には漁師町だったが、明暦の大火 (1657) 以降に開発され、万治2年 (1659) に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現:江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所が出来、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となった。


 この広域の深川一帯には、材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門も一時邸を構える(紀伊国屋は現:江東区清澄、奈良屋は現:江東区白河)。1702年(元禄15年)の大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入った事件では、一行は富岡八幡宮(現:江東区富岡)の前の茶屋で最終的な打ち合わせのための会議を開いたと伝えられる。曲亭馬琴は深川(現:江東区平野)で生まれ、平賀源内(現:江東区清澄)や松尾芭蕉(現:江東区常盤)、伊能忠敬(現・江東区福住)なども住んだ。


 1878年、郡区町村編制法施行に伴い、深川一帯にある99町が統合されて、東京15区の一つとして深川区が成立した。ついで1889年市制町村制施行によって横十間川より西側の地域全てが深川区になる(横十間川以東は南葛飾郡大島村に編入された)。これらはいずれも現在の江東区深川よりはるかに広い範囲である。戦後1947年に城東区と合併し、現在の江東区となる。


 仙台堀川の辺りを歩いていたときだった、ケルピーが目の前に現れた。仙台堀川は、宮城ではなく深川にある。

 姿形は馬の姿だ。スペイ川やスペイサイド地方のケルピーは概して白馬(異説に黒馬)であり、馬具一式を身につけ乗り人を誘う。しかしケルピーは人の姿に化けることもあるとされる。


「ケルピー」とは英国イングランドやスコットランド低地など、ゲール語を解さない英語圏の名称であり、それとよく混同されるのがスコットランド高地に伝わる水棲馬(ウォーター=ホース)、すなわちゲール語でいうエッヘ・ウーシュカ(スコットランド・ゲール語: each uisge)である。

アイルランドの伝承にもあり、アッハ・イシュカ(アイルランド語: each uisce)と呼ばれる。


 川棲はケルピーで、湖棲がゲール文化のエッヘ・ウーシュカとの線引きが提唱されており、これを順守する向きもある。


 ケルピーやエッヘ・ウーシュカによって水中に引き込まれた児童や大人の犠牲者は、肝臓等の臓器が浮かび上がる以外は遺体があがらず、食らわれたと伝聞されるが、明言されなくともそう推論される。だが一説によれば、エッヘ・ウーシュカは、女子供をとって食うことをしない。 また、うっかり触ると離れられなくなり、指を切って逃げおおせた、などと伝わる。


 また、人間の男性に化身して女性を誘い狂暴化もする話が、特に西ハイランド地方で伝えられる。しかしその髪に水草か砂が混じっていて正体を見破られるのが顕著なモチーフである。気づいた女性は、衣服の一部を切り離したり、前掛けなどを脱いですり抜けたりして逃げようと試みる。


 ケルピーは必ずしも有害無益と限らず、特別な馬勒ばろくの力で御すことができ、橋や築城の石材運搬などに使役できた話も残される。しかし、その場合も後で末代までたたられる、または娘を連れさらわれる、などのしっぺ返しも起きている。

   

 ケルピーは立花忠治によって殺された。

 立花はMMUのメンバーだ。立花はパラシュでケルピーを葬った。片手、または両手で使用出来る戦斧を意味するサンスクリット語である。


 スパイクが付いた両刃または片刃の構造をしている。長さは通常3〜5フィート(およそ1〜1.5m)程のものが多いが、7フィート(およそ2m)もの長さのものもある。

 通常、パラシュは鉄やウーツ鋼で作られており、刃先は柄に取り付けられている刃よりも幅が広くなっている。柄は、握りを良くするために皮布で結ばれていることが多い。

 MMUは他に若王子鎧亜わかおうじがいあ残間大地ざんまだいちがいる。リーダーは若王子だ。


 芹沢はぶっちゃけ、松田がどうなろうとどうでもよかった。ライバルが消えれば正社員になれる確率も上がる。あんな奴の為に金を奪うことに頭を悩ますことが馬鹿らしかった。

 西山の家が分かったことに関しては座波に感謝しなくちゃいけない。

 定時で仕事が終わり、西山が車に乗り込むのを芹沢は目撃した。バックの中には聖水と黄金の腕輪、それからカッターナイフが入っている。タクシーを捕まえ、宿敵の住む場所に向かった。

 屋敷の近くにある公衆便所の中で腕輪を嵌め、聖水を飲みカッターナイフをズボンの尻のポケットに忍ばせて、西山邸に向かった。インターホンを押した。運のいいことにカメラ付きのインターホンではない。ドアが開いて「は〜い?」と、西山がひょっこり顔を覗かせた。芹沢は西山を押し倒した。西山は地震でも起きたのかと思った。風が吹いたわけでもないのにドアが閉まる。尻餅をついて余程痛いのか、尻を擦っている。芹沢は西山の首と左手を切りつけた。血飛沫が上がった。

 会社の風通しがこれでよくなる。


 芹沢は腕時計を見た。19時過ぎ、腹が減った。

 戦国時代の関宿にタイムスリップした。

 関宿は徳川家が関東に移された頃から重要拠点のひとつとして見なされていた。そのため、徳川家が関東に入ったとき、関宿には徳川家康の異父弟・松平康元が2万石で入り、関宿藩が立藩した。康元は天正19年(1591年)に2万石を加増され、4万石となった。康元が死去すると、嫡男の松平忠良が跡を継いだ。忠良は大坂の陣で戦功を挙げたことから、元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で美濃大垣藩に加増移封された。翌年12月、越後三条藩から松平重勝が2万6000石で入るが、元和5年(1619年)に遠江横須賀藩に移封となった。同年10月、下総古河藩より小笠原政信が2万2700石で入る。政信は寛永17年(1640年)7月に早世し、養嗣子の小笠原貞信が跡を継いだが、わずか9歳の幼少では重要な関宿にはふさわしくないとして、同年9月に美濃高須藩に移封となった。


 その後、遠江久野藩より北条氏重が2万石で入るが、正保元年(1644年)3月に駿河田中藩に移封された。代わって武蔵石戸藩から牧野信成が1万7000石で入る。信成は正保4年(1647年)に隠居し、子の牧野親成が跡を継いだ。親成は承応3年(1654年)に京都所司代となったため河内国内に1万石を加増され、明暦2年(1656年)に摂津・河内国内に加増移封となった。代わって、それまで京都所司代だった板倉重宗が山城・近江国内から関宿に入った。重宗は同年末に関宿にて死去し、跡を子の板倉重郷が継ぐ。重郷は寺社奉行となったときに弟の板倉重形に5000石を分与して、4万5000石を領することとなる。重郷死後は子の板倉重常が継ぐ。重常は寛文9年(1669年)2月、5000石加増の上で伊勢亀山藩に移封された。


 板倉氏が去った後、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆、若年寄、老中を歴任した人物である。広之の死後は子の久世重之が継ぎ、天和3年(1683年)8月に備中庭瀬藩に移された。同年9月、牧野成貞が常陸国内より2万石加増の5万3000石で入る。成貞は徳川綱吉の下で側用人として重用されたことから、元禄元年(1688年)、和泉国や常陸国内に2万石を加増されて7万3000石の大名となった。元禄8年(1695年)に隠居し、家督は養嗣子の牧野成春が継いだ。成春は宝永2年(1705年)に7000石を加増の上で三河吉田藩に移封された。


 代わって久世重之が関宿藩主に再任となる。以後、久世家の支配により明治維新を迎えることとなる。重之は関宿藩に戻る前にすでに寺社奉行、若年寄を歴任して5万石を領していたが、関宿藩主となった翌年に老中に栄進したことから、1万石を加増された。久世家3代・暉之は弟に2000石を分与したため、関宿藩は5万8000石となった。


 幕末期には様々な混乱があったが、何とか乗り切っている。久世家9代・広業の時代に明治維新を迎え、明治2年(1869年)の版籍奉還で広業は知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって関宿藩は廃藩となる。そしてその所領は印旛県に併合された。

 

 芹沢は関宿城を見上げていた。この城を築いたのは簗田成助やなだしげすけだ。

 簗田持助の子として誕生。古河公方・足利成氏から偏諱を賜り、成助を名乗る。


 成氏とその子・政氏の2代にわたって仕えた。康正元年(1455年)に成氏が鎌倉を追われると、父・持助と共に簗田氏の根拠地である下河辺荘に近い下総国古河に迎え入れる。長禄元年(1457年)に関宿城を築城して城主となる。


 晩年は一度は弟・政助に家督を譲って隠居するが、主君・足利政氏が嫡男・高基と争った時に、政助の嫡男・高助が高基に組したとして政助から廃嫡を言い渡されると、折りしも嫡男を失ったばかりの成助は高助を自分の養子として家督を継がせる事を決めたために、親子兄弟入り乱れての確執となったという。

 永正9年(1512年)、死去。

 

 芹沢が仕えたのは高助やなだたかすけだ。

 明応2年(1493年)、簗田政助の嫡男として誕生。古河公方・足利高基から偏諱を受け、高助を名乗る。


 高基の側近として仕える。永正7年(1510年)、高基が家督を巡って父・足利政氏と対立すると(永正の乱)。政氏側についた父・政助に対抗し、高助は高基側について活躍し、宿老筆頭となる。この際に父・政助からは勘当されたものの、伯父・成助が養子とし、その家督を継ぐ形で簗田氏の当主となる。その後、強力な指導力を発揮して一族の被官化を進めて家臣団の再編成を行い、また天文4年(1535年)には高基の跡を継いだ足利晴氏に娘を嫁がせるなど、領主及び家中での地位を確固たるものにしていく。


 その頃、関東では北条氏綱が台頭してくる一方で、古河公方は高基の弟である小弓公方・足利義明や上杉氏の圧迫を受けて衰退著しかった。そこで高助は氏綱の娘(芳春院)を晴氏の側室に迎えて古河公方家の勢力巻き返しを図ることにした。この縁談を実現させた高助は天文8年(1539年)には氏綱と天文12年(1543年)9月には氏綱の後を継いだ北条氏康と盟約を結んだ。


 だが、次第に北条氏の勢力拡大に危機感を抱くようになった晴氏は氏康との対決を決意し、天文15年(1546年)に上杉氏と共に河越城の戦い(河越夜戦)に突入したものの大敗を喫す。戦後、高助は出家して嫡男・晴助に家督を譲って許しを乞うが、氏康は高助の娘が生んだ晴氏の嫡男・足利藤氏を廃除して、自分の甥である晴氏の末子義氏への古河公方相続を要求するようになった。

 天文19年(1550年)、死去。

 

 芹沢は河越夜戦に参戦した。

 室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する本家筋の山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏、三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、次いで天文6年(1537年)に武蔵の枢要の地であり扇谷上杉家の当主上杉朝定の居城・河越城を落とし、扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。翌年には国府台の戦いにおいて、扇谷上杉家と協力関係にあった小弓公方足利義明を滅ぼして房総半島方面へも進出を始めた。


 しかし、氏綱が没し、跡を継いだ嫡男北条氏康は継承早々に一大危機を迎える。天文14年(1545年)7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通して背後から挙兵、駿河の北条領に侵攻する。氏康は駿河に出陣するものの武田氏までもが出陣してきたために状況は不利であり、更に在陣中に両上杉の大軍によって河越城が包囲されたという状況が知らされた。そのため10月下旬に武田晴信(信玄)の斡旋で義元に譲歩することで屈辱的ながらも和睦を成し遂げた(第二次河東一乱)。11月初旬には誓紙を交換した後に条件が履行され、氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方を収め、関東方面へ転戦できる状況を得た。


 関東方面では氏康の妹婿であった古河公方の足利晴氏は、関東管領(山内上杉家)に支援され、路線を変更して兵を動員、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉家も和睦し、三氏は同盟を締結して武蔵を確保するため共通の敵・北条氏への総反撃を決定、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏それぞれが自ら自軍を率いて、北条氏の拠点・河越城の奪還を開始した。

 

 天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(上杉朝定)、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約8万の大軍をもって北条氏の河越城を包囲した。一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている。山内憲政は城の南に陣を張り、扇谷朝定は城の北、など三方を包囲した。河越城は氏康の義弟・北条綱成が約3,000の兵力で守備していたが、増援がなければ落城は時間の問題であったため、今川との戦いを収めた氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。またこの間太田資顕(全鑑)の調略に成功し、河越城へのルートを確保している。食糧を十分に蓄え籠城した綱成は半年も耐え抜き、戦況は数ヵ月間膠着状態であった。この間、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩していた。氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。


 氏康は連合軍に対して偽りの降伏を申し出て詫び状を出し続ける。まず、足利晴氏に対して、諏訪左馬助に依頼し、「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と申し入れ、上杉方には常陸の小田政治の家臣である菅谷貞次に依頼し、「綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える」と申し入れた。だが上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を府中まで引いた。これにより上杉連合軍は北条軍の戦意は低いと判断し、およそ10倍近い兵力差もあって楽勝気分が漂う。


 芹沢はゲームや小説などで、北条方が勝つことを察知していた。芹沢は聖水を飲んで、透明になると関宿城を脱出し、北条方に寝返った。


 天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を芹沢に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。

 氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた芹沢は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて本拠地の古河へ遁走した。一連の戦闘による連合軍の死傷者は1万3,000人から1万6,000人と伝えられている。

 この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡、本拠平井城へ敗走した関東管領の山内上杉家も戦いを契機にこの後急速に勢力を失った。上杉憲政は劣勢挽回を意図して信濃の村上義清らと上信同盟を結び、後北条氏の攻勢に対抗することを目論んだ。しかし、村上氏らとの同盟を結んだことによって信濃侵攻を目指す武田晴信(信玄)との対決を余儀なくされ、小田井原の戦いにおいて再び多数の将兵を失った。このような状況下、憲政を見限って後北条方に帰順する配下が相次ぎ、憲政は居城の平井城を追われて長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り越後へ落ち延びることになる。


 同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居した。その際、長男であった藤氏ではなく、北条氏出身の母をもつ次男の義氏に家督を譲らざるをえなくなり、自身は幽閉を余儀なくされた。


 一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家(長尾氏)や常陸の佐竹家、安房の里見氏との抗争に突入する。


 この戦いによって、関東公方たる足利家と、その執事である関東管領の権威と軍事力は決定的に失墜し、代わりに後北条氏をはじめとする戦国大名が躍進した。このことは、関東・東国において室町時代の枠組みが消滅したことを意味している。それとともに、後北条氏の関東での権力を確立した戦にもなった。

 

 1日して現世に戻ると、休みが多いという理由で芹沢は解雇された。

 かなり老化が進んでおり、麦原は『芹沢君のお父様ですか?』と言っていた。

 加須駅の近くで座波とすれ違ったときはビックリしたが、気づかれなかった。

 アパートには午後1時くらいに戻ってきた。

 ニュースで松田の遺体が屋久島で見つかったってやっていた。📺

 バラバラ死体が小杉谷橋こすぎたにばしって橋の袂に落ちていたらしい。

 ついさっき、座波を見かけたから犯人は殿下に違いない。

 そんなことより、早く次の仕事を探さないと。営業マンの坂東ばんどうに電話したが、繋がらなかった。坂東はどことなく『太陽にほえろ!』でボンボン刑事を演じた宮内淳みやうちじゅんに似ている。

 鏡の前に立った。皺と白髪が目立つ。

 明日にはアパートを出ないといけない。

 実家に戻るのも気が滅入る。母親には業績悪化と伝えてある。父親はメチャクチャ厳しい人間だ。

 

 荷造りを済ませてプラネタリウムに出かけた。

 利根川のスーパー堤防上に2001年(平成13年)に開館した。加須サイクリングセンターが隣接する。本館は3階建てで、1階より吹き抜けのプラネタリウム施設が半円状の本館端に位置している。1階は交流ホールとして農産物加工室および地球資産展示室、レストランが置かれている。2階はテラス、調理実習室兼体験学習室(木工)、および科学実験室となっている。3階はクーデ式天体望遠鏡によって天体観測が行える天体観測室となっている。敷地内には加須未来館農産物直売所が置かれている。


 館内には、本物のロシア製ソコル宇宙服を展示している。これは1998年に製造されたもので、ロシア人のヴィクトル・アファナシェフ宇宙飛行士が、ソユーズTM-29で着用したもの。

 いつか、月に行ってみたい。🌕

 プラネタリウムから出ると、坂東から電話があった。

「オマエみたいなやる気のない奴、どこも雇わない」

 コイツもいつか殺す。

 

 5月17日 - 大阪都構想の是非を問う住民投票が大阪市の住人約210万人を対象に実施され、反対多数で否決。提唱者であった橋下徹市長は政治家を引退。


 故郷の古河に戻って数日が過ぎた。古河駅前のファミリーマート前で後藤と再会した。

 古河は、古くは「許我」と表記され、『万葉集』に当時の情景が二首詠まれている事から、奈良時代から既に渡良瀬川の渡し場として賑わっていた事が伺える。


 平安時代には、9世紀初め〜10世紀における東日本最大級の製鉄所(川戸台遺跡)があった。9世紀後半の「半地下式平窯」(江口長沖窯跡)も発見されており、製鉄や窯業の生産拠点でもあった。


 室町時代後期から戦国時代にかけては古河公方の本拠地、江戸時代には古河藩の城下町、日光街道の宿場町・古河宿が盛えた。渡良瀬川には河岸があり水運が盛んで、農産物の集散地として高瀬舟が米や野菜を利根川、江戸川を経由して江戸に運搬していた。


 明治期に入ると、内国通運(現在の日本通運)が蒸気船を古河と東京の間に運航するようになった。1885年(明治18年)に開業した東北本線古河駅は茨城県内最初の鉄道駅となった。製糸産業の発達で人口が急増した結果、古河町(当時)は一時期、茨城県内で2番目の人口となった。1958年(昭和33年)に東北本線が電化され、上野まで約1時間で結ばれるようになってからは、東京のベッドタウンとしての役割が加わって人口がさらに増大し、合併前には人口密度で茨城県内第1位となっていた。2020年現在の古河市は、都心回帰の影響で東京のベッドタウンとしての役割は薄れたが、人口では土浦市に次いで茨城県内第6位である。


 行政上では茨城県に属するが、国道4号(日光街道)や宇都宮線(東北本線)の沿線であることから、経済や教育の面では栃木県・埼玉県・東京都との繋がりが強い。

 2005年9月12日、平成の大合併により旧古河市と総和町・三和町が新設合併、現在の古河市となる。

 

 後藤は刑務官をしてるそうだ。

「青梅に住んでるんだけど、用事があってこっちに来たんだ」

 芹沢は順調に仕事をしてると嘘をついた。

 芹沢はプライドが高い性格だ。

 後藤と話しているとき何故か、プルートのことを思い出していた。おそらく、名前をつけた親はプルートーに憧れていたに違いない。

 プルートーは、ローマ神話における冥界を司る神。ギリシア神話のハーデースがローマ神話に取り入れられたものである。日本語では長母音記号を省略しプルト、プルート、プルトーなどともいう。

 母親か父親のどちらかが日本人なのかも知れない。

 この名はギリシア語のプルートーン(Πλούτων, Plūtōn, 「富める者」の意)が転訛したもので、ハーデースの呼称の一つだった。

 本来はギリシア神話の神であるため、神話はほとんどがハーデースのものである。後に死の神オルクスや慰霊の神フェブルウスと同一視された。

 両親はかなり邪悪な性格をしてるのかも知れない。


 5月18日 - 維新の党代表・江田憲司が大阪都構想の住民投票で反対多数となった責任をとり、代表辞任。


 午前7時前頃、仙台堀川の草むらにおいて、男性が首に携帯ストラップが巻き付いた状態で倒れているのを車で通りがかった50歳男性が発見。発見された時点ではまだ息はあったものの、その後搬送された病院にて死亡した。死因は携帯ストラップで首を絞められた事による窒息死で、現場から靴が見つかっていないのにも関わらず靴下が汚れていない事から別の場所で首を絞められた後遺棄されたと思われる。また、着衣以外の携帯などの遺留品は見つかっていないが、男性が使用していた自転車は現場から600m離れたコンビニにて、カゴの中にプリペイドカードが入った状態で発見されている。

 

竜瑠美は警視庁第七方面本部に所属してる。分所は江東区新木場四丁目2番31号にある。

 担当区は江東区(東京湾岸署管轄区域を除く)・墨田区・葛飾区・江戸川区だ。

 識別章所属表示はLJ。

 眠い目をこすってパソコンのキーを打ってると、俳優の六平直政むさかなおまさに似た本部長が「男性の身元が分かったよ。パウエルっていうドクターだ。聞いて驚くな?勤務先はペンギンクリニックだ」

「これでますます服部への疑いが濃くなりましたね?」

 本部長の髭の濃さといい勝負だ。

「いや、もしかしたら悪魔の仕業かも知れんよ」

 

 5月19日 - 維新の党は江田憲司代表の辞任を受け、国会内で両院議員総会を開き、松野頼久幹事長を新代表に選出した。松野新代表は、後任の幹事長に柿沢未途政調会長を指名した。

 

 朝食は母親が作った目玉焼きと、自分で焼いたバタートーストを食べた。

 洗濯物を干そうとしてると後藤から電話があった。

《このまえ会ったとき、何か元気なかったけど、どうした?》

 芹沢は仕事を切られたことを正直に話した。

《そうだったのか。今の御時世、転職も難しいだろうな?俺の下で働かないか?》

 囚人の面倒見るのか?おっかないだろうな?

 だが、贅沢を言ってる場合ではなかった。

「やってみようかな?」

《じゃ、明日の午後9時に青梅駅に来いよ》

 

 翌日の夜、電車を乗り継いで青梅駅にやって来た。網棚の上にリュックサックを忘れた。中には黄金の腕輪を忘れた。聖水はウェストポーチに入れてあるので無事だった。駅員さんに問い合わせたが今のところ届いてないそうだ。終着駅にもないらしい。

 発車のベルが『ひみつのアッコちゃん』だった。

 直営駅で、みどりの窓口(営業時間:8時 - 19時)のほか自動改札機、自動券売機、自動精算機、指定席券売機を設置している。現在「みどりの窓口」を設けている青梅線内の駅は、立川駅を除くと拝島駅と当駅のみである。ホームと駅舎は、エレベーターを併設した地下道で結ばれている。


 かつては地下街が存在していた。


 昭和の町として市を挙げて当駅周辺を昭和レトロ化している中、2005年3月2日に「レトロステーション」青梅駅としてオープンし、駅名標などの案内サインやホームと駅舎を結ぶ地下道に昭和風の装飾がされた。待合室も、既存のプレハブに木材を貼り、木造建築物を模したものに改装されている。


 かつてここに車両基地(青梅電車区)があった名残りとして、構内には側線が多数あり、車両の留置や夜間滞泊に使われている(一部は宮ノ平駅側線へ回送される場合がある)。

 

 東京都西部の西多摩地域最大の市。立川市、八王子市、多摩市と共に東京多摩地域の業務核都市の一つに指定されている。1951年市制。関東山地と武蔵野台地にまたがり、中部を多摩川が東流する。中心市街地は多摩川の谷口集落で、青梅街道の宿場町として発達。その後、鉄道の青梅線が通じた。古くから綿織物が盛んで、青梅縞、青梅綿として知られ、第二次世界大戦前まで夜具地を多産した。山間部では林業が盛ん。市域東部には昭和40年代に三ッ原工業団地が造成され、ハイテクノロジー関連産業の進出や市街地の既存工場の移転が進められている。


 だるま市、青梅大祭は有名。金剛寺、塩船観音寺、武蔵御嶽神社、吉野梅郷があり、西部は秩父多摩甲斐国立公園に属する。1967年に始まった青梅マラソン(2月)には、海外からも含めて約15,000人が参加するマラソン大会となっている。

 

 駅前でスマホをいじってるとクラクションが鳴らされた。ミニクーパーが現れた。運転席に後藤がいた。

 後藤はどことなく『名探偵コナン』の目暮警部に似てる。

 彼のアパート目指してドライブした。

「青梅は赤塚不二夫ゆかりの地なんだよ」

 助手席でスマホをいじってる芹沢に後藤は言った。

「そうなんだ」

 後藤は山南ってヤクザのボスを憎んでいて、桃子って女囚を脱獄させて、山南を殺させることを計画してるらしい。

 芹沢は聖水について説明した。

「それでそんなに老けちまったのか?」

「それにしても、よく俺のこと分かったな?」

「そうじゃないかと思った」


 芹沢はしばらく後藤のアパートで世話になることになった。  

 翌朝、芹沢は後藤の運転するミニクーパーで青梅刑務所に向かった。刑務所近くのコンビニの駐車場で聖水を飲んで透明になった。

 鍵を事務室から持ち出し、牢屋の鍵を開けた。

 突然の出来事に桃子は驚いてる。

 桃子は牢屋から出た。同室の別所たちも桃子のあとに続いた。

 逃げようとする桃子にピラルクーが迫る。

 芹沢はカッターナイフでピラルクーの首を掻き切った。夥しい血を迸らせながらピラルクーは死んだ。

 まるで本能寺の変の信長みたいだと芹沢は思った。

 刑務所から出ると、後藤の運転するミニクーパーが玄関に横付けされた。別所と桃子、それと一条綺美香いちじょうきみかって美し過ぎる女囚は後部席に乗り込んだ。

 阿久津って主任が駆けつけたが、時既に遅し。

「そういや、芹沢は?」

 後藤は桃子に尋ねたのだが、別所が「さぁ、知らないねぇ」と答えた。

「アンタには聞いてない」


 芹沢は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月21日正午の武蔵国多摩川河畔の分倍河原ぶばいがわら(現在の東京都府中市)にやって来た。  

 河原には遺体があちらこちらに転がっている。

 分倍河原の戦いが終わった頃だった。この戦は北条泰家ほうじょうやすいえ率いる鎌倉幕府と新田義貞にったよしさだ率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。

 北条泰家は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。

  

 はじめ、相模四郎時利と号した。正中3年(1326年)、兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が15代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか10日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)。正慶2年/元弘3年(1333年)、幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍15万を率いて分倍河原にてこれを迎撃、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている。陸奥国の糠部郡には北条の所領があったためである。この際、案内者の南部太郎と伊達六郎は、人夫に姿を変え、泰家を粗末な輿に寝かせ、負傷した新田の兵が本国の上野国へ帰る様を装い北方へ逃げた。


 その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し、建武2年(1335年)6月に公宗と共に後醍醐天皇暗殺を企むも、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れて各地の北条氏残党に蜂起を促し、これに呼応した信濃の北条時行・諏訪頼重が挙兵して鎌倉将軍府を陥落させた(中先代の乱)。


『市河家文書』によれば建武3年2月、南朝に呼応して北条氏である「丹波右近大夫」や地元の凶徒の「深志介知光」とともに信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武2年末に野盗によって殺害されたとも言われているが、『太平記』においても建武2年の記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる。

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