第2話

 5日の夜遅く、芹沢は加須市の自宅アパートに戻ってきた。明日からまた地獄の日々がはじまる。西山と顔を合わさないといけないと思うと憂鬱な気分になる。  

 机に置いてあるタイムカードを、明日着ていく革ジャンのポケットに入れる。

 テレビをつけた。ニュースではデンマークでのテロ事件とホテルから音音が行方不明になったことをやっていた。

 芹沢はデンマーク警察のマルクスに音音が行方不明になったと嘘の話をした。マルクスはどことなく、ジョニー・デップに似ていた。

『パイレーツ・オブ・カリビアン』は芹沢の好きな作品の1つだ。


 翌朝は6時前に起きてスクランブルエッグを作り、冷蔵庫から野菜ジュースを出して朝食をとった。身支度を整え、自転車に乗って加須駅に向かった。アパートから駅まで15分かかる。   

 加須駅から特急列車りょうもうに乗り、東武動物公園駅で降りる。さらに東武日光線に乗り込み、3駅目の南栗橋駅で降りる。

 シャトルバスに乗り込み、食品会社『イカロス』に向かう。

 イーカロスは、ギリシア神話に登場する人物の1人である。蜜蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落して死を迎えた。イーカロスの物語は人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として有名である。また、この他にカーリアの王にも同名の人物がいる。

 伝説的な大工・職人ダイダロスとナウクラテーの息子。母ナウクラテーはクレータ島の王ミーノースの女奴隷である。


 ラビュリントスの攻略法をアリアドネーに教えたことでダイダロスとイーカロスの親子は王の不興を買い、迷宮(あるいは塔)に幽閉されてしまう。彼らは蜜蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出した。父ダイダロスはイーカロスに「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。しかし、自由自在に空を飛べるイーカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘーリオス(アポローン)に向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。


 ただし異説では、イーカロスのみが死ぬ点は一致するものの、飛行に関するエピソードはない。父子は(幽閉ではなく)追放され、船でクレータ島を脱出する。2人は別の船に乗った(イーカロスがダイダロスを追ったとも)が、イーカロスは帆船をうまく操れず船が転覆し溺死してしまった、あるいは、船から降りる際に海に落ちて溺死してしまった。


 工場までは10分ほどだ。工場近くにある人造湖は工業用水でモスグリーン色している。

 死んだ魚がプカプカ浮いてる。

 芹沢は嫌な予感を感じた。

 更衣室に入ると同年代の、松田充まつだみつるが作業着に着替えていた。

「やぁ、芹沢君。正月は何してたんだい?」

 松田たち会社の人間にはデンマーク旅行の土産は買っていない。派遣は生活がしんどいんだ、ケチケチしないと食っていけない。

「家でゲームやってたよ」

「そっか。俺は年賀状配達のバイトしてた」

「派遣だと生活厳しいもんな?」

「芹沢君、ゴールデンウィークに沖縄でも行かないか?」

「まだ先だな?」

 高校の修学旅行で沖縄に行った。首里城や美ら海水族館を見た。エメラルドグリーンの海を思い出す。沖縄は女もキレイだった。

「野郎2人ってのはちょっとあれだけど考えとくよ」

 コロコロローラーで作業着についた糸屑などを取り、エアーシャワーを浴びて作業場に入る。蒸気でムシムシしており、サウナみたいだ。

 現場長は麦原むぎはらって60近いバーさんだ。たまに本社から査察に来る部長は芹沢たちを『麦わらの一味』と茶化して言う。

 部長は『ワンピース』のコアなファンだ。

 芹沢たちの仕事は産まれての卵を薬品の浸かったプールに入れ、コンベアーに流すことだ。二人一組で行うのだが、芹沢とコンビを組んでるのが暴力上司の西山だ。以前は印刷工場で働いていたが、60歳のときに定年を迎えたが、息子がマフィアに殺され孫の学費を稼ぐために再就職したらしい。

 午前中、西山は穏やかに仕事をしていた。

「正月は女房とグアムに行ってきた」  

 西山は作業をしながらグアムに関するウンチクを長々と話した。

「グアム島に人類が住み着いたのは紀元前3000年~2000年頃で、東南アジア系民族チャモロ人がマレーシアやインドネシア、フィリピンから航海カヌーに乗って移住してきたことに始まると考えられる。そのことはラッテストーンと呼ばれる古代チャモロ遺跡が残存していることでわかる」

 芹沢は話を聞いてる途中に足の痺れを覚えた。

「1521年にポルトガルの探検家マゼランがヨーロッパ人として初めてグアム島に到達。1565年にレガスピが来島してスペインの領有を宣言し植民地となり、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ航路が1568年に開かれ、スペインの大型船ガレオン船が太平洋を行き来するようになり、1年に1度6月ごろロタやグアム周辺に現れ、チャモロと物々交換を行った。 1668年にスペインのカトリック教会使節サン・ビトレスを中心としたイエズス会がカトリック教会の布教活動のため訪れるようになった。先住民はチャモロであるが、サイパンを含む北マリアナ諸島から移住させられたチャモロが多数いた」

 芹沢が大きなあくびをした。

「俺の話はつまらないか?」

「いいえ。すみません」

「蒸気であったかいからな?無理もない。宣教師が祖霊崇拝を始めとするチャモロ人の伝統的な習慣や文化を厳しく禁止したため、不満を持つチャモロ人も多く、その不満は1669年のスペイン・チャモロ戦争として現れた。キリスト教に反抗的な村は全て焼き払われ、10万人いたとされるチャモロ人が5000人以下に激減した。そして、以降は目立った反抗はなくキリスト教文化が定着するようになったといわれている」

「西山さん、世界史の先生みたい」

「自慢じゃないけど高校のとき3年間とも『優』だったよ。1898年にアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争にアメリカが勝利し、同年のパリ条約によりグアム島はフィリピン、プエルトリコとともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれた。アメリカはスペイン同様に現地の文化や風習を無視してグアムのアメリカ化を進めるなど、植民地支配を推し進めた」

 芹沢は柱時計を見た。もうじきで9時だ。この会社には正午の1時間の休憩以外に休み時間はない。

「1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。大日本帝国海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空攻撃を開始し、2日後に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して大日本帝国領土とし、その後2年7か月にわたり占領した。1944年7月、グアムの戦いでアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本列島への爆撃拠点として使用した」


 午後は『汚卵おらん』と呼ばれる糞のついた卵をホースから流れる水で落とす作業をした。作業着がウンコまみれになった。

 16時前に作業が終わり、掃除に取り掛かる。食品工場では『サニタイズ』と呼ばれている。

 機械や配管を洗剤で洗い、タイルをブラシで磨く。1時間かけてピカピカにする。サニタイズのチェック係は西山で、「芹沢、配管洗ったのおまえだよな?」と尋ねてきた。

「はい、そうですけど」

「馬鹿野郎!きたねーよ!!」

 西山は配管で芹沢の頭を叩いた。

 西山の豹変ぶりに芹沢はオロオロしている。

「ちゃんと洗ったつもりなんですけど……」

「つもりじゃダメだよ。もう1回やり直せ!食中毒になったらどうする?」

 これ以降も西山のパワハラは続いた。寿司やウナギなどの食事を次々に奢らせたり、正座を強要したり、クラス会に出席しようとしたら『おまえみたいなレベルの奴が行くのか?もっと出世してから行かないと恥かくぞ』と鼻で嘲笑われたりした。

 芹沢の西山への殺意は日に日に募っていった。


 3月21日

 東日本大震災で被災した石巻線が全線で再開。

 仕事から帰ってきて、アパートのラジカセで最近発売されたばかりのAlexandrosの『ワタリドリ』を聴いた。

 この日の夜、芹沢はおぞましい夢を見た。

 芹沢は西山を廃倉庫へと追い詰める。鎧兜を身に纏い、日本刀一本で西山の配下たちに立ち向かう芹沢。蝶のような艶やかな剣捌きで男たちは次々と血しぶきをあげていく。

 そしていよいよボス・西山との対面。西山はゾンビと姿を変えるが、芹沢は首を斬り落として西山を倒した。

 夢から目覚めた芹沢は冷たい水で顔を洗った。

 西山を殺さないと精神がおかしくなりそうだった。

 さすがに日本刀を手に入れるのは難しいだろうが、ナイフくらいなら準備できるだろう。

 

 ジャーナリストの目黒桃子めぐろももこは週刊誌で暴力団・山南やまなみ組の告発記事を連載していたが、編集部が圧力を受けたため、組織壊滅の切り札となる最終記事の掲載が取りやめとなる。さらに、記事執筆の重要な情報源であった組員の結城ゆうきが待ち合わせ先の六本木のホテルで何者かに射殺される。結城の死体を発見した桃子はホテルの従業員に犯人と間違われてそのまま逮捕される。3月30日のことだった。

 同日、NHKで連続テレビ小説『まれ』が放送開始( - 9月26日)。主演は土屋太鳳つちやたお。 

 

 4月10日

 日経平均株価が一時、取引時間中としてITバブル時代の2000年4月17日以来ほぼ15年ぶりに2万円台を回復。

 この日、桃子の恋人・横堀雷矢よこぼりらいやが池袋で交通事故で死亡。桃子は山南組による報復であることをさとる。


 4月22日

  首相官邸屋上にて墜落したドローンが発見される。

 桃子は大学の友人たちと千鳥ヶ淵で桜を見ていた。🌸

 警視庁捜査一課に所属している竜瑠美りゅうるみ(大学時代は桃子とともに古代ゼミに所属)から山南組組長・山南礼二やまなみれいじが死んだことを教えられる。その真相は警視庁六本木署のマル暴刑事・六角若葉ろっかくわかばとの結託による、捜査逃れのための偽装だったが、桃子には知るよしもなかった。若葉は女性みたいな名前だが石原良純いしはらよしずみに似た男性だ。一時は復讐を決意したものの、心の置きどころがなくなった桃子は酒びたりの生活を送る。


 4月23日、ある開発事業に失敗した山南組幹部の巌流島義一がんりゅうまぎいちたちは、山南による死の制裁から逃れるため、神戸に住む山南の隠し子・栗夢ぐりむの誘拐を計画する。

 折しも栗夢は、山南と交わした待ち合わせの約束のため、東京に出てきていた。

 桃子は、亡くなった山南の本宅がある高円寺にてたまたま巌流島の手下に追われていた栗夢をかくまう。どことなく芦田愛菜あしだまなに似た17歳だった。

 栗夢の身の上話を聞いた桃子は、その父親が死んだはずの山南ではないかと察知し、ともに待ち合わせ場所のエトアール通り商店会へ向かう。桃子の姿を遠目に認めた山南は、姿を見せずに立ち去った。父との再会をあきらめ切れない栗夢は、そのまま世田谷区三軒茶屋の桃子宅に住み着き、好意を寄せるようになるが、あるとき桃子は栗夢に、山南が実は暴力団組長であり、自分の恋人の仇であることを率直に明かす。栗夢は衝撃を受けて泣き崩れるが、やがて事実を受け入れる。


 4月27日

 桃子は、雷矢の兄でバーテンの横堀源太よこぼりげんたとともに情報をたどり、雑司ヶ谷で山南の墓を発見し、掘り返す。棺桶の中身は砂袋であった。桃子は山南の生存がしていることを知った。一方巌流島らは、桃子宅に栗夢がいることを突き止め、押し入って誘拐し、電話で山南を呼び出す。身代金だけでなく、山南を本当に殺害して権力を奪うことを狙ったのだった。山南は呼び出しに応じ、27日午後8時に六角刑事とともに新宿歌舞伎町にあるゴールデン街の廃墟へ向かう。 

 バラック長屋に、スナックなど300軒近い酒場が並び、作家や映画・演劇関係者が通うことで知られる。

 1980年代後半のバブル景気の最盛期には激しい地上げに見舞われたが、飲食店の店主ら有志が「新宿花園ゴールデン街を守ろう会」を結成し、団結して地上げや再開発への反対運動を展開した。1990年代に入るとバブル崩壊により地上げは終息したが、地上げに屈して閉店した空き店舗が多数放置され、一時は客足も滞ったことから、さながらゴーストタウンのようになった。そのため、飲食店により構成される組合が中心となり、街の活性化やインフラストラクチャーの整備などを推進してきた。2000年代に入ると新規出店が相次ぐようになり、客足も戻ったことから、再び活気を取り戻した。近年では、ヨーロッパなど海外からの観光客が多く訪れることでも知られている。

 花園神社の西向かいにあり、第二次世界大戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が、狭い路地を挟んでマッチ箱のように並んでいる。東を花園交番通り、西を四季の道、南を東京電力角筈変電所、北をテルマー湯に囲われた区画である。区画内の路地には、それぞれ「G1通り」「G2通り」「あかるい花園一番街」「あかるい花園三番街」「あかるい花園五番街」「あかるい花園八番街」「まねき通り」といった名称がつけられている。「G」はGoldenのG。元々は、G1通りとG2通りのみが新宿ゴールデン街と呼ばれていたが、この名が全国的に有名となったことから、現在は区画一帯を総称して新宿ゴールデン街と呼んでいる。


 あかるい花園一番街より北側の店舗は新宿三光商店街振興組合を組織しており、南側の店舗は新宿ゴールデン街商店街振興組合を組織している。新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合のエリア内の路地は全て私道であるため、路上での無断撮影は禁じられており、撮影時は事前申請のうえ腕章着用など所定の手続きが必要となる。近年では、私有地であるはずの路上にて、無許可で写真や動画の撮影を行う者がおり、問題となっている。ただし、新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合に加盟する店舗の者に頼んで、スナップ写真や記念写真などを直接撮影してもらう場合は、申請が不要とされている。ただ、その場合も、当該写真を商用利用する場合は、申請が必要となる。なお、路上ではなく店舗内での撮影については、店舗側の許諾を得れば問題ないとされている。


 なお、新宿ゴールデン街の区画全体が、花園神社の氏子地域となっている。そのため、花園神社の神札や熊手を祀る店舗が多い。

 六角は山南の偽装死だけでなく桃子の冤罪にも大きく関わっており、見返りに組織対策課課長に出世していた。


 桃子も巌流島の手下に狙われ、奥多摩にあるアジトでコンクリート詰めにされかけるが、予知能力を使える源太の加勢もありなんとか切り抜け、彼らから拳銃を奪う。巌流島らに銃を突きつけられる中で山南と再会した栗夢は「あなたが愛しているのは私でなく自分だけよ。保身のために無実の桃子さんを陥れ、雷矢さんまで殺した」となじるが、山南は「それは誤解だ。桃子なんて女知らない」とうそぶきつつ、ひそかに隠れさせていた側近たちに巌流島を撃たせ、死に追いやる。そこへ現れた桃子が「それがあんたの本当の姿だ」と叫び、山南に拳銃の胸の辺りを撃った。病院に搬送され弾丸の摘出手術が行われた。手術は成功し山南は奇跡的に助かった。

 

 4月29日

 芹沢は松田充と沖縄へと旅立った。沖縄は独立国家化しており、パスポートが必要となった。

 沖縄は中国や韓国との結びつきが強かった。

 松田は沖縄でも運転する予定なので国際運転免許証を取得した。有効期限は発行から1年だ。

 芹沢はスーツケース、松田はバッグパックだ。

「鍵がついてないと不用心だぞ?」

 芹沢は神経質な性格で重いが、鍵の掛かるスーツケースを選んだ。

「心配いらないって」

 午前9時に羽田空港国際線ターミナルに到着。3階に行き、予約した航空会社のチェックインカウンターで手続きを行った。その後、手荷物検査と出国審査を済ませ、シャトル乗り場で無人運転モノレールに乗り、出発コンコースへと向かった。

 搭乗アナウンスが聞こえたので、搭乗券を係員に提示して搭乗開始。入り口の客室乗務員に搭乗券を見せ、座席の確認と案内を受ける。席に着いて、手荷物から機内で必要なものを取り出し、不要な荷物を上の棚に入れた。

 飛行機がグングン上昇する。🛫

 芹沢は絶叫マシンとかが苦手だった。思わず悲鳴を上げそうになった。

 水平飛行になったので、芹沢は『沖縄の歴史』って本を読んだ。

 

 古代 『続日本紀』には、文武天皇2年(698年)に朝廷の命により、文博士ふみのはかせ南島なんとう(南西諸島)に派遣されたとある。このときの文博士の任務は屋久島、種子島、奄美大島の朝貢関係を確認することにあり、文武天皇3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。これ以降、朝廷は種子島に国司を派遣するとともに、久米島や石垣島にも服属を求める使者を派遣している。和銅8年(715年)には南島の奄美・夜久・度感・信覚・球美の島民が来朝し貢上したという記載があり、蝦夷の人々とともに南島の人々に位階を授けたとある。他にも養老4年(720年)に南島人232人に位を授け、また神亀4年(727年)に南島人132人に位階を授けた、などの記載がある。


 琉球王国時代に編纂された「中山世鑑」によると、保元の乱で敗れ伊豆に流された源為朝みなもとのためともが追手から逃れるため沖縄本島(運天港)に渡り、その子が初代琉球国王舜天になったとされており、正史として扱われている。14世紀後半には三山王国(北山、中山、南山)が勃興するグスク時代に突入し、中国(明)に朝貢し冊封を受け琉球貿易を行っていた。1429年に中山王尚巴志が南山と北山を滅ぼし琉球を統一、琉球王国を建国した(第一尚氏)。グスク時代の城跡遺跡は『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産に登録されている。1469年に尚徳王の家臣であった金丸が王位を簒奪し、自らを尚円王と号し即位した(第二尚氏)。周辺の先島諸島や奄美群島にも版図を拡げるが、1609年(慶長14年)に薩摩藩の侵攻を受け尚寧王は降伏、当時王国の支配下にあった奄美群島は薩摩藩に割譲、王国は薩摩藩の支配下におかれた(琉球侵攻)。薩摩による侵攻以降も王国は中国の冊封を受け続け、日本の薩摩藩と清国に『両属』する体制となっていたが鎖国体制下の両国の中継貿易地としての役割を担い、交易を通じて独自の文化と自治を保っていた。この当時の日本本土と沖縄の関わりが、現代まで続く日本の南洋幻想の発端となった。


 近代に入り、1853年(嘉永6年)マシュー・ペリー率いる黒船艦隊が琉球に来航し首里城を訪問。翌1854年(嘉永7年)琉米修好条約を締結するのを皮切りにフランスやオランダとも修好条約を締結した。一方、日本本土では明治維新がおこり開国したことを受け、1871年(明治4年)9月に日清修好条規が締結され清との間に外交関係が樹立された。しかし、その約1ヶ月後となる同年10月に宮古島島民遭難事件が発生、明治政府は外交対処のために中央集権国家の確立を急ぎ、1872年(明治5年)、琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰を「琉球藩王」に封じて東京に藩邸を置いた。福島外務卿による清との交渉後、1874年(明治7年)に台湾出兵となり、日本の航客に危害を加えないなどの統括権などがイギリス大使の調停による事後処理条約で確認され、清との外交事件が帰着した。1879年4月4日(明治12年)、明治政府は琉球藩を廃して沖縄県を設置、尚泰は東京の藩邸に居を移し華族となる。これらの琉球王国末期の一連の流れを琉球処分と言う。


 1945年(昭和20年)、太平洋戦争では『国内最大の地上戦』と呼ばれる沖縄戦の戦場となった。米軍は4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸、瞬く間に島の北半分を制圧、日本軍は米軍の総攻撃を受け南部に追い込まれ、総司令部が置かれていた首里城も焼け落ち、6月23日に沖縄守備軍最高指揮官の牛島満中将らが摩文仁で自決したことで組織的戦闘は終結した。約3カ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃した。現在、摩文仁は沖縄戦跡国定公園に指定されており、6月23日は慰霊の日として沖縄県の休日となっている。


 沖縄戦後、GHQのSCAPIN - 677指令により南西諸島は米軍軍政下となり、日本の施政権は停止、行政実体(内務省知事下)としての沖縄県は一旦消滅した(アメリカ合衆国による沖縄統治)。米軍統治下で基地建設のため集落や農地を大規模に接収し、右側通行の道路を整備し、通貨としてB円、後に米ドルを使用させ、日本本土への渡航にパスポートが必要になるなど、米国流のやり方で戦後復興が進められていった。1952年(昭和27年)にGHQの占領下にあった日本が主権回復した後も沖縄は引き続き米軍の統治下におかれた。同年、米軍政が終了、米国主導で新たに琉球政府を設置、本格的な琉球統治と復興に乗り出す。

 まだ、続きがあったが睡魔が襲われ夢に堕ちた。

 デンマーク旅行の夢を見た。そういや、ホテルでアメリカ人を殺したテロリストは捕まったのだろうか?


 到着予定時刻20分前、シートベルト着用サインが点滅した。ポーン♪

 運の悪いことに芹沢は尿意を覚えた。

 クソッ!タイミング悪すぎだろ!!

「芹沢、顔真っ赤だぞ?」と、松田。

「オシッコ行きたい」

「本なんか読んでる暇あったら行ってくりゃよかった」

 着陸態勢に入ってしまったのでどう足掻いても無理だ。こんなところでおもらしなんかしたら一生の恥だ。

 飛行機が那覇空港に到着、何とかトイレに間に合った。フライト時間は2時間45分だった。

 検疫→入国審査→荷物の受け取りの順に済ませる。到着ロビーはスゴい人混みだ。

「スリに遭わないようにしろよ?」

 芹沢は松田のバッグパックが心配だった。松田はオッチョコチョイで、この前もスマホを電車内に忘れたばかりだ。遺失物センターにあったからよかったものの、スマホは安いものじゃない。

 空港内にあるケンミン食堂で沖縄そばを食べた。

「芹沢よ、おかしな腕輪をしてるな」 

 松田が左腕に嵌めてるアンドヴァラナウトを見た。金を増やすことの出来る魔法のアイテムだが、芹沢は未だに金を増やすことが出来ない。

 何をどうやったら増やせるのか?アンドヴァラナウトの能力について教えてくれたのは、デンマークの洞窟で行き合った白髪頭の老人だ。

「大宮にあるアクセサリーショップで買ったんだ」

「色気づきやがって」 

 

 那覇市は沖縄国の政治・経済・文化の中心であり、また県外や周辺離島とを結ぶ那覇空港や那覇港を擁することから沖縄県の玄関口としての役割も担っている。 また沖縄には電車が通っていない。


 那覇空港が市域面積の8%以上を占め、そのなかには自衛隊を含む。この他軍の施設や那覇港の民間用途の施設の分も考慮に入れると、実際の都市活動に使用できる面積は限られる。さらに、那覇空港の制限表面により、市街地の多くは超高層ビルや超高層マンションを建てることが出来ない。おもろまちを中心とする那覇新都心をはじめとした航空規制の影響がない北部エリアや、再開発事業の一環として旧市街地の牧志・安里地区などに高層ビルが建ち始めている。


 都市化に伴って周辺自治体のベッドタウン化が進み、那覇市を中心市とする那覇都市圏の人口は約78万人(都市雇用圏 - 2005年)となっている。なお、地方での人口減少が深刻な問題になっている今日においても那覇市及び那覇市の周辺自治体では人口増加が著しい。


 市の中心部は国場川(漫湖)、及び安里川に囲まれた平地地帯に広がり、那覇市、及び沖縄県の主要施設の多くがそこに立地している。近年では1987年に米軍の牧港住宅地区が全面返還されたことにより、那覇新都心として開発が進み、中心地に置かれていた企業本社などの一部が移転しており、新たな中心部となっている。


 また、中心部周囲の丘陵地はほぼ全て市街化(主に住宅地)され、元々の地形の高低から立体的な都市景観を見せる。一時は琉球王国時代の首都でもあった首里地区は海抜100m程度の高台の上に位置し、場所によっては那覇市全域を見渡すことも可能である。


 観光面では、市の中心部の国際通り、市東部の高台にある首里地区の首里城(琉球王国の王府。2000年12月に世界遺産・琉球王国のグスク及び関連遺産群として登録)が中心であったが、近年、前述の在日米軍住宅地の跡地が那覇新都心として開発が進んでおり、2004年12月に世界最大規模で国内では唯一の空港外大型免税店であるDFSギャラリア・沖縄がオープンした。東シナ海に面しているが、那覇空港や那覇港などの施設が海岸線のほとんどを占めているため、海水浴場は1991年に供用開始された波の上ビーチ(人工海浜)のみとなっている。名産品として壺屋焼や泡盛などがある。


 日差しが強く、芹沢はサングラスを持ってこなかったことを後悔した。松田はオークリー社のフレームがブルーのサングラスをかけていた。

 レンタカーショップでTOYOTAのアクアを借りた。🚗エモーショナルレッドというボディーカラーだ。ボディデザインは「トライアングル・シルエット」と称される、同社を代表するハイブリッド乗用車「プリウス(ZVW30型)」の流れを汲むもので、それらと同様にフロントウインドウが大きく寝かされたワンモーションフォルムを採用している。

 松田が運転席、芹沢が助手席にそれぞれ座る。

 カーナビに『首里城しゅりじょう』と入力した。アクアが発進する。芹沢から助手席からエメラルドグリーンの海を眺めていた。  

 目的地まではわずか20分だった。

 

 首里城は日本の他地域の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に琉球瓦(赤瓦)が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。

 

 首里城は第二尚氏王朝時代の15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭と、第一尚氏王朝時代の15世紀前半ごろに建設された内郭という二重の城壁に囲まれ、御庭うなーと呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があった。城の正門である歓会門(別名・あまえ御門うじょう)、または通用門である久慶門(別名・ほこり御門)を経て外郭内部に入ると、内郭の入り口である瑞泉門(別名・ひかわ御門)に至る。瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の冊封使が18世紀前半から19世紀後半にかけて残した碑刻がある。


 瑞泉門を通り、漏刻や日時計で時間を計測していた漏刻門(別名・かご居せ御門)を抜けると、司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門(別名・長御門)に至る。広福門の内側は、系図座・用物座(家系図や城内の物品を管理する機関)や、御庭につながる奉神門、祭祀空間である「けおうち」に囲まれた下之御庭しちゃぬうなーが広がる。ここは御庭に入る前の控えの場であり、首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽すいむいうたきがある。


 正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を迎え入れたりするための御庭うなーと呼ばれる広場が設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、御庭への入り口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられている。さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっている。これらの構造には、中国の紫禁城との類似性も指摘されている。南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、ここのみ和風の意匠が用いられていた。


 首里城内郭へ上る経路はどことなく万里の長城に似ていた。


 首里城から出ると芹沢たちはゴールデンウィーク期間滞在する、大宜味村おおぎみそんにある『ドリームスター』というホテルに向かった。

 ドライブ中、松田がパソコンで作成した『沖縄出身者の曲』と黒いマジックと書かれた白いCDを聴いた。全部で16曲。1曲目は安室奈美恵あむろなみえの『チェイスザ・チャンス』だ。

「確かこれってさ、『ザ・シェフ』の主題歌だったよね?」と芹沢。

 東山紀之ひがしやまのりゆき演じるクールなシェフ、味沢あじさわが活躍する料理ドラマだ。

「川島なお美や国分太一が出ていた」

 松田も見てたようだ。

「そーいや、『天皇の料理番』見てる?」

 4月からTBSで日曜の9時からやってるドラマだ。

「佐藤健が出てる奴だろ?見てないな〜」

 松田は大あくびをした。

「昔は堺正章さかいまさあきが主役やったらしいよ」

「誰それ?」

「昔、正月の隠し芸で活躍してたじゃん。グループサウンズの『スパイダース』の人」

「おまえ、昔のことよく知ってるな?本当に30代かよ?」

 大宜味村までは1時間20分かかった。

 ORANGE RANGEの『ミチシルベ』やTHE BOOMの『島唄』などもよかった。

「松田、余計なこと言うようだけどTHE BOOMは沖縄出身じゃないよ」

 Vocalの宮沢和史みやざわかずふみを含む3人のメンバーは山梨出身。Drumsの栃木孝夫とちぎたかおは東京都出身だ。


 大宜味村は沖縄本島北部、国頭半島西部に位置する。

 海岸付近を除き低地は少なく、東村との村界側の大部分は山地・森林になっている。

 村役場などの主要な施設は大兼久・大宜味集落の境界付近と喜如嘉集落付近、塩屋集落付近に分散している。

 大保ダム建設時の排出土を使った埋立事業が塩屋地先で進行中。非都市地域での大規模な土地造成の費用対効果、またやんばるという土地柄、自然破壊へつながる事業へ疑問を呈する声は少なくない。

 大保ダム建設時の排出土を有効活用した埋立事業によって結の浜が整備された。傾斜地が海岸線まで迫り、山がちで平地の少ない村においては崖崩れによる交通遮断の懸念、人口減少の歯止め策・対応、雇用確保の為の事業所誘致等の難問を如何に解決するかは深刻な課題であり、その対策としてこの事業が施行された。現在は村立診療所、薬局、村立小学校・中学校、村営団地・民間住宅、民間事業所、コンビニエンスストア、遊具施設や展望デッキ等が配置された公園等が建つ街並みとなっている。史実では2015年時点でホテルは存在しないが、幕末に徳川幕府が滅ばなかった異世界の2015年では、巨大ホテルが聳え立っている。

 塩屋湾は風光明媚なロケーションとして人々に認知されている。

 

『ドリームスター』はガラス張りのピラミッド型のホテルだった。

「ルーブルピラミッドみたいだ」

 駐車場にアクアを停めた松田がぼそりと言った。

「どこにあるんだ?それ」

「パリだよ。地下ホールが各既存棟を繋いでるんだ。地下空間に自然光をもたらせたいから、ガラス張りにしたんだ」

「フランスに行ったことがあるのか?」

「ナポレオンに憧れた時期があってね……」

 芹沢は車から降りた。太陽が水平線に消えつつある。大きく伸びをした。

 チェックインしてお互いの部屋でゆっくりした。

 今日の夜だけは外で食べることになっている。

 17時半頃、ドアがノックされ松田が顔を覗かせた。「そろそろ行こうぜ?」松田は一眼レフカメラを肩から下げていた。

 飲むことも考慮して歩きで移動することになった。

 道の駅おおぎみにやって来た。大宜味村の国道58号沿いにある道の駅だ。レストランと直売所は19時までやっている。  

 芹沢は定食を食べた。ラフテーはとても美味かった。ラフテーは、沖縄の郷土料理の1つで、皮付きの三枚肉またはヒサガー(皮付きのもも肉)を泡盛や醤油で甘辛く味付けした料理。いわゆる豚肉の角煮のことである。

 琉球王朝時代からの保存食でもあり、1か月ほど保存がきく。中国料理の東坡肉と起源を同じくすると考えられており、東坡肉と同様に皮を剥がさずに豚肉を調理し、肉に皮が付いたまま食する。この点で鹿児島に伝わった、豚肉の皮を剥いで調理する角煮と異なる。


 名称は中国語に由来し、漢字では羅火腿と書く。ラフティーという表記も散見されるが、沖縄語ではラフテーという読みが正しい。


 沖縄そばの具や、正月料理や法事の重箱に用いられる「三枚肉の煮付け」と同じような料理であるが、甘辛く濃い味付けで箸で切れるほど柔らかく煮込まれており、薄切りではなくある程度の大きさのある塊のまま、独立した料理として他の具材とは合わせず単品で供される点が特徴である。

 芹沢たちは泡盛を飲んでベロンベロンになった。


 20時頃、ホテルに戻ってきた。

 先に温泉に入っておくべきだった。芹沢は洗面所の水を飲んだ。少し酔いが覚めた。

 スマホゲーム『MONONOKE』をやるので外に出た。

 携帯電話端末には、自らの位置を知らせる位置登録システムが付随している。これは携帯電話システムの基地局からの位置情報を利用するものとGPSを利用するものとがあるが、ほとんどのゲームは双方に対応するように作られている。

 このシステムを利用し、ゲーム運営側に自らの携帯電話端末の位置を知らせることで、移動距離やターゲット地点との距離差を算出させ、そのデータを元にしてゲームを進めていくことを目的とする。

 

 芹沢はター滝にやって来た。平南川へなんがわ上流に位置する。亜熱帯の照葉樹林が広がるエリア。清流を歩くリバートレッキングが楽しめる。夏は滝壷で泳ぐことも出来る。

 スマホを出してゲームを起動させた。

 芹沢はキャラに『ゾンビ』と名前をつけてる。

 武器はスナイパーライフルだ。

 ター滝のところにはオキナマズってモンスターが現れる。

 だが、スナイパーライフルではオキナマズを倒せなかった。

 イライラしてるときだった。ナイフを持った奴が背後から襲いかかってきた。

 芹沢は死を覚悟したが、前から来た女性が「あぶない!」と叫んだので攻撃を躱した。

 女性は沖縄空手の使い手だった。

 空手道または空手は、琉球王国発祥の拳足による打撃技を特徴とする武道である。起源には諸説があるが、沖縄固有の拳法の手に中国本土の武術が加味され、さらに薩摩藩示現流や夕雲流など日本武術の影響も受けながら発展した。

 女はサソリ蹴りを男に食らわせた。

 密着状態から、新体操選手のように瞬間的に海老反りになって蹴る。技の見た目から、サソリが相手に毒針を刺す動きに似ていることから「サソリ蹴り」と呼ばれる。

この技は射程距離が極端に短いので、密着状態で使う技だ。

 女はやたら体が柔らかく、足が長い。  

 男から芹沢はナイフを奪って腹を突き刺した。

「グェェッ!」

 芹沢は女を連れて逃げた。女も逮捕されるのが怖かったのか通報はしなかった。

「何も殺すつもりなかったじゃない!」

 女は大山だいせんと名乗った。

 平南川の畔にやって来たとき、妖怪ブナガヤが出現した。

 普段は川底に住み、保護色によって姿を隠しており、人間と関り合いになることはあまりない。

 人間の子供が誤ってブナガヤの手を踏んでしまうと、その手にブナガヤ火と呼ばれる火をつける。また足を踏むと、同じようにブナガヤ火によって火傷させる。このブナガヤ火は通常の火と異なり、青みがかった色をしているという。かつてはブナガヤ火で子供が火傷をすると、土地の年寄りたちが呪文を唱えて火傷を消したという話もある。沖縄本島北部の大宜味村では戦後まで、旧暦8月頃に巨木の上や丘の上に小屋を立ててブナガヤの出現を夜通し待つ「アラミ」という風習が行われていたという。


 人間と関わった数少ない事例では、大正7-8年頃、砂糖を作る農民の元に毎晩来ていたブナガヤを捕まえて、サーターグルマ(砂糖車)の圧搾口へ押し込んだら、潰れたらしく、血まみれになったという話がある。


 沖縄県の妖怪ではキジムナーがよく知られているが、ブナガヤも地元ではキジムナーと同様に知られており、企業の名や飲食店の名にも用いられている。大宜味村でブナガヤをモチーフとした商品やイベントなどによる村おこしが行なわれており、全国から一般公募されたイラストをもとにした赤毛・半裸の少年のような姿のブナガヤがイメージキャラクターとなっている。    

 芹沢は武器を持っていなかったので逃げた。

 いつの間にか大山の姿は消えていた。


 芹沢は気がついた。人を殺すと異世界に来れるってことに。

 通行人が琉球王国だと教えてくれた。

 沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを勢力下においた。当初はムラ社会の豪族であったが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えた。明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国であったが、1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる(「掟十五条」)保護国となった。その一方、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けず、1879年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けた。同国に属した事がある範囲の島々の総称として、琉球諸島ともいう。

 

 どこかのボンボンが怪物退治を依頼してきた。

 ボンボンは怪物によって足に火傷を負ったらしい。

 芹沢は青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうをボンボンから渡された。

 宮殿の近くにブナガヤが現れたので、芹沢は偃月刀でブナガヤを斬り殺した。

 黄金の腕輪が突然光り輝き出した。 

 5000円札が1万円札に変わった。  

「なるほど、怪物を倒すと金が2倍になるのか」 

 16世紀後半、時の大和天下人・豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢するよう薩摩藩を通じて直接これを恫喝したが、王府の財政事情や明の冊封国である事から、要求の兵糧米の半分を差し出すに留まり、残りの兵糧と軍役は薩摩藩が負担した。


 1609年(万暦37年・慶長14年)、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りや、徳川への謝恩使の再三の要求に最後通牒を突き付けられてもなお応じず黙殺したため、家康・秀忠の許しにより、薩摩藩は琉球侵攻に乗り出した。島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発、3月8日に奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて抗したが敵せず敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

 芹沢がやって来たのはそんな時代だ。

 あっという間に1日は過ぎた。

  

 5月1日の真夜中、芹沢は現実世界に戻ってきた。

 青龍偃月刀は異世界にある自室に置いてきた。

 フロントのポールって外国人が、内線電話で208号室で待機してる堂珍どうちんっていう屈強な40代の男性刑事をロビーに呼んだ。

 堂珍にあれやこれや聞かれた。

 堂珍に疑われてるんじゃ?と思ったが、芹沢が殺した通り魔は逗子善吉ずしぜんきちという山南組って暴力団の組員で、粛清か抗争の可能性があるとのことだった。

 芹沢はホッと息を撫で下ろした。

 堂珍が無能でよかった。

 

 疲れていたのか8時くらいまで眠った。

 松田の部屋に行ったら驚いていた。

「よく生きていたな?」

 六田原むたばる展望台 に隠れていたと嘘をついた。塩屋富士(317.4m)の中腹にある、塩屋湾を一望できる展望台。屋古地区から押川集落へ抜ける道路沿いに位置。全く手入れがされておらず、草に覆われており、ハブ等に注意が必要。まぁ、この時期は冬眠しているだろうが。閉館したホテル・サンセットビューインシャーベイの付属施設だった。

 朝食はバイキング形式だった。シークワーサーが疲れた体に染み渡った。

 朝食を終え、アクアに乗り込み屋我地島やがじしまに向かった。20分くらいかかった。

 🏝屋我地島 9時20分到着

 沖縄本島北部に位置し、羽地内海に浮かぶ島で、沖縄県名護市に属する。面積は7.82km2。市の中心部から約10km 離れた位置にあり、市の北西部にあたる(島の最北端は市の最北端にあたる)。沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれており、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれており、また今帰仁村運天側の本島との間はワルミ大橋で結ばれている。島内には、済井出・饒平名・屋我・運天原・我部の5つの集落があり、饒平名に名護市役所の支所と郵便局が置かれている。

 

 屋我地島の饒平名の干潟には、高さ10mを超えるオヒルギ(マングローブ植物)が生育している。そのほかにも、3種類のマングローブ植物が生息しており、生き物の宝庫となっている。また、干潟域を中心にシギ・チドリ等の渡り鳥が飛来し、周辺の岩礁帯帯ではベニアジサシやエリグロアジサシの繁殖が確認されている。そのため、1976年(昭和51年)11月1日に屋我地島全域と周辺海域、羽地内海が国指定屋我地鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている(面積3,280ha、うち特別保護地区1,001ha)。

 

 メインの産業はパイナップルとサトウキビだ。🍍

 🔱済井出漁港ってところにやって来た。

 済井出地区の海岸に建設された、大きな漁港。古宇利大橋からもその存在がはっきりと見える。まだ建設中だが、釣りのスポットとしてそれなりに定着しそうである。漁港建設以来、砂の流出が続き、現在砂浜は削れ、砂浜は倒木だらけという無残な姿と化している。

 釣具屋で釣り竿と道具、餌を買った。

 1時間しても釣れないからそろそろやめようとしたとき、松田の餌に何かが食いついた。

 🎣

「ヨッシャー!」

 🐟トカゲハゼ

 トカゲハゼの見た目はムツゴロウやトビハゼに似ている。体長は10cmほど。

 トカゲハゼは東南アジアを中心に、パキスタンやインドなどの熱帯・亜熱帯地域に分布しているが、最大の生息地は沖縄島の東海岸中南部にある中城湾なかぐすくわんだ。

「何か連れたかい?」

 通行人のオッサンが芹沢に尋ねてきた。 

「ボウズです」

「芹沢よボウズって何だ?」

「え?魚が全く釣れなかったってことだよ」

 松田はトカゲハゼをリリースした。

 

 芹沢たちは12時前に名護市にやってきた。

 2000年に行われたG8主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)の開催地となった。


 中心市街は名護湾に臨み、背後は古生層の山地がそびえる。沖縄本島北部地域の中心都市で国や県の出先機関も多く、商業が活発である。また農業では、ラン、キクなど花卉のほか果樹・野菜栽培が盛んで、漁業では、カツオの水揚が多く、タイ・クルマエビ養殖も行われる。


 沖縄自動車道が通じ、海岸は景勝地で海水浴場もある。市街地東方にある名護城址はカンヒザクラの名所で、近くには樹齢300年のひんぷんガジュマルがある。


 1978年以来、北海道日本ハムファイターズの春季キャンプが名護市営球場で行われている。

 

 芹沢たちは定食屋でソーキそばを食べた。

 その後、ブセナ海中公園という名護市の部瀬名岬にある海中公園にやって来た。沖縄観光開発事業団(現・沖縄観光コンベンションビューロー)により建設され、本土復帰以前の1970年にオープンした。海中公園がある岬の先端と西岸はブセナリゾートとして整備されている。

 部瀬名岬の先端の西170mの海上にある海中展望塔は見事だった。陸地とは歩道橋で繋がる。 海中展望塔内部は螺旋階段で、水深5mの底部に円形窓が設けられており、熱帯魚を鑑賞できるようになっている。  

 🐠

「綺麗だな〜」

 ゲンナーイラブチャーというサファイアブルーに輝く魚は芹沢の目を引いた。

 鮮やかな色や頭のコブ、くちばしのような口が特徴的なユニークな島魚。白身魚で味は淡白だが、独特の香りがする。

 スキンヘッドの青年が芹沢たちの背後に迫る。青年の名前は座波仁太郎ざはじんたろうというのだが、無論のこと芹沢たちは知らない。

 座波はマッシュルームカットのひ弱そうな少年を従えていた。

「殿下、標的は彼らではどうでしょう?」

 芹沢は年下の人間に敬語を使う男を見て苦笑した。

「いいんじゃないでしょうか?」

 殿下は数日前に起きたおぞましい出来事を思い出した。部屋でパンツいっちょで寝ていたら母親が、スカートをたくし上げて、パンツを脱いで殿下の上にまたがった。そのときの勃起力は半端なかった。

 座波はホルスターから銃を抜いて、銃口を芹沢に向けた。

 ペッパーボックスピストルという回転式弾倉と銃身が一体化した形態を持つ黎明期のリボルバー拳銃の一種である。

 回転しつつ弾丸を撃ち出す形態がスパイス・ミルの「コショウ挽き」に似ていることからペッパーボックスの名称が付いた。西部開拓時代初期のアメリカで大流行した拳銃の一種である。一般的には、薬室と一体化した銃身を複数本束ねたものを回転させることで、装填動作を省略し連射を可能とした銃器のことを言うが、特にサミュエル・コルトが特許を持っていた、引き金を引くだけで回転連射が可能な「ダブルアクション機構」を持つ護身用の小型拳銃を指していた。米国では、1830年代-1850年代、世に溢れかえるほど行きわたった銃として知られる。


 歴史上、リボルバー式拳銃の祖である銃身と薬室が分離した形態の銃器が登場したのは、1700年代前半ヨーロッパといわれている。この頃のリボルバー式拳銃は、いわゆる古式銃に相当する「フリントロック銃」などに回転式薬室をもうけて連射可能とする物だったが、こうした機構を組み込んだ複雑な構造の銃は高価この上なく、一部の貴族や金持ちのステータスとして所有されていたものがほとんどで、おおよそ実用にはほど遠かった。日本の江戸時代にも、このような発想による複数銃身を持つ火縄銃が開発されていたが、大規模な戦争が過去のものとなっていた当時は広まらなかった。


 打管式拳銃(パーカッションロック式拳銃)が発明されると、拳銃の発射機構はより簡素になり、コルト社やレミントン社のアーミー・ネービーモデルに見られるような近代のリボルバー拳銃に近い形態の物が登場することになるが、それでもまだリボルバー拳銃は高嶺の花であり、その用途は主に軍用で、一般庶民は単発式の拳銃を多く所持していた。こうした状況下で単発拳銃を主に生産していた「イーサン・アレン社」は、薬室と銃身を一体化させた複数銃身にパーカッション式発火機構を備え、コルトのパテントだったダブルアクション機構を備える簡素な連射式拳銃を発明し、これが後にペッパーボックスピストルと呼ばれるようになる。コルトのリボルバーの3分の1程度の値段で手に入る連射拳銃として米国全土に広く行き渡り、この時期はコルト社が一度倒産した頃と重なる。


「俺たちを助けてくれ」

 銃を向けながら言う言葉だろうか?銃を向けられた俺たちのセリフだと、芹沢は思った。

 芹沢たちは両手を上げていた。

「強盗にでも命を狙われてんのか?」

 松田は漸く喋った。喉の奥から胃が丸ごとせり上がってきそうなほど緊張していた。

「沖縄を治めてる婆娑羅ばさらは俺たち普通の人間のことを考えてない。日本から独立して中国や韓国とよろしくやってるが、俺たちの暮らしはメチャクチャ貧しい。昨日なんて夕飯しか食べてない」

 松田は顔を顰めた。

「そんなことは婆娑羅に直接言えよ?」

 座波は銃口で松田の腹を小突いた。鳩尾みぞおちを抉られた松田は地面の上でのたうち回った。

 座波はがら空きになってる背中を足で踏みつけた。

「この人を殺されたくなかったら言うことに従いなさい」

 殿下が冷たい口調で言った。

 芹沢は別に松田がどうなってもよかった。いや、車を運転できる奴がいなくなっちまうか?

「何をすりゃいいんだ?」

「100万円を用意しなさい」

 銀行口座には300万ある。用意できないことはないが、この不景気稼ぐのは大変だ。ここまで稼ぐのは並大抵ではなかった。

 2005年3月に都内にある大学を卒業し、50社目で漸く決まったシリウス銀行に就職した。

 芹沢は本当はゲームプログラマーになりたかった。ドラクエやファイナルファンタジーみたいなロールプレイングゲームを作りたかった。10社目の大手ゲーム会社の下請けを落ち、ゲーム業界から出版業界に転向したがそれでもダメだった。

 シリウス銀行に入った理由は美人がたくさんいたからだ。

 パワハラに精神を病み、2008年6月にシリウスを辞めた。それから1年療養をして、『シュヴァルツ』という派遣会社に入ってホルモン工場、チェーン工場、自動車工場を経て、イカロス食品に入った。

『派遣のくせに』言葉を何回耳にしただろう?

 西山みたく暴力を振るう人もたくさんいた。

 汗と涙の結晶が300万だ。

 だが、ここで拒否すれば殺されるかも知れない。

「分かりました」

 芹沢は殿下の命令に従うことにした。

「座波さん、こいつを常に監視しなさい」 

 殿下ってのはかなり用心深い性格のようだ。

 座波は芹沢が泊まってる『ドリームスター』にまでついてきた。

 座波は松田の泊まってた305号室に宿泊することとなった。

 夕飯前に風呂に入ろうとしてると、ノックする音がした。

 芹沢は鍵を外し、ドアを開けた。

 座波が入ってきた。

「殿下から連絡があった。タイムリミットは20日の午後6時だそうだ」

「了解したと伝えておいてくれ」

 風呂はジャグジーや露天風呂が格別だった。風呂の後、生ビールを飲みながらニュースを見ていた。

 ウベルリって怪物が東京ミッドタウンに出没したらしい。ヒッタイト神話に登場する原初の巨人。ウペルリとも。海底で天と地を支えていたと言われる。

 非常に鈍い巨人で、その右肩に乗った巨人ウルリクムミが大きく成長しても、まるで気づかなかったとされる。

 ウベルリはMMUによって倒された。

 MMUはMonster・Mopping up・Unit(怪物掃討部隊)の略だ。

 芹沢は西山を殺して金を奪うことに決めた。

 今頃、松田はバラバラにされて殺されてるかも知れない。金を受け渡したからといって松田が戻ってくる確証はどこにもない。

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