BRAVE☠KILLER 

鷹山トシキ

第1話

 4人死亡

 芹沢聡太 派遣社員 人を殺すと魔界に行ける能力を持つ。

 立花忠治 テロリスト 神話などに詳しい。デンマークで出会う。新選組マニア

 津田哲也 芹沢の同級生 警視庁捜査一課警視

 徳川夏樹 徳川幕府将軍  

 西山 食品工場上司

 沼津音々 聡太の恋人 コペンハーゲンで殺される

 松田充 派遣社員

  

 2015年1月4日 - NHK大河ドラマ『花燃ゆ』放送開始。

 主演は井上真央いのうえまおふみ)。他の出演者は東出昌大ひがしでまさひろ久坂玄瑞くさかげんずい)や高良健吾高杉晋作《たかすぎしんさく》《こうらけんご》だ。

 


 芹沢聡太せりざわそうたはデンマークに来ていた。

 デンマークは、北ヨーロッパに位置し、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島およびその周辺の多くの島々からなる立憲君主制国家。自治権を有するグリーンランドとフェロー諸島と共にデンマーク王国を構成している。

 北欧諸国の1つであり、北では海を挟んでスカンディナヴィア諸国、南では陸上でドイツと国境を接する。首都のコペンハーゲンはシェラン島に位置している。海外領土でない領土を大陸部分に領有しながら首都が島嶼に存在する国は、デンマークと赤道ギニアのみである。

 洞窟の奥でアンドヴァラナウトという宝物を見つけた。小人、アンドヴァリの腕輪で、黄金を増やす能力を秘めている。

 神々がフレイズマルって巨人の息子、オッタル殺害の賠償金を確保するため、悪神ロキによってアンドヴァリが蓄えていた黄金とともに奪われた。

 聡太は茨城県五霞町にある食品工場で派遣社員として働いているが、ボーナスや退職金もない奴隷みたいな扱いだ。おまけに西山にしやまって上司から殴られたり、暴言を吐かれたりしてる。

 この間も『おまえが無能ってことは、親父やおふくろもさぞかし無能なんだろうな?』と馬鹿にされた。

 この旅は自分を変える為の旅だ。

 アンドヴァラナウトを腕に嵌め、財布から千円札を取り出した。だが、何も起きなかった。

「チッ、パチもんか?」

 芹沢は舌打ちをした。

 洞窟を出た芹沢はシェラン島にやって来た。

 デンマークはユラン半島(ユトランド半島)と443の島(うち76が有人島)から成り立っている。中でも重要なのは古都オーデンセのあるフュン島とコペンハーゲンを擁するシェラン島。また、シェラン島の南にはファルスター島、ロラン島が、フュン島の南にはエーロ島などがある。多くの島が橋で結ばれていて、コペンハーゲンがあるシェラン島とスウェーデンもエーレスンド橋で繋がっている。そのエーレスンド橋とスウェーデンの陸地を経由してさらにフェリーに乗るとコペンハーゲンから東南東に150キロメートル離れたボーンホルム島に辿り着く。この島は位置的にも歴史的にもデンマークの多くの島とは際立って異なる。

 🤞ここまでコピー済み

 

 デンマークの国土はおおむね平坦である。最高地点は173メートルであるが、これは青銅器時代に造営された人工的な地形である。本来の最高地点はモレホイの171メートル。


 北大西洋海流の影響で気候は穏やかで、温暖な冬と涼しい夏がある。降水量は少なく、年降水量は約745ミリ(1990年以降の平均)で、世界平均の約880ミリより少ない。このため雪が降り積もることもほとんど希である。


 赤道ギニア・イギリスとならび、大陸部に領土を保有しているにもかかわらず、島に首都が存在する国である。

 シェラン島は、ユトランド半島の東、バルト海に位置する。面積は7,031 km2でグリーンランドとその属島を除くとデンマークで最も広い。人口は約210万人でデンマークの東部にあり、東端には首都コペンハーゲンがある。西にあるフュン島との間には大ベルト海峡を跨ぎ大ベルト橋が架かる。東にはコペンハーゲン空港があるアマー島がある。ここからエーレスンド海峡(ウーアソン海峡)の海底トンネルを通って人工島であるペベルホルム島を通過し、そこからエーレスンド橋を渡るとスウェーデンに行ける。南のファルスター島との間はファローブローン橋で結ばれている。

 

 コペンハーゲンから北へウーアソン海峡沿いに走る鉄道で海岸線を走る。途中、ロングスデス・キュスト駅周辺では、作家カーアン・ブリクセンの生家を改装した美術館があり、広い庭にはブリクセンの墓地がある。次にホムレベク駅周辺ではルイシアナ現代美術館があり、庭園から海峡や隣国のスウェーデンまで見渡せる。

 芹沢はdramatiskt(ドゥラマーティスッ)ってホテルにやって来た。ドゥラマーティスッにはドラマティックって意味がある。

 芹沢はチェックインを済ませた。🤞

 

 ロビーでふくよかな日本人男性がコーヒーを飲んでいた。

「おやおや、日本の方とこんなところで会うなんて奇遇ですね」と、彼は言った。

「そうですね。もう、外は真っ暗ですよ」と、芹沢。

 ロビーの窓にはブラインドがかかっている。

 男性が鳩時計を見た。もうじきで午後6時になろうとしている。

「申し遅れました、私は群馬でレストランを経営していました立花たちばなと言います」

 彼は60歳のときに店を閉めて世界旅行をはじめたらしい。

「群馬だったら昔、自動車工場で働いていました」

 今から3年前、芹沢が30歳のときだ。大泉にある工場で部品の組み立てを行っていた。あの辺はブラジル人がたくさんいる。

「ところであなたの名前は?」

「芹沢と申します」

「もしかして、芹沢鴨せりざわかもの末裔ですか」

「ええ、そうですよ」

 芹沢 鴨(生年不明 - 文久3年9月16日【1863年10月28日】)は、幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長(頭取)。前名は下村嗣次しもむらけいじ(継次、嗣司、嗣治とも)と推定されている。諱は光幹で、本姓は桓武平氏繁盛流大掾氏とされるが、実際は出自、出生年に諸説があり、確定されていない。


 鴨の前半生については不明なことが多い。

 多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐の実子で、松井村の出生と言われる。石河幹修(明善)『石河明善日記』に「手綱領松井村神官次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあり下村嗣次は下村祐(次郎八)と親子関係であるとされている。嗣次には常親という子供がいたと言われるが、下村家位牌には祐の子供と記されていた。婿養子とする説もあるが根拠は見つかっていない。


 島田魁の『英名録』の末尾には鴨の名前の右横に「又左(右)衛門子」とあり、水戸藩士の芹沢分家出身ともいわれ、日置流雪荷派弓術の名人芹沢又衛門以幹の子だとする説も存在している。同家は以幹の次男で、後を継いだ芹沢平蔵義幹(前名は鴨と同じ光幹)の子供たちである又衛門孝幹、助次郎豪幹、亀三郎らの三名が、文久3年(1863年)3月、伊藤俊輔に伴われて上京していた。🤞



 永倉新八の「常州水戸の郷士で真壁郡芹沢村の産」、「芹沢村浪人」という表現から、室町時代に常陸国行方郡芹沢村(現茨城県行方市芹沢)に定着した豪族で、江戸時代初期には戦功により徳川家康の命によって行方郡富田村(現行方市富田)に知行百石を与えられ、後に水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家本家の出身で、芹沢外記貞幹の三男とする説がある。


 しかし近年、芹沢外記の四男に文政7年(1824年)もしくは文政9年(1826年)出生で、新徴組に入り、後に天狗党に加わって元治元年(1864年)8月16日、那珂湊で戦死した長谷川庄七(諱は健久)の存在が確認された。鴨の生年は天保3年(1832年)とする説が有力であり、外記の三男だとすれば計算が合わない。系譜・宗門人別帳などの表記の仕方から長谷川庄七が芹沢貞幹の三男だとする説もある。


 また、芹沢本家菩提寺の法眼寺過去帳に妻の名前が記された芹沢兵太がいる。兵太は外記の次男芹沢兵部成幹没後の慶応4年(1868年)時に芹沢家に所属していた人物であり、文化12年(1815年)から文政6年(1823年)の間に生まれた外記の三男とも言われている。


 戸賀崎熊太郎から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる。

  

 下村嗣次は安政5年(1858年)より始まる戊午の密勅返納阻止運動に参加し、万延元年(1860年)頃、玉造勢に入ったと考えられる。玉造村の文武館(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜で攘夷を決行するため、豪商を周り、資金集めに奔走した。新見錦の前名とする説もある新家粂太郎が仲間にいた。玉造勢は「無二無三日本魂」「進思尽忠」と大書した幟を掲げて調練を行っていた。嗣次は佐原村(現千葉県香取市佐原)で押し借りを行い、名主伊能権之丞を鉄扇で殴打した。


 しかし、常総間の水戸藩領や天領に於いて強引な手法を使って資金の取り立てを行ったことにより、代官の佐々木道太郎から幕府に上申が行われ、徳川慶篤は武田耕雲斎を江戸に呼び寄せて、在府の家臣と議論を行った結果、文久元年(1861年)2月9日、不法の者どもを召し捕らえ、場合によっては切り捨てても構わないという指令が下された。これを受けて、玉造勢の主要メンバーであった大津彦五郎らは玉造を退去して、宝幢院(現東茨城郡城里町)に移り、自訴を行うが、評定所に拘引され、後に細谷に新設された牢屋に移された。同時に下村、新家らにも捕縛令が下った。🤞


 同年3月28日、遊女いろ八(色橋)と芹沢外記邸にいたところを捕縛され、同日夜、赤沼獄に嗣次は入牢した。6月24日、水戸藩は激派よりの武田らの政務参与を辞めさせ、謹慎を命じ、厳罰派を家老に復帰させたことから、翌文久2年(1862年)9月16日に「引廻之上斬罪之所御大赦に付於牢屋斬罪梟首之事」との処分を受けたことが判明している。口述書を聞き取った一人に吉成勇太郎がいた。


 11月21日、武田らが執政に復帰し、厳罰派が退けられた後、12月26日には慶篤から戊午の密勅を受納する旨を藩中一等に伝え、政治犯の釈放が行われた。


 それでも甚だしい所業を省みて、なお水戸藩は下村らの釈放を躊躇していたが、翌文久3年(1863年)1月初旬には新家、同じく玉造勢の兜惣介らとともに嗣次は出獄することを許された。


 芹沢鴨と同一人物であれば、これ以後に名を改めたものと考えられる。近藤勇は「水府脱藩士下村嗣司事改芹沢鴨と申仁」と述べている。


 約1か月後の2月5日、清河八郎の言論活動や、松平忠敏の周旋により幕府が組織した浪士組に新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。その際に江戸の剣術道場試衛館の近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助らも加わり、京都まで行動をともにする。


 23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士・八木源之丞の屋敷に分宿した。その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、創設者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。このときに残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄や根岸友山らも合流する。


 3月10日、芹沢・近藤ら17人(24人ともいう)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この前後より「壬生浪士」と呼ばれ始めた。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。


 25日、会津藩士本多四郎・小野八助・望月新平・諏訪伝三郎・佐久間悌二は吉田源次郎の案内で壬生を訪れ、芹沢らと初めて面会を果たした。踊ると浪士たちは述べ、会津藩士たちを見物に招待し、桟敷の上で菓子や土瓶に入れた酒肴を振る舞った。浪士たちは会津藩からの手当金で同色の単衣物を紋付きに仕立てた服を着用していた。芹沢は本多らに対して京を出立した清河八郎宛の生国(庄内)からの手紙が来たことを告げ、留守中なので開封したところ、「如何の儀」などがあったため、清河が国元を出入り禁止になったことを知った、と述べた。


 4月、芹沢・近藤・新見らは大坂に下って今橋の平野屋五兵衛から百両を借用した。


 5月24日、中山忠能邸に参上した正親町公董の話の中で、「有志士」として、今泉与一太郎と共に言及される。「芹沢カモ」と表記されており、名前の読み方が確定された史料でもある。翌25日には、同志全員の筆頭として松平容保に攘夷実行の上書を提出した。


 6月3日、芹沢・近藤ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため再び大坂へ下った。途中、すれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。小野川部屋の年寄が詫びを入れてことは収まったが、大坂町奉行所与力・内山彦次郎がこれを問題にして近藤を怒らせ、のちに新選組により暗殺されている(内山を暗殺した者については異説もある)。


 同月、水口藩の公用方が壬生浪士は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八・井上源三郎らを水口藩邸に派遣し、担当者を脅迫して謝罪させ、詫び証文を取った。詫び証文は担当者の独断で書かれたものであったため、ことの露見を恐れた公用方は詫び証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得し、芹沢は詫び証文を返すこととなり、嶋原の角屋で宴会が開かれた。しかし酒乱の芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。


 8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛宅が壬生浪士に焼き討ちされた。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)は『新撰組始末記』でこの指揮者を芹沢だとしている。


『七年史』所収の鈴木丹下「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために近藤とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。通せ通さぬと双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため藩兵が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその鋒を悠々と煽いだという。会津藩の軍奉行が駆けつけてその場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。


 この出動を機に会津藩は壬生浪士に新選組の隊名を与えたとされるが、確定的な史料は存在しない。

 

 文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行っている。


 これらの所業に、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。


 同年13日、芹沢は土方、沖田らと水戸家の主君筋である徳川慶喜母方にあたる有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の交名と、「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」と記した書付を渡した。


 9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、宴席が終るとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。


 大雨が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけた。驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまづいて転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに斬りつけた。このとき芹沢は八木家の息子・勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鉾先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたという。


 平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も巻き添えで首を切られ殺された。別室にいた平間は逃亡し、吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。


『新選組遺聞』では、八木源之丞の妻・まさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、現場には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。永倉の『浪士文久報国記事』によると暗殺は土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文は実行者は土方・沖田・山南・原田としている。


 事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(18日暗殺説によれば20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている。

 芹沢の墓は京都市中京区の壬生寺にある。


「僕、新選組ファンなんですよ」

「昔、大河ドラマでやりましたよね?」 

「そうそう、三谷幸喜みたにこうきの作品ね」

「あのときは近藤勇が香取慎吾かとりしんご、芹沢鴨が佐藤浩市さとうこういちでしたよね?」

「僕的には近藤役は高橋克典たかはしかつのりがよかったな?」

「ああ、只野仁ただのひとしやってた人でしょ?」  

 立花の表情が険しくなる。

「話しは変わるけど、コペンハーゲンで人が殺されましたよね?」

 コペンハーゲンは、デンマークの首都。デンマーク最大の都市で、自治市の人口は52万人。市名はデンマーク語の"Kjøbmandehavn"(商人たちの港)に由来する。「北欧のパリ」と比喩される。

 コペンハーゲンはデンマーク東部のシェラン島東端に位置しコペンハーゲン湾に面する港湾都市である。湾はシェラン島とアマー島との間の水道の北端部でもありエーレスンド海峡に面している。海峡対岸はスウェーデンスコーネ県のマルメ市、ルンド市で、道路・鉄道橋/トンネルであるオーレスン・リンクによって繋がる。それらを含めた都市圏人口は190万人に達し、北ヨーロッパ最大級の都市圏である(エーレスンド地域)。


 4日の午前2時に沼津音々ぬまづねねって女性がコペンハーゲンのニューハウンにあるペンションで撲殺された。

 ニューハウンはコンゲンス・ニュートー広場の東、アマリエンボー宮殿の300mほど南にある。観光地として知られ、飲食店やアンティークショップなどのカラフルな建物が軒を連ねている。コペンハーゲンで最も活気のある町といわれている。

 ニューハウンとは「新港」という意味であり、国王クリスチャン5世によって建設された。1671年から掘削が開始され、1673年に完成した。埠頭となる水路があり、ヨットや観光船が行き来している。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが、ここを居所とし18年間住んでいたこともあった。

 音々は埼玉県幸手市にある小学校の教師だ。

 音々を殺したのは他ならぬ芹沢だ。

 芹沢は3年前の7月にマッチングアプリで音々と知り合ってつきあうようになった。

 2012年、群馬にいた頃だ。

 音々はおとなしい性格で、エッチに関してもあんまり向こうからは誘ってこない。

 デートではよくカラオケボックスに行った。

 彼女の十八番は松任谷由実まつとうやゆみの『リフレインが叫んでる』だ。

 英語が堪能で、大学時代にアメリカに留学していたことがある。

 音々は芹沢と加須市にあるアパートで暮らしていた。トランプやオセロをやったり、エッチをしたり映画を見たり楽しい日々を過ごしていた。

 芹沢が音々を殺した動機は結婚を断られたからだ。

 芹沢と彼女は1月1日、デンマークにやって来た。

 子どもたちには、アンデルセン童話でおなじみのハンス・クリスチャン・アンデルセンの母国としてなじみがある。また、コペンハーゲンには有名な遊園地チボリ公園ってのがあり、2人は最初の目的地としてそこに行った。

 1843年にゲオ・カールステンセンが、時の国王クリスチャン8世から約6ヘクタールの土地を借り受けてコペンハーゲンに誕生させたのが始まりである。土地を貸し出す際に国王は渋ったが、カールステンセンは「娯楽を提供する事で国民の関心が政治から離れる」と言って説得した。開園初日の入園者は3615人。その後、チボリ公園の魅力は国内外へと伝わり、1周年の日には1万6千人を突破した。創設以来2億7千人が訪れたというほどの、世界有数の観光スポットである。


『人魚姫』で有名なハンス・クリスチャン・アンデルセンはこのチボリ公園にしばしば足を運び、童話の構想を練ったと言われている。


 また、ウォルト・ディズニーはディズニーランドの構想を練る際にここを再三訪れ、様々な点で参考にしている。

 赤い壁のアンデルセン城は見事な建物だった。

 公園を出た芹沢たちはカールスバーグの工場を見学した。社名を冠したビールブランド、カールスバーグが主力製品。ロゴについている王冠のマークは、デンマーク王室御用達の証である。140か国以上に製品を輸出し、40か国に醸造所を持つ世界第4位のビールメーカーである。

 1847年 - デンマーク・コペンハーゲンでJ.C.ヤコブセン(1811年 - 1887年)によって創業された。息子カール(1842年 - 1914年)にちなんで醸造所に「カールの山」を意味するCarlsberg と命名した。

 その後は夕食をした。

 デンマーク「オリジナル」のファストフード販売、プルセヴォーン/プルセボーン がある。そこでは、デンマーク名物ソーセージなど、様々な種類のソーセージを食べることが出来る。ホットドッグに似たソーセージは細長く(約20センチメートルで人差し指ほどの太さ)で明るい赤色である。伝統的にパン(コッペパンに似ているが、ホットドッグのように切って挟まない)の具材として小さな四角い紙皿に、ケチャップ、アメリカのレリッシュ (Relish) と多少類似したレムラード・ソース、マスタードを添えて供される。ソーセージは手掴かみでソースを付けて食べる。パンにもソースを付けて、交互に食べる。


 ソーセージがコッペパンに挟んで供されると、「ホットドッグ」になる。この場合、通常ラムネード・ソース、ケチャップ、マスタード、タマネギ(生またはローストしたristede で)と薄切りピクルスを上に添えて供される。タマネギのristede は、揚げたオニオンリングの食感と似ている。他の種類に、ソーセージが長いロールパンの中に入っているフランス風ホットドッグがある。ロールパンには穴があり、好きな添え物(ケチャップ、マスタード、他の種類のドレッシング)で味付けしたソーセージを入れる。最も簡易なソーセージ屋台は運搬できる非常に一時的な作りであるが、ほとんどはより恒常的なものである。一般的には、通り側に開く窓とカウンターが付いた金属製のワゴンで、そこでソーセージを立ち食いすることができる。より高度なワゴンは作り付けで数個の椅子が外側と内側に組み込まれている。コンビニエンスストア、ガソリンスタンド、ケバブやピザ販売との競合に伴いソーセージワゴンの数は年々減少している。


 夕食を終えると宿に戻り眠った。芹沢はエッチをしようと誘ったが疲れてるからと断られた。 

 

 2日目はシェラン島北東部のヘルシンゲルに向かった。生憎の雨模様だった。

 ヘルシンゲルのHalsは首を意味し、この場合『狭い海峡』(ヘルシンゲルとスウェーデンのヘルシンボリの間にあるエーレスンド海峡のこと)となる。


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 クロンボー城は最大の観光名所である。『ハムレット』は城中庭で幾度も上演されている。


 スウェーデンの都市ヘルシングボリはエーレスンド海峡を挟んだ反対側にある。ヨーロピアン・ルートE55は2つの都市をつないでいる。フェリーも往復しており、休日には酒税の安いデンマークへ買出しにスウェーデン人が多く来ることで知られる。

 歴史書“Rerum Danicarum Historica”(1631年)によると、ヘルシンゲルの歴史は紀元前70年頃にさかのぼれるとあるが、この記録は疑わしい。ヘルシンゲルの名が人々に記されたのは、1231年にヴァルデマー2世の本に登場したのが初めてである(スウェーデンのヘルシングランド地方と混同していた節がある)。これら2つの地名は、ヘルシンゲルがヘルシンボリの砦であり、ヘルシンゲルにおいて陸を防御し海峡を行き来する船の航路を管理していたものと思われる。


 中世以前、ヘルシンゲルは人々が品物を売りに来る市場の場所であった。1200年頃、最初の教会スクト・オライ教会が建った。かつては教会を取り巻いた数軒の修道院があったが、今は教会の建物が残っている全てであり、現在はヘルシンゲル司教座の聖堂となっている。


 ヘルシンゲルは今日1420年代にエーリク7世によって創立された。彼は1429年に陸路・水路など交通で道路を使用するたびに税金を徴収すると定めた。彼はクローエン城を建て、城は1590年代に増築されクロンボー城と名を変えた。ヘルシンゲル聖堂の最も古い部分は1200年代まで遡ることができ、かつてのヘルシンゲルの重要性や漁民の村を私たちに教えてくれる。

  

 バルト海に面した海岸線にあり、わずか幅7kmのエーレスンド海峡(カテガット海峡の最奥)を挟んでスウェーデンのヘルシンボリと対峙する。ヘルシンゲルの地名に関する記録の初出は13世紀にさかのぼるが、この地にカルマル同盟の盟主となったデンマーク王エーリク7世がクロンボー城の前身にあたる砦(Krogen)を築いたのは1420年代である。北欧統一の間に疲弊した経済を立て直すための策の1つとして課したエーレスンド海峡通行税の徴収拠点とするためであった。


 1574年から1585年にかけて、フレゼリク2世の命により大規模な大改造が実施された。その目的は時代遅れとなった要塞機能の再強化と、加えて王宮としての機能追加であった。1585年に増改築が終了した砦は三階建てで四方を翼廊に囲まれ、外縁部に塔を備えた大規模なルネサンス様式の建造物へ変身していた。このころからクロンボーと呼ばれるようになる。


 1629年9月、失火によりクロンボー城の大半が焼失した。礼拝堂はアーチが頑丈であったために失われずにすんだ。クリスチャン4世は修復費用を出し渋る王国評議会を口説き、海峡通行税を増税してまで1631年に修復工事を実施した。6年にわたる工事では塔を高くするなど防御力強化が図られると同時に、城内も改修され、初期バロック様式が導入された。このときにユトレヒトから招かれたヘラルト・ファン・ホントホルストやサロモン・コニンクが新たに描いた天井画は今に残されている。


 1658年、クロンボーはスウェーデンのカール・グスタフ・ウランゲルに攻められて落城する。スウェーデン勢が城を放棄した後の17世紀末期には、さらに城の外郭を強化する工事が行われた。1760年から1763年にはフレデリク5世が使用するために北側の翼廊が改修されたが、以後クロンボー城に王が住まうことはなかった。1772年には、クーデターの発生で囚われの身となったデンマーク王クリスチャン7世の妃カロリーネ・マティルデが一時期クロンボーに幽閉された。


 1785年以降、1924年まで城はデンマーク軍の基地司令部として利用されていた。そのため、城内は創建当時の面影を残していない。

 1760年代に使われていた12ポンド砲が保管されており、王室の慶事ではデンマーク軍が礼砲射撃を行う。


 クロンボー城はシェークスピアのハムレットにも登場する。

 王が急死する。王の弟クローディアスは王妃と結婚し、後継者としてデンマーク王の座に就く。父王の死と母の早い再婚とで憂いに沈む王子ハムレットは、従臣から父の亡霊が夜な夜なエルシノアの城壁に現れるという話を聞き、自らも確かめる。父の亡霊に会ったハムレットは、実は父の死はクローディアスによる毒殺だったと告げられる。


 復讐を誓ったハムレットは狂気を装う。王と王妃はその変貌ぶりに憂慮するが、宰相ポローニアスは、その原因を娘オフィーリアへの実らぬ恋ゆえだと察する。父の命令で探りを入れるオフィーリアを、ハムレットは無下に扱う。やがて、王が父を暗殺したという確かな証拠を掴んだハムレットだが、母である王妃と会話しているところを隠れて盗み聞きしていたポローニアスを、王と誤って刺殺してしまう(「ねずみかな」という台詞があるが、本当にねずみと思っていたわけではない)。オフィーリアは度重なる悲しみのあまり狂い、やがて溺死する。ポローニアスの息子レアティーズは、父と妹の仇をとろうと怒りを募らす。ハムレットの存在に危険を感じた王はレアティーズと結託し、毒剣と毒入りの酒を用意して、ハムレットを剣術試合に招き、秘かに殺そうとする。しかし試合のさなか、王妃が毒入りとは知らずに酒を飲んで死に、ハムレットとレアティーズ両者とも試合中に毒剣で傷を負う。死にゆくレアティーズから真相を聞かされたハムレットは、王を殺して復讐を果たした後、事の顛末を語り伝えてくれるよう親友ホレイショーに言い残し、この世を去ってゆく。

 クロンボー城を出ると昼食にした。  

 デンマークはジャガイモ料理が有名だ。ジャガイモは、1720年のフレゼリシアへのユグノーのフランスからの移民により、最初にもたらされた。ジャガイモは温かい料理に欠かせない付け合わせと考えられている。サムセー島産などの、新ジャガイモが特に珍重される。

 芹沢はポテトグラタン、音々は焼きポテトのクレームフレーシュ添えを食べた。


 その後、シェラン島の西にあるフュン島にやって来た。

 中心都市は島の中央部にあるデンマーク第3の都市オーデンセで、童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの出身地として有名。少年期の14年を過ごした家も残っており、アンデルセンの家という名のついた博物館もある。

 フュン島は周辺の島を併せてフュン県を構成していたが、2007年の自治体再編により南デンマーク地に属する。


 フュン島と首都コペンハーゲンのあるシェラン島とは大ベルト海峡で隔てられている。1998年に完成した大ベルト橋は、海峡の中にあるスプロウエ島(デンマーク語版)を間に挟んだ西橋と東橋からなり、東橋は主スパン長1624mで、世界第2位の長さの吊橋である。


 フュン島とユトランド半島の間には小ベルト海峡があり、2本の橋で結ばれており、南のトーシンエ島との間にも橋がある。


 島の東部の小さな村ヘスルエーヤに約370立方メートル、1000トン余の大石が存在し、「姥石」(うばいし)と呼ばれている。その大石は周囲の土壌とまったく関係ない花崗岩である。氷河に押し流された捨て子石とか迷子石とか言われるものの一種であることは確かである。

 

 🏰

 フュン島南部にあるイーエスコウ城を見学した。  

 1554年にフラン・ブロッケンフス によって建設された。北海道登別市にある登別マリンパークニクスのニクス城のモデルになった城である。

 音々はデンマークの歴史について詳しかった。

 デンマークには有史以前から人が住んでいたとされている。氷期の到来によって人はこの地を追われるが、紀元前12000年頃から人が住み続けていると考えられている。農業は紀元前3000年頃始まったようだ。


 ノルマン人の一派のデーン人がゲルマン民族移動の時代に到来し住みついた。その後、彼らは8世紀から11世紀にかけてのヴァイキングの時代にヨーロッパ諸国を侵略、また貿易を行った。彼らはユトランド半島を基盤にして、シェラン島やスウェーデン南部に影響力を持っていた。11世紀初頭の30年間にはカヌート大王がデンマークとイングランドを支配した(北海帝国)。


 14世紀後半にはマルグレーテ1世の手により、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーを支配下にしたカルマル同盟を築き大国として存在した。


 1520年のストックホルムの血浴を契機に、1523年にスウェーデンがカルマル同盟を脱し独立、スウェーデンとの300年にわたる抗争が始まった。伯爵戦争(1534年〜1536年)でクリスチャン3世が勝利したことにより、宗教改革が行われデンマークはルーテル派の国となった。クリスチャン4世は1626年にドイツ三十年戦争に介入、敗退したことからデンマークの衰退が始まる。そして、トルステンソン戦争(1643年〜1645年)においてスウェーデンとの戦いで、完全にデンマークは小国へと転落した。17世紀初頭のスウェーデン・ロシア帝国間の大北方戦争においても、スウェーデンに敗れ、敗戦国扱いをされた。大北方戦争に敗れたスウェーデンと共に、デンマークも同様に北欧の没落を体験した。


 近代に至りナポレオン戦争においても、フランスと同盟を結んでいたため、敗北、1814年のキール条約によって、長年支配してきたノルウェーをスウェーデンに奪われた(ただノルウェー領であったアイスランドやグリーンランドなどはデンマーク領として残された)。417年間続いたカルマル同盟はここに解消を告げたのである。その後、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題からプロイセン王国との2度に渡るシュレースヴィヒ戦争になり南部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州などを失い、デンマークの経済は危機的状況に瀕した。植林などの産業振興によってこの危機を乗り越えた歴史は、日本では内村鑑三の『デンマルク国の話』で紹介され、広く親しまれた。苦難の時代ではあったが、デンマーク王室の王女たちがヨーロッパ諸国に嫁いだり、ギリシャ王国や独立時のノルウェー王国にデンマーク王家の分家が王として迎えられるなど、デンマーク王家は当時のヨーロッパ君主国の「ヨーロッパの義父」となった。


 第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦では1940年にナチス・ドイツによって突然宣戦された。国王クリスチャン10世は亡命せずに一日で降伏を選び、デンマークはドイツの占領下に置かれることになった。初期はモデル被占領国と呼ばれたが、国内では自治を許され、反ナチ運動家を保護したりした。その後、ドイツ軍への抵抗運動なども起こった。一方で駐米大使ヘンリク・カウフマンは連合国に接近し、グリーンランドを連合軍の便宜に任せた。またフェロー諸島とアイスランドも連合国によって占領され、うちアイスランドは1944年に独立している。カウフマンの活動もあって、デンマークは本国政府の活動にも関わらず連合国として扱われることになった。5月には駐デンマークのドイツ軍が降伏し、デンマークは解放された。


 戦後、北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、1973年にはヨーロッパ共同体にも加盟した。しかし後に対NATO関連でNATOと対立(デンマーク化)。とは言え、ノルディックバランスを守り抜き、冷戦期を乗り切った。国内経済、教育水準共に世界トップクラスの先進国の1つであり、EUの一員、国連の非常任理事国も担当している(2010年時点で4期8年)。


 自由党による中道右派政権が2001年より政権を掌握していたが、経済政策の低迷によって支持率は低下した。その結果、2011年の総選挙で社会民主党を中心とする野党の中道左派連合が僅差で勝利し、同年10月3日にヘレ・トーニング=シュミット内閣が発足。環境政策や教育改革に重点を置く一方、移民受け入れ制限の緩和など前政権の反移民・反イスラム政策の軌道修正を図っている。近年右派の伸張が際立つ北欧においては珍しいケースとなった。

 

 城を出て宿に戻るとケンカになった。

「親父やおふくろもいつまで生きているか分からない。そろそろ結婚しないか?」

 芹沢がそういうと、音々は鼻で笑った。

「結婚?冗談じゃない」

「嫌なのか?」

「30過ぎても派遣のアンタと私が結婚すると思う?」

 芹沢は裏切られた気分になった。

 彼女の誕生日は12月27日だ。彼女が欲しがっていたプラダの靴をプレゼントした。あんなに頑張ったのに。

「君は人の気持ちとか理解できないのか?」

 芹沢は音々の女友達から意外な事実を打ち明けられた。彼女が統合失調症という病を患っているというのだ。

 統合失調症は、現実とのつながりの喪失(精神病)、幻覚(通常は幻聴)、妄想(誤った強い思い込み)、異常な思考や行動、感情表現の減少、意欲の低下、精神機能(認知機能)の低下、日常生活(仕事、対人関係、身の回りの管理など)の問題を特徴とする精神障害だ。

「私が悪魔だとか言いたいわけ?」

「誰もそんなこと言ってないだろう?」

「本当は別に女とかいるんでしょう?」 

「いい加減にしないと怒るぞ!」

「既に怒ってるじゃない。とにかく、あなたとは結婚しないから」

 芹沢は心の奥底に黒い渦が渦巻くのを感じた。


 ケンカをしたこともあって3日目は別々に行動をすることにした。

 

 芹沢はボーンホルム島を訪れた。バルト海上にあるデンマーク領の島。スウェーデン南部スコーネ県とドイツ、ポーランドに挟まれている。人口5万人。行政面ではデンマーク首都地域のボーンホルム基礎自治体を成している。かつてはボーンホルム島と周辺の小島でボーンホルム県を成していた。「バルト海の宝石」と称される。

 ボーンホルム島は、東ゲルマン語群のブルグント族の故地であると言う伝承もあり、地名や考古学上の証拠による裏付けがある。300年頃、「ブルグント族の島」の意味する名前を持つボーンホルム島から突如人々の姿が消え、ほとんどの共同墓地が使われなくなり、少数のいくつかの墓だけが使われるようになった。


 1658年のロスキレ条約で、一時スウェーデン領となったが、1660年のコペンハーゲン条約で再びデンマーク領となっている(北方戦争)。 


 デンマーク本土には遠く、コペンハーゲンからのフェリーでは4時間かかる。このため、コペンハーゲンからは、フェリー連絡バスか鉄道でスウェーデン領土を経由してスコーネ県のイースタッドから高速船で行くのが普通である。また、ドイツ、ポーランド側からのフェリーもある。フェリーターミナル、空港のある中心都市レネから島内各地にバス便がある。


 ボーンホルム最大の町は島の西岸にあるレネで人口1万5000人。他に大きな町は、ネクセ、オーキアケビュ、スヴァネなど。主な見所は、ハンメルシュスの教会遺跡、島内に多く見られる円形教会、クリスチャン島の要塞など。


 産業は農業、特に畜産が盛んで、良質の乳製品を産する。ちなみに、デンマーク産のブルーチーズの半分はボーンホルム産である。また、工芸も盛ん。移住してアトリエやスタジオを構える工芸作家が増えている。


 バルト海西部の戦略的要衝であり、第二次世界大戦中はナチス・ドイツの占領下にあった。ソ連軍はドイツへの反攻の一環として1945年3月から島に激しい砲爆撃を浴びせ、5月に占領。ドイツ領でなかったにも関わらず、1946年4月まで撤退しなかった。現在、島には北大西洋条約機構(NATO)のレーダー基地が設置されている。 また、1980年にポーランドで独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化運動が進んだ際には、ポーランド国内でのテレビ放送の電波をこの島で傍受したものが西側のテレビ局に配信された。


 島の旗として、デンマーク国旗の白十字の中に緑十字が入っているものと、白十字の代わりに緑十字が入っているものの2種類あるが、いずれも公式には承認されていない。緑色は島の緑を表すとされる。

 

 夕方、ニューハウンにある道具屋でハンマーを買って宿屋に戻った。

 夕食中は互いに無言だった。

 夢の中に音々の顔をしたエンプーサが現れた。 

 エンプーサは、ギリシア神話に登場する怪物の一種。その名は「雌蟷螂」を意味する。冥界の女神ヘカテーにモルモーと共に仕えている。

 片方の足は青銅で出来ており、もう一方の足はロバの足で出来た女の姿をしているとされる。男を誘惑して交わった後に食い殺したり、眠っている男には悪夢を見せながら血を啜る。しかし悪口に弱く、罵る事が出来れば悲鳴をあげながら逃げるとされる。

 エンプーサは芹沢だけでなく、彼の父や母も食い殺した。

 夢から覚めると汗をじっとり掻いていた。 

 芹沢は正夢なるような気がして、うつ伏せでイビキをグーグー掻いてる音々の後頭部目掛けてハンマーを振り降ろした。

 ドス黒い血を迸らせて音々は即死した。 

 巨大ホテルではないので夜は外に出ることが出来ない。芹沢は音音の死体とともに夜が明けるのを待った。

 

 睡魔に襲われ辿り着いたのは暗い森の奥だ。そこにはスレイプニルがいた。

 スレイプニルは、北欧神話に登場する神獣の一つ。主神オーディンが騎乗する8本脚の軍馬である。

『古エッダ』の『グリームニルの言葉』第44節では「馬のうち最高のもの」と賞賛されている。


 雌馬に化けたロキとスヴァジルファリの子供で、オーディンに献上された後は彼の愛馬になる。8本の脚を持つ最も優れた馬であり、軍馬である。非常に速く走ることができ、空を飛ぶことができたという。ただし、近代以降の大衆文化の絵画的表現においては必ずしも8本脚で描かれるわけではなく、通常の馬と同じく4本脚であったりもする。例えば、デンマークの挿絵画家ローランス・フレーリクが描くスレイプニルはときとして見た目はただの馬である。


 ラグナロク(北欧神話の世界における終末の日のこと)が起きた際には、オーディンが跨る形で戦場を駆け抜けていたが、最後はグレイプニールの枷から解放された魔狼・フェンリルによって、オーディンと共に飲み込まれてしまったとされる。


 伝承では、オーディンが人間の英雄シグルズに与えている名馬グラニが、スレイプニルの子孫であるという。


 芹沢はスレイプニルに跨り暗い森を駆けた。

 彼がやって来たのはアースガルズという9つの世界のひとつ。アース神族の神々が住む世界で、巨人の鍛冶屋を騙して作らせた分厚く高い城壁で囲まれている。人間や巨人の住む地上世界とは虹の橋ビフレストで繋がっている。

 

 魔王は冥界でスマホを覗いていた。画面にアースガルズに佇む芹沢が映し出された。彼に魔法をかけたのは魔王だ。芹沢が音音を殺した1月4日の午前2時から、翌5日の午前2時まで芹沢は異界に行くことが出来る。芹沢はそのことに気づいていない。

 

 芹沢は虹の橋ビフレストを眺めた。ビフレストはラグナロクのときに、その前後を炎が包むスルトを先頭にしたムスペルの子達が馬で渡ることで、燃え尽きるとされている。 普段は門番のヘイムダルが橋の袂で番をしている。


 虹の色は外側が赤く見えるが、これは巨人たちの侵攻を防ぐために火が燃えているからだとされている。


 ギリシア神話にも虹の橋が登場する。虹の女神イリスは、神々の使いとして虹の橋を渡って天地を行き来する。しかし彼女はヘイムダルのような有力な神ではない。


 アースガルズの中心にはイザヴェルと呼ばれる平原があった。アース神族は重要な問題や会議があるとそこに集うという。

 男性の神々が集まる館をグラズヘイム、そして、女性の神々が集まる館をヴィーンゴールヴと呼ぶ。

 ヴィーンゴルヴにはウルズ、ヴェルザンディ、スクルドって女神がおり、彼女はユグドラシルの根元の海から現れたという。ウルズは妹のヴェルザンディと共に、木片にルーン文字を刻み、運命を決定する。一般に、過去を司る女神と解釈される。  

 👸長女ウルズ、👩次女ヴェルザンディ、👧三女スクルド。

 芹沢は銀色の玉を1つ手にしていた。音音の魂はアースガルズに来ると光り輝く玉に姿を変えた。

 スクルドに玉を渡すと玉に魔法をかけた。

 玉は不老不死の薬へと姿を変えた。

「これをヴィーザルに渡してね?」

 

 橋の袂で美男子と遭遇した。彼の名前はヴィーザル。

 父はオーディン、母は巨人族のグリーズで彼女に与えられた強い靴を履いている。 トールと同等の力を持つとされ、アース神族から非常に頼りにされているといわれているが、ヴィージと呼ばれる森で半ば隠遁生活を送っている。


『古エッダ』の『ロキの口論』においては、エーギルの広間で開かれた宴の席にロキが乱入してきた際、父に命じられるままに席を立ち、彼に黙々と酒をついでいる。間もなくロキが神々と口論を始めたが、ヴィーザルだけがロキから詰られなかった。


 ラグナロクにおいてはオーディンを飲み込むフェンリルを倒す活躍を見せるが諸説がある。『古エッダ』の『ヴァフスルーズニルの言葉』第53節や『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』51章では「強い靴で下顎を踏みつけ、上顎をつかんで引き裂いた」とされている。また『古エッダ』の『巫女の予言』では「剣を心臓に突き刺した」とされている。


 彼の「強い靴」は、人々が自分の靴を作る際、千切り取った爪先とかかとの部分の皮をつなぎ合わせて作った物で鉄のように固く、そのおかげでフェンリルの顎を踏みつけることができたという。


 オーディンとリンドの子ヴァーリとともにラグナロクを生き残り、新しい世界を見守る神の1柱となる。


 なお『スノッリのエッダ』の『詩語法』ではヴィザールを表すケニングとして、「無口のアース」、「鉄靴の所有者」、「フェンリル狼の敵で殺し手」などを紹介している。


 彼は芹沢に透明な液体が入った小瓶を渡した。

「どんなものでも透明に出来る聖水だ」

 ヴィーザルと別れ、洞窟にやって来るとアンドヴァラナウトを手に入れた。

 ビフレストを渡り、元の世界に戻ってきた。

 ニューハウンのペンションにやって来た。🚪部屋のドアを開けた。

 ベッドには音音の死体が転がっている。頭に聖水を降り注いだ。死体は忽然と姿を消した。

 これで全てうまくいく。

 下の階から銃声が聞こえた。芹沢が泊まっているのは2階の206だ。

 バスルームから出て、服を着て恐る恐る階段を降りた。ロビーには3つの遺体が転がっていた。3人とも射殺されていた。

 襲撃者の姿はなかった。  

 その後の警察の調べで、犠牲者はノーマン・ハミルトン、ヒース・フィリップス、ヘイデン・ホールというアメリカ人であることが判明。彼らはニューヨークの『カメレオン』って出版社に所属するジャーナリストだ。

 彼らは各国の犯罪事情について調べていた。

 デンマークは日本に比べると犯罪発生率が高い。

 また、コペンハーゲン首都圏を中心にギャング団の抗争と見られる発砲事件や爆発事件が相次いで発生していて、特にコペンハーゲン市内のノアブロ(Nørrebro)地区、アマー(Amager)地区、フーサム(Husum)地区、フレデリクスベア(Frederiksberg)市の一部を中心に各所で夜間に発砲事件や爆発事件が頻発している。

 一般犯罪においてはコペンハーゲン市内の繁華街や観光地に外国人犯罪者が流入しており、年間を通じて空港や駅、飲食店、観光地等で旅行者が盗難の被害に遭うケースが頻発している。更に同市内のクリスチャニア地域や市内のクラブ、街頭等で大麻等の密売が行われている場所も存在し、同地域では警察による取り締りに対して武装した売人が銃を発砲した事例も報告されている。


 

 


 

 

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