第29話 深淵の底に眠る者

「ほら言わんこっちゃない。だから関わるなって言ったのよ」


 フィリスが呆れ切った視線をアオイに送る。

 すでにシロハとアイーダの問題について把握している様子だった。流石は貴族、情報には敏感だ。


 腕立て伏せをするアオイの上に乗りながら、心からのため息をつく。


「あの女はどんな情報からでも弱みを握ろうとする。目をつけられた時点でそれを察するべきだったのよ」

「……」

「まぁ、なってしまったことはしょうがないわ。あなたの問題なのだから、あなた自身で対処しなさい」

「わかって……ますっ……」

「……本当かしらね」


 露骨呆れられたのを痛感しつつ、アオイは黙々と体を動かす。


 ただ、自分は強くならなければならない。アオイはそうする以外に方法がないのだ。

 頑張れば、なんとかなる。今までもそうしてきた。


 そう自分に言い聞かせて、目標のために努力する。


「……あんた、明確な勝ち筋はあるの?」


 と、アオイではないどこかを見ながら、フィリスが独り言のようにつぶやく。


 その質問に、アオイは即答した。


「そんなのっ……やってみなければっ……分かりませんよっ……」

「バカねあんた。……いつまでも『何とかなる』って思ってるんじゃ、アイーダには勝てないわ」

「っ……!」

「断言してあげる。賭ける可能性なんてない、はなから土俵にさえ立ってないんだから」


 フィリスの言う『土俵』、それは覚形のことを指しているとアオイは解釈する。

 確かにフィリスの言う通り、アオイはアイーダ戦に向けて覚形を発現させようだなんて微塵も思ってていない。あまりにも時間が足りなさすぎるから。


 故に、アオイは自力で勝利をもぎ取ろうと奮闘している。

 覚形なんて自身の未知にすがるのではなく、今ある全てで勝利する。それがアオイが描く展望だ。


 ────しかし、フィリスはそんなアオイの思考を見透かした。


「あなた、竜機を舐めすぎよ」

「ッ!?」


 いつになく冷徹な口調にアオイの背筋が凍る。

 まるで先月の竜機試合で嫌というほど注がれたような、殺気立った視線だ。


 ぽたりぽたりと頬から落ちる汗をアオイは眺めるしかない。


「あんたがどれだけ優れた竜機手であろうと、まず経験が違う。あなたが潜り抜けた死線を、私たちは幾度となく超えてきている。その歴然とした差を、あんたはご自慢の『努力』だけで毎回乗り切れると? ……甘いわ」


 ピタリとアオイの体が止まった。

 極度の疲労がアオイの体を襲う。まるで、心の奥底にあった闇を暴かれたかのような錯覚を覚えた。


「今後、初見殺しが通用するのは私までだと思いなさい。私との試合で手の内をさらけ出したあんたが活路を見出すには、常に相手を出し抜かなければならない。相手の推定を超える力をもってね」


「努力でできる範囲なんて、推定から逸脱しないわ。特に、あんたに対するアイーダの推定範囲じゃなおさら」とフィリスは話を締めくくった。


 ***


 彼女は退屈していた。


「……つまらん」


 蓄積された記憶を反芻し、ため息をつく。

 アイツはよく逃げる。ネズミのように、よく避ける。

 なによりも、自分自身を誰よりも信じていない。それが何よりも腹ただしい。


 自分がどのような存在かも知らずに。


「小僧、お前は甘い」


 閉鎖的で、何もない空間で、彼女はその時をひたすら待つ。

 ラジオはもちろん、チェスや本もない。ただただ「暇」と「怠惰」で埋め尽くされた空間だ。


 待つことにはもう慣れた。考えることをやめる術も、彼女にとっては児戯に等しい。

 

 しかし、彼女はそれでも考えなければならなかった────正確には、見極めなければならなかった。


 女は青銀の髪を指に巻き、尊大に思考を回す。


「時が近いのは分かっている……だが、まだだ。あの実力ごときで」


 ────我のプライドが許さない。誇り高き我が血肉が、精神が、生き様が、あらゆる妥協を許さぬ。

 そんな強い意志が、彼女の中にあった。


 ……かつて、「磁戒竜????」と呼ばれた女の誇りが。


「期待はせぬ。切望もせぬ。貴様が我が力に見合わなければ、我は物言わぬ骸になって時と共に朽ちよう」


 彼女は今宵も静寂に待ち、瞳の奥に映る青年の動向を見守る。

 運命さだめが来るその日まで。

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