第25話 公爵令嬢と千切りキャベツ前編

 それは、何気なくバイトに行く日の事だった。


 アオイは石畳の道を軽快なステップで駆けていく。平民街よりも一層丁寧に舗装された道であり、走りやすい道だ。


 一応、筋トレの意味も込めてアオイは走ってバイトに向かうようにしていた。訓練の一環と考えれば普通に料理店へ向かうよりも有意義に思える。


 気持ちの良い汗をかき、人や馬車の合間を縫いながら仕事場へ向かっていると


「あら、奇遇ですわね。アオイさん」


 名前を呼ばれ、アオイはふと立ち止まる。


 なんとはなしに振り返ったその先にいた人物は


「なにやらお急ぎのようですね。どうなされたのですか?」


 つば付きの帽子をかぶり、淡い紫色のワンピースを着たアイーダがアオイに笑顔を向ける。


 なぜいるのだろうか、とアオイは不思議に思った。

 ここはアルヴェルトの中でも比較的庶民的な店が並ぶ地区のはずだ。公爵令嬢であるアイーダがわざわざ来るような場所ではないはずである。


「アイーダ様、どうしてここに?」

「恥ずかしながら、散歩をしていましたら道に迷ってしまいまして。誰かにお声掛けをして道を案内してもらおうかと思っていたところ、丁度アオイさんがこちらに来るのが遠くから見えましたので、思い切って声をかけてみたという次第です」

「へ、へぇ……」


 とりあえず、アオイはあいまいな相槌を打つ。

 それなら、手ぶらでこんなところにいるのは納得できる。散歩途中ならそんなものだろう。


「ですから、お話しでもしながら学園に案内していただけるとありがたいのですが」


 アイーダが肩をすくめながら言う。


 それに対しアオイは困った顔をして側の店の中にある時計の針を見た。

 丁度ピークである昼前にさしかかろうとしている。今からアイーダを案内したらアルバイトに間に合わない。店の人たちに迷惑がかかる。


 そう結論づけたアオイは申し訳なさそうに頭を下げた。


「あの……その、すみません。今から急遽用事がありまして……」

「あら、それはなんの用事ですの?」

「えーっと、バイトで……」

「ばいと? 無知でお恥ずかしい限りなのですが、それはどういうものなのですか?」


 アンタも知らないんかい、とアオイは心の中にツッコミをいれる。どうやら貴族というものは働いてお金を稼ぐという文化は浸透していないらしい。


「簡単に言えばお店で働かせてもらって、それに応じた賃金を貰うことですよ」

「まぁ、働きながら学業を頑張っていらっしゃると? 素晴らしいですわ!」

「働きながらと言うか誰にでもできる簡単な仕事ですけどね。俺は学生の身なので非正規雇用で働かせてもらっているんですよ」

「へぇ……それは面白そうな話ですわね」


 アイーダの目が好奇心で輝く。

 しかし、それは子供のような無邪気さに満ちたものではなく、何を考えているかわからないような目論見を孕んだものだった。


 アイーダは少し考えるそぶりを見せたあと、首をかしげるアオイに向かって口を開く。


「アオイさん、そのアオイさんの仕事場というところにわたくしを案内してはくださらないでしょうか?」

「……え?」

「アオイさんの話を聞いて『ばいと』というものに興味を持ちましたの。ぜひアオイさんの仕事ぶりを拝見させていただきたく思いますわ」

「え、えぇ……」


 突拍子もない急なお願いにアオイは困惑する。

 はっきり言って、自分の仕事場はアイーダのような超ド級のお偉い様が来るような店ではない。店の人はもちろん、そこで食事をとっている他の学生まで驚かせてしまう。


 ここは丁重にお断りしよう。そう決めてアイーダに進言しようと────


「案内してくれますよねぇ?」

「は、はい。……あれ?」


 アオイの意思とは裏腹に、アオイの口は承諾の言葉をアイーダに言ってしまっていた。

 まるで誘導されたかのような、自分の心を操作されたかのような感覚を覚える。


 アイーダがニンマリと笑みを浮かべ喜ぶ。


「まぁ、嬉しいですわ。アオイさんに案内してもらえるなんて」

「あ、ああ……」

「断られたら私、どうしようかと思いましたわ」


 その瞬間、アイーダの顔が格納庫で話した時と同じようにかげった。


 ……ああ、そうか。

 アオイはその言葉でなぜ自身が承諾の意思を見せてしまったかを理解した。

 自分は無意識にアイーダの闇を恐れてしまっていたのだ。

 それをアイーダが意識してしているのか、それとも無意識なのかはアオイには分からないが、アイーダの顔がかげった時に自分はアイーダの思う通りのアオイになってしまう。


「ささ、早く案内してくださいまし」

「は、はい。分かりました」


 アオイはフィリスから言われた、「とりあえずアイーダからは距離を置きなさい」の真意を理解した気がした。

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