夢と目覚め

 いつのことだったか? もう随分と昔のことだろうね。どの町だったかも定かではないけれど、とても印象深い出来事があったんだ。そのとき、私は、床屋さんの軒先に住まわせてもらっていた――


 ある日の夕暮れ、その日最後の予約客を見送った店主が後片づけをしているところに、一人の紳士が訪ねてきた。初めて見る顔で、旅行鞄を下げていることから、恐らく観光客だろう――そういえば、旧跡の有名な町だったかもしれない――閉店と言って断ってもよかったのだろうが、帽子を脱いだ彼の頭はポマードで撫でつけられており、顔も口髭は綺麗に整っていたので、この客に頼まれる内容ならばさほど時間はかからないと判断したらしく、店主は入店を許可した。

「突然訪ねて、非常に失礼な注文とは百も承知です。しかし、どうか引き受けていただけないでしょうか?」

 紳士は、いきなり深々と頭を下げた。これは後にわかったことだが、この店に来るまでに、相当な数の店で断られたらしい。中には、馬鹿にしているのか、と怒り出す人もいたとか。そのため、恐らく疲労もピークであったのだろう、肝心な依頼内容を伝えていないことに、彼は気づいていなかった。冷静な店主がそれを指摘する。

「落ち着いてください。私は一体何を頼まれるのでしょうか?」

「こっ、これは申し訳ない。実は……」

「どうぞ、こちらへ」

 店主は、あえて話を遮って、待合いの長椅子を勧めた。そして、少し待つように言って一旦奥に姿を消し、水の入ったガラスのコップを手に戻ると、紳士に差し出した。それを両手で受け取った紳士は、お礼を述べて、溺れるように、水を流し込んだ。ようやく息をついたとき、コップにはまだ半分以上水が残っていたが、彼がそれ以上口を付けないとわかると、店主はコップを下げに再び奥に姿を消した。その間、残された紳士は、深呼吸をして、平静を取り戻そうとしているようだった。二三度それを繰り返した後、脇に置いた旅行鞄からワインボトルほどの大きさの風呂敷包みを取り出したところに、店主が戻ってきた、今度は部屋の隅にあった丸椅子を運びながら。そして、彼と向かい合う位置に置いて腰掛けると、話を戻す用意が整った。

「一体どうされたのですか? 見てのとおり、私はただの理容師です。お客さんの髪や髭を整えることしかできませんよ」

「えぇ……そっ、その『客』というのは、ヒトでなければいけませんか?」

 紳士は、風呂敷包みを店主に手渡そうとした。しかし、中身に全く想像がつかないためであろう、店主は受け取るのをためらった。紳士は、慌てて結び目をほどくと、店主の目の前に両手で突き出した。布が滑り落ちて現れたのは、小さな女の子だった。

「人形、ですか?」

「はい。実は、この子の髪を切っていただきたいのです」

 女の子の髪は、辛うじて櫛の入った跡は見えるが、サイドが左右非対称の長さになっており、お世辞にも整っているとは言えなかった。

「……」

 店主は、じっとその子を見つめた。その間、紳士は、いっぱいに伸ばした両手の間に、まるで水面に顔をつけるかのように頭を埋めていた。

「よろしいですか?」

 両手の中の重みが急に軽くなったことに、あるいは女の子を手に取ってくれたことに驚いた紳士は、はっと顔を上げた。風呂敷ごと手にした店主は、様々な角度で彼女を眺めた。その真剣な様子に安堵したらしく、紳士は初めて背もたれに身を預けた。


 子供というのは、時に残酷なものです。物と生き物の区別がついていないときもあれば、その違いを妙に理解しているときもある。だから、ためらわずに、人形の髪を切るなんてことができたのでしょう。理由は何ということはない、単に、男の子役の人形が欲しかったから、というだけです。髪を切られた人形は、その日一日、いや、その一時は、確かにその役を全うし、主役のような扱いだった。しかし、それでも、着せかえのズボンを持っていなかったので、ドロワーズがその代わりをしていた。想像がつくでしょう。翌日からはもう、その人形は遊んでもらえません。部屋の隅で、横たえられたまま時を過ごす。瞼を閉じることが許されない代わりに、涙も出ないガラスの瞳は、曇ることでやがて視界を閉ざしてくれる――


「その子は、それをただただ待っているようでした」

「今着ているお洋服は、元々着ていたものですか?」

「はい、そう聞いています」

「では、このお洋服に合うようにカットしましょう」

「引き受けていただけるのですか?」

「はい。ですが、私もこれほど小さなお客さんの髪を切るのは初めてなので、少し時間がかかるかもしれません。お待ちいただけますか?」

「もちろん! ありがとうございます、ありがとうございます」


 紳士が店を出るころには、月も街灯も明るさを増していた。私は、恥ずかしながら、待ちくたびれて寝てしまっていたのを、ドアの開閉で起こされたのだった。

 足取り軽く帰路を行く紳士の右手には、来たときと同じく旅行鞄が握られていた。しかし、街灯に照らされてできた彼の影は、どうも様子が違った。その右手は、妙齢の婦人の手と繋がっていたのだ。ショートヘアの婦人などどこにもないのに、石畳の上の影にははっきり存在する。紳士が立ちどまって旅行鞄に目をやると、影の方では二人が見つめ合う。また歩き出す――

 そうして、彼らは時折、現在いまこの瞬間の幸せを確かめ合いながら、夜に消えてきましたとさ。めでたしめでたし。

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