第35話・さよなら

「この声は?」


 小声で問うレクス王に、ストレーガは「フィーリア王女のものです」と答える。


「わたくしは気に入った方にしか薬は作りませんの。ジレフール様が気に入ったから、薬を作っただけ。感謝は受け取りますが、報酬はいりません。お話はそれだけで」


 ピシッと「これ以上の会話は望みません」と言外に告げている。


 しかしレクス王は諦めない。


「フィーリア王女、ジレフールが治るまで、今少しこの地に滞在をお願いできないだろうか。無論、その間の滞在費は……」


「しつっこいねエ!」


 ヴィエーディアの怒鳴り声がレクス王の言葉を遮った。


「断られてなお付きまとうなんて、恥知らずっていうんだヨ! 仮にも一国の国王ならそれっくらい知ってるだろうに!」


「なっ」


「きっ……貴様!」


 ストレーガが声を張り上げる。


 そして、ヴィエーディアの横に、もう一つの幻影が現れた。


 ベッド? いや、ベッドの上に半身を起こしたジレフール王女だ。


 なんと、とストレーガが小声でつぶやく。


 ベッドの上で自分の体を動かすことすら難しかったジレフールが半身を起こしている。


 レクス王が見たこともない姿。


 フィーリア王女の魔法薬、そこまでのものとは。話には聞いていたが、目の前でこうも効果を見せられたら、なおさら欲しくなる。


「おお、ジレフール……愛しきわが娘」


「ウソツキ」


 ジレフール王女が呟いた。


「? ジレフール?」


「わたしが邪魔だからってここに放っておいたのに。わたしが熱を出しても寝込んでもお手紙一つ送ってくれたことはないのに。フィーリア姫様が来た途端、来るんだね」


「ち、違うぞジレフール、私は国王としてやらなければならないことが……」


「ウソだよ。父さまはわたしよりフィーリア様が欲しいんでしょ。ここに来たのも、フィーリア様を手に入れるためだよね」


「ジレフール!」


「父さまは、もう信じない。信じられない。もう、ここにもいたくないから、これ、返すね」


 ジレフール王女は胸から王鷲のブローチを抜き取って、ヴィエーディアに渡した。


「と、いうわけで、こいつはお返ししますヨ」


 幻影のヴィエーディアの手にあった王鷲のブローチは、幻影から消え……レクス王の目の前に落ちてきた。


「ジレフール! 王鷲を捨てるというのか!」


「持ってるだけの無駄遣い」


 ジレフールが呟いた。その目から涙がポロリと落ちる。


「父さまにそう言ってる臣下の声も、全部、わたしは聞こえてたよ」


 ざわざわ、と同行した大臣や騎士が青ざめた。


「だから、捨てられる前に捨てる。わたしは王鷲を捨てる。わたしがいなくても、エルアミル兄さまがいなくても、別にこの国も民も困らないもん」


「……だとサ。というわけで、我々はここから去らせてもらうヨ。レグニムともブールとも縁を切って、どこかで楽しく暮らすことに決めたから」


「な、な」


 レクス王がしばらく「な」を繰り返し、そして、唐突に、凶悪な顔を見せた。


「できるものか。国境は既に固めた。お前たちはここから移動することもできない。ましてやベッドに入ったままのジレフールを置いていけるわけが……」


「あるんですヨ、これがネ」


 フィーリア王女、エルアミル王子の幻影も現れた。


「わたくしは商人に薬を売る気はありませんので、失敬」


「僕もジレフールが幸せに暮らせない国など捨てます。二度と顔も見たくはありません。さようなら、父上」


「ウソつく父さまなんか知らない」


「と、言うわけで」


 幻影の……おそらく屋敷の中にいる本人の動きと連動しているヴィエーディアが、杖を振り上げた。


「おさらばだヨ、レクス王! あたしらに国境線はないんでネ!」


 ふっと、幻影が掻き消えて。


 ずずず、と地面が動くような音がした。……いや、動いている。揺れている?


 ごご、と鈍い音がして、レクス王、ストレーガ、臣下たちはとんでもない光景を見た。


 屋敷が。


 邪魔だが一応王族なのでそれなりの設備を整えジレフール王女を放置しておいた屋敷が、その周囲の地面ごと、浮いている。……飛んでいる?


 女の高笑いが、太陽が中天に差し掛かろうとしている空に響いた。


『空までは追ってこられないでしょうなァ! 魔法の絨毯も高さは飛べない、しかしこのお屋敷は山すら越えられる! 「レグニムの変人」ヴィエーディア、一世一代の最高傑作! 空飛ぶ屋敷! 末代までの語り草にするといい!」


 レクス王が、ストレーガが、呆然ぼうぜんと見上げる。


 自分は今何を見ているのだ。


 屋敷が、空を飛んでいる?


 確かにあの屋敷は王族用に魔法力の導路を取り付けてあったが、大した設備ではない。体が弱く、王家に偶然生まれただけで今まで生き延びられたような娘に、そんな大したものはやれないと。


 それが、空を?


「魔法猫!」


 ストレーガが声を張り上げた。


「何?」


「フィーリア王女は出奔するとき、身代わりに魔法猫を置いて行った! その魔法猫は王女の真似をやめて飛んで行った! 南へ向かったというのは……」


『そうフェイク。御猫様はあたしらの望みを叶えてくれた。……そうそう、あたしらはもう国と関係がないから、レグニムとブールの間柄は好きにしておくれ。戦になろうが知ったこっちゃないがネ!』


 次の瞬間、空に浮いた屋敷が姿を消した。


 ヴィエーディアの高笑いの反響だけが、いつまでも残っていて、レクス王は触れる直前に逃した宝の大きさに、歯を食いしばった。

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