アルプス共和国陸軍省 第三十六支部 第三庁舎

「こんばんは」


 アキが声を掛けたのはとある場所の守衛の詰所だった。新聞を読んでいた初老のドワーフの男性が慣れたようにアキに挨拶する。


「こんばんは、アキちゃん。今日は早いねえ」


「うん。部活今日は休みだから」


「へぇそうかい」


気軽に話しながら男性はアキにカードを渡す。


「許可証いつもありがとう。後で何かもってくるね」


手を振ってアキは施設の中へ入って行った。

 施設の入り口には"アルプス国陸軍省 第三六支部 第三庁舎"と書かれていた。

 中に入り、下駄箱で靴を脱いで来客用のスリッパに履き替えるとアキは長い廊下を歩き出した。時間は夕方であり、夕日がアキ以外に誰もいない廊下に差し込む。少々眩しさを感じながらアキは進んでいった。


「みんな、訓練かなぁ…」


 "食堂"と書かれた看板の矢印が指す方へ行くと、大きく開けた空間に出た。誰も座っていない並べられたテーブルたちの奥にはカウンターと厨房があり、マサノリとエルフの男性がいた。


「あら、アキちゃん。こんばんは」


紫色の髪をしたエルフの男性は気がつくとマサノリに声を掛ける。


「こんばんは、イェルクさん。半日ぶり、マサノリ」


「半日ぶり。今日、早くないか?まだ準備中だよ」


「部活無かったの。いいわ、待つ。何か手伝う事ある?」


 アキは制服の上着を脱いでイスの一つにバックと一緒に置いて置く。


「朝のでっかいのどうしたの?」


「学校に置いてきた。明日も使うからエゴンがまだ残って調整していると思う」


「中、"ガチェッド"だったのか…アイツまた変なのに改造とかやり出しそうだなぁ」


「大丈夫よ。イソラも側にいるもの。彼女がいれば何も問題とか起きないわ。イェルクさん、エプロン借りるね」


アキはエプロンを受け取るとイェルクは濡れた布巾を渡す。


「とりあえず、これから夕食だからテーブルを拭いて頂戴。全部ね」


「うげ。それは予想外だった…」


アキの後ろには奥まで数十の長テーブルが並んでいる。


「マイスターの資格が無い人には厨房は預けられないのよ。ごめんなさい」


「いいよ、いいよ。本当ならあたしは部外者だもの。入れて貰っているだけ感謝、感謝」


「ありがとう、アキちゃん。本当いい子だわ」


時間は夕方、山々に囲まれたこの街はあっという間に暗くなっていく。

午後七時になると、それを報せる音楽が施設内を流れる。夕飯の時間だ。

先程までがらんとしていた食堂は瞬く間に軍服を着た人々で溢れていく。ここのルールは基本ビュッフェ式であり、追加の注文はカウンターへ直接行う。

マサノリはカウンターで追加注文のサラダとパンを提供していた。軍施設の食堂ではあるが、比較的カジュアルな雰囲気であり、活気があって提供する側としては忙しかった。


「こんばんは」


不意に声を掛けられた。向くと、トレーを持った赤い髪のエルフの女性がいた。

美しい。とマサノリは思った。


「あ、こんばんは。ご注文は?えっと…」


「ユフォでいいよ。ユフォ ソフィア。ここの上の階で部隊を率いている」


マサノリはユフォの左胸の階級章を見た。


「た、大佐でありましたか。失礼しました」


思わず姿勢を正してしまった。ユフォは急に態度を変えられたので驚いた様子だったが、

すぐにクスッと笑った。


「君は、ここに来てどれくらい?」


「はっ、一年くらいになります」


「なら、私はここへ来て二日だ。ここでは君の方が先輩だ。気軽に話しても構わないよ」


「は、はあ…」


マサノリは呆気に取られていた。


「コーンスープ」


「?」


「注文」


「あっ、失礼致しました。少々お待ちください」


マサノリは慌てふためきながらも慣れた手つきで作業していく。ユフォはそれを眺めながら話し掛けてくる。


「君は何故ここに?君の歳だとまだ高校生だろう?」


「家が食堂で、高校には行かないで調理師のマイスターの取得目指して、勉強の一環でここを紹介されて来たんです」


「へぇ、星はもう取ったのかな?」


「えぇ、一つだけですけど」


「なら、軍には入らないのかな」


「さぁ、わかりませんけど、はいどうぞ、コーンスープです」


「ありがとう。これから、宜しくマサノリ君」


「こちらこそ」


ユフォは自分の席へ戻っていった。白く可愛らしい顔立ちに似合わず、凛とした眼とキリッとした声の印象がマサノリの頭にいつまでも残っていた。


「ところであの人、なんで俺の名前知っていたんだろう?」


忙しさが過ぎて、食堂には雑談をしている人や余った仕事を持って来て片付けている人など数人程度しか居なくなっていた。マサノリやイェルクは片付けをある程度済ませると、厨房の奥でアキと共に紅茶を嗜んで休憩していた。


「マサノリ、今日は早く帰れそう?」


休憩スペースでレポートを片付けながらアキはスコーンを口に入れて紅茶で流し込む。


「んーどうだろう。今日は洗い物がまだまだあるしなぁ」


「あら、いいわよ。あとは私がやっておくわ」


「それは申し訳ないですよ。イェルクさん」


「いいの。アキちゃんに手伝って貰ったお礼よ。少しは私を立てなさいマサノリ君」


と言われて、マサノリとアキは帰路についた。

道はすっかり暗くなっていた。


「ちょっと待って」


マサノリはランタンに火を灯すと、小さな石を火の中にピンセットを使って入れる。

すると、アキとマサノリの周り全体が包むように明るくなった。


「"火蜥蜴石"。火の精霊を活性化させるには便利よね」


「よく知ってるなあ」


「この間、習った」


 ランタンをマサノリが持つとアキはマサノリに寄り添うように歩く。

シャンプーの香りがアキの耳からしてきてマサノリは少しドキっとした。


「あたし、軍には入らない事にしたよ」


マサノリよりも少し背の低いアキは唐突に話し出した。


「あたし、家を出るわ」


マサノリは目で横を見るが、茶色のふさふさした耳が少し垂れていると思った。


「出て、どうするの?」


少し沈黙があった。マサノリが首を捻っていると。アキは走ってマサノリの前に出て笑った。


「アンタには教えな〜い」


「何だよそれ」


「だって誰かに言ったら、そこでおしまいな気がするもの。だからお父さんにだって内緒よ」


 アキはそのまま走ってマサノリを置いて家に急いだ。


「待って灯りもなく!」


 慌ててマサノリも走る。

坂道の先の家はすぐそこで、灯りがついていた。先にアキが中へ入るのが見るとマサノリは走るのをやめてゆっくりと家へ向かった。


 トビラを開けると目の前にアキが倒れていた。 


「アキ!」


駆け寄ると苦しそうにアキは胸を押さえている。


「どうしたんだ、一体…」


「安心しろ、少し眠ってもらうだけだ」


唐突に声がした。


「トウジロウたちにも眠って貰っている」


マサノリにはその声をよく知っていた。


「何しに来たんだ、アンタ。こんな事して」


声色に怒りを含ませながらマサノリが振り向くと男が立っていた。


「久しぶりだな」


「父さん…」


 杖を携えた男は感情無く、淡々としていた。かけていた丸眼鏡が光を反射して瞳を見せず、余計に感情が読めない。だが、その声には確かにマサノリに対する感情がこもっていた。


「タカだ。今お前に父親呼ばわりされる事は無い」


男は静かに店のカウンター席に座る。


「座れ」


 マサノリはタカの言葉を無視してアキに自分の上着を掛けた後、タカからは少し間を空けてカウンター席の前に立った。


「アンタ一体何なんだ。さっさと帰って貰えるかな。トウジロウさんたちに酷い事して」


「躾がなって無いな。水も出さんとは」


タカは不敵に笑って見せた。


「安心しろ。二人は部屋のベッドの中だ…おい、来なさい」


突然、タカは厨房の奥に声をやった。


「ちゃんと寝かしたのだな」


「はい」


 女の子が一人奥から出てきた。白く透き通った肌に灰色の髪、小柄なエルフに見える少女の背中には大きな翼が生えているのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る