第12話
妻が紙に打ってくれたメッセージを指先で読む。
「56歳の誕生日おめでとう」
もう声の出し方を忘れてしまった僕は、うんうんと頷き口角を上げて笑ったような顔をした。蝋燭の香りがする。甘い香りも。ケーキを用意してくれたのだな……。妻の優しさに感謝しつつ、僕は思い返した。
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視覚と聴覚を失ってからもう、20年以上も経つ。この間も紆余曲折あった。
点字を教室で覚え、障害者枠の仕事を探し、30箇所以上断られ、妻と一緒に落胆していたところ、点字教室で知り合った友人が教えてくれた。
「私の知り合いは調香師をしているよ」
僕はそれに賭け、妻に検索してもらった。すると、僕と同じように視覚と聴覚を持たない仲間が同じような仕事をしていた。
妻と一緒なら、この仕事ができるかもしれない──。翌週からたくさんの香料を買い集め、妻に教えてもらいながら香りを覚えていった。僕は視覚と聴覚がない分、嗅覚は鋭敏になったようで、なんとか基本的な調香まで理解した。そして、僕たちは夫婦で調香の依頼を受けるようになった。
初めはもちろんとても苦労した。妻が依頼者の希望を聴き取り、点字で打ってくれて、僕がそれを読み、調香の指示を妻に出す。妻が混ぜた香料を僕が確認し、もう数滴、あれを足して、これを足して、と調節していく。依頼者が満足して帰ってくれることもあったが、もちろん、その長い作業行程に苛立って途中で帰ってしまうこともあった。
それから20年、夫婦二人三脚で仕事をしてきたのだが、常連のお客さんは口コミで100人以上に増え、お陰様でとても忙しく過ごしている。だいぶ複雑な依頼にも対応できるようになった僕は、仕事にも誇りを持っていられるようになった。
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──妻には本当に苦労をかけたな。
突然夫が視覚と聴覚を失うなんて、死にたくなってもおかしくない──。ここで僕は20数年前、屋上から心中をしようとしたことを思い出した。いやいや、あんなの、悪い夢だったのだ。絶望に引っ張られて勢いで死んでしまうなんて、小説のバッドエンドみたいじゃないか。
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