第 5 話 楠木正成の祖先

☆ 楠木氏の出自を考えてみる ☆


 楠木正成は尊卑分脈(1300年代後半)によると祖先は橘為政。一方、系図纂要(1800年代)によると橘遠保を祖先とする。前者は橘諸兄を介して敏達天皇に繋がる皇別橘氏。後者は伊予国司の橘清正から橘姓を賜った伊予豪族の矢野実遠を介して熊野国造に繋がり伊予橘氏と呼ばれる。('22/02/23)


 伊予橘氏の橘遠保だが皇別橘氏に繋げる説もある。承平天慶の乱で藤原純友を捕らえたことで一躍有名となる。伊予橘氏か皇別橘氏かは置いといて、武門の源平藤橘の一角に橘氏を据えたのは遠保の功績。('22/02/23)


 同じく承平天慶の乱で平将門の討伐に功があったのが藤原秀郷、平貞盛、源経基。まさに彼らの子孫が武門 源平藤橘として武士の主流になる。

 なお、経基はチョロチョロしてた感が否めないが、彼の子孫が幕府を作って武士の世を作るのだから、世の中わからないもの。('22/02/23)


 最近注目なのが駿河説(得宗被官説)。駿河国の北条得宗領の楠木村を楠木氏の出自とする。源平時代、駿河国では橘遠茂が目代(国守の代理)を務めていた。通字が「遠」なので橘遠保の一族と思うが、建武の新政で正成と一緒に雑訴決断所に出仕していたのが橘正遠。「遠」は楠木一族にとって特別な字か。('22/02/23改)


 駿河説では、弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達氏が滅び、その所領であった河内の観心寺荘が北条得宗家に召し上げられ、その代官として河内に入ったのが北条御内人(直参)の楠木氏だという。すると、河内に来たのは正成の祖父や父の代ということになる。('22/02/23)


 ただ、この説も問題はある。北条得宗家の代官としてやってきた楠木氏が、十年にも満たないうちに、東大寺荘に押し入り悪党的活動を働く武士団になっている。そして正成の代には、東城川流域の各地のあざを苗字に持つ血族を多く擁する大族として知られるようになっている。楠木氏がやって来てたかが十~三十年で。('22/02/23)


 楠木氏が他国から河内にやって来たのを後押しするのは、南河内に楠木のあざが無いということ。しかし、一昨年、楠木の本拠近く、聖徳太子廟の近くに楠木という小字こあざがあったことが確認された。この小字こあざから楠木氏となったのか?楠木氏から小字こあざの名が付けられたのか?('22/02/23)


 大字ならともかく、小字こあざを苗字にするだろうかという疑問もある。しかし、小字こあざの楠木には石切場があった。楠木という石切場を仕切る一族ということで、楠木氏と呼ばれるようになったとしても不思議ではない。そもそも楠木氏は辰砂を採掘するなど鉱山業者の一面を持っている。('22/02/23)


 始祖の橘三千代は河内国古市の出で楠木石切場から遠くない。橘一族が古市から楠木石切場にかけて支配権を持っていて、没落後も一族が土着していたとすれば。もう一度原点に戻って、楠木正成が自称する敏達天皇の五世王、橘諸兄の後胤というのも否定せず考える必要があるかな?!('22/02/23)

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