第18話

 先帝の時代に好き放題に出された詔は、四公の利権を守るものばかりで民衆をひつぱくさせていた。中でも玄武と白虎の地は汚職と腐敗にまみれていると翠明の耳に入っている。

 黎司がその実態を深く知るようになれば、きっと見過ごすことができないだろう。

「父上のように生きることができれば、幸せだったのかもしれぬな」

 黎司はため息をつきながらつぶやいた。

 病弱で気の弱い父は、玄武公の言う通りに生きる道を選んだ。玄武公が右だと言えば右に進み、左だと言えば左に進む。黎司は愚鈍で欲深いうつけ者だと聞けばそれを信じ、翔司はそうめいで慈悲深いと聞けばそれを信じた。結果、父は黎司を常に冷遇してきた。

ちまたの噂では、私は気分屋で気に入らぬと宮女を次々斬り捨てる凶悪な男らしいぞ」

「玄武公が広めた噂でございましょう。確かに毒見のによかんは大勢死にましたが」

 その毒を盛ったのは、証拠こそないものの玄武公に違いない。

 先読みではないが異能を持つ翠明がいなければ、とっくに暗殺されていたことだろう。

 翠明のように、麒麟の血筋を引く神官の中には不思議な力を持つ者がいる。

 翠明の場合は病気や怪我をいやす力があり、万能ではないが式神を操ることもできた。

「玄武が医術を司るように、青龍が武術を、白虎が商術を、朱雀が芸術を司る。その四公をまとめる麒麟は、天術を司らねば意味がない。天に見捨てられた皇帝など、四公のかいらいになるしかない。言いなりになる傀儡でないなら、切り捨てられるのみだ」

 黎司は半分投げやりになりながら呟いた。

「天は陛下を見捨ててなどおりません。私が思いますに、食の偏りが先読みの力を弱めているのではないかと。正しい食事をすれば本来お持ちの力が整うのではございませんか?」

 翠明には黎司の本来の力はこんなものではないという根拠のない自信があった。

「そなたは土を食ろうたことはあるか?」

「は? 土でございますか?」

 突然妙なことを尋ねられて、翠明は首を傾げた。

「私にとって食事とは土を食らうようなものなのだ。口内は異物を詰め込んだように不快で、のどみ込むことを拒絶し、吞み込んだ先から吐き気が襲ってくる。食べたくとも体中が拒否するのだ」

 疑いようもなく拒食の症状だった。

「五年前、董胡が作ってくれた食事だけが、私にとっては食べ物であった。不思議に喉ごしが良く、苦も無く食べることができた」

 五年前、黎司の暗殺がどうにもうまくいかない玄武公は、業を煮やしついに食が細く虚弱な皇太子を玄武の離宮で静養させてはどうかと帝に伺いを立てた。玄武公を信じ切っている父帝は、それは良いと黎司に玄武行きを命じた。もはや殺されに行くようなものだった。

 ここまでであったかとあきらめかけた黎司だったが、まんまと殺されに行くことをどうしても受け入れられなかった。そして離宮への道中で、決死の逃亡をはかったのだ。

 あの時、命からがら逃げながら一筋の光が見えたような気がした。うつろになる意識の中でその光を目指し、そこに董胡がいた。董胡に出会って、黎司の運命は変わったのだ。なにもかもどうでもいいと思っていた黎司は、なにがあっても生き抜くと決めた。

 ただのまんじゆう作りが得意な平民の少年というだけではない。董胡は黎司に生きる意味をくれた。董胡が作る饅頭も恋しいが、それ以上に董胡という存在に意味があった。

 誰もが伍尭國の民のために生きよと迫る中、董胡だけは自分のために生きてくれと言った。皇太子という肩書きだけが一人歩きをして、個としての黎司はずっとなおざりにされてきた。あるかないかも分からない麒麟の力を求められ、それがなければこの命に生きる意味はないかのように感じていた。

 だが董胡は最初から個としての黎司だけを見て、必要としてくれた。

 やくぜん師を目指す少年の夢をかなえる。そのささやかな約束が、個人としての黎司が生きる唯一の意味だったのだ。

 そうしてこの五年、まさに土をむような覚悟で命をつないできた。

 だが、それもそろそろ限界にきているのだと翠明は感じていた。

「陛下、やはり董胡を呼び寄せましょう。実は先日、麒麟寮の密偵から知らせが参りました」

 翠明はこの五年、ひそかに董胡のそばに密偵を置き、様子を探らせていた。

 表立って動くことは黎司から禁じられていたが、いつでも召し出せるようにしていた。

「非常に優秀な学生で、すでに医師試験を受けたようでございます。その者が言うにはたぶん合格するだろうと。正式な医師資格を持つのであれば、王宮に召し出すことも道理の通ったものとなるでしょう」

「董胡が医師に?」

 黎司は驚くと共に考え込むようにうつむいた。

「何をお迷いでございますか。平民の董胡をいきなり陛下の専属薬膳師にするのは無理がございますが、しかるべき貴族の養子に取り立てて身分を付けさせるという方法もございます。皇帝の直轄である麒麟寮の医師なら、玄武公に伺いをたてる必要もありません。まずは王宮にお召しになればよいのです」

「それではだめなのだ。私は董胡と、平民であっても平等に夢を叶えられる世を作ると約束したのだ。貴族の養子にしたのでは、ただの権力の乱用でしかない」

「無茶です。そんなことを言っていてはいつまでたっても董胡を薬膳師に迎えることなどできません。その約束はもういいではありませんか」

 翠明は焦っていた。このままでは黎司の拒食は取り返しのつかないところまで進行してしまう。一刻も早く董胡の料理を黎司に食べさせたかった。

「董胡は約束通り医師の免状を手にしたというのに、私は五年経ってもないままだ。権力の渦に吞まれ、何も出来ぬままに食事すらまともに出来ない私を見て、董胡はさぞがっかりすることだろう」

 玄武公の言いなりの父が皇帝である限り、結局何も変えることは出来なかった。

 黎司が即位して、これからようやく改革を始めようというところだ。

 父帝は翔司を可愛がり、黎司に良い思い出など何一つ残してはくれなかったが、最後に一つだけ良い行いをした。玄武公が死の際にある皇帝になんとか『天術の使えぬ皇太子を廃し翔司を皇太子にする』という詔を出させようと画策していたが、間に合わぬままに急逝したことだ。思いのほか父帝の寿命が短かったことは、玄武公の最大の誤算だったに違いない。

 黎司の反撃は、ようやく権力を持ったこれからなのだ。今はまだ歴代最弱の皇帝だ。

「なぜだろう。私は董胡にだけは情けない自分を見せたくないのだ。新たな世を作る、立派な皇帝である自分を見せたかったのだ」

「一介の医学生である董胡になにゆえ虚勢を張るのでございますか」

 翠明は苦笑した。

「国中の民にうつけの皇帝とわらわれても平気だが、董胡にだけは惨めな私を見せたくない。最高の自分で再会したかったのだ」

 黎司は、あの時初めて誰かの役に立ちたいと思った。

 誰かを幸せにできる自分。そこに生きる希望を見つけたのだ。

 だが、今の黎司では董胡を幸せにするどころか、危険にさらすだけのような気がする。

 こんな自分のままで会いたくなかった。全然本意ではない。

「では今しばらくは陛下の存在は隠したまま王宮の医官として召し出してはいかがでしょうか? 董胡も王宮内の人脈を作った方が今後仕事をしやすいでしょう」

「うむ。そうだな。それはいいかもしれない」

「そして頃合いを見て、私が董胡の前に現れ『レイシ様』に饅頭を作るように頼んでみましょう」

「レイシ様か。董胡は覚えてくれているだろうか」

「もちろんでございます。麒麟寮でも薬膳に力を入れて勉強していたと聞いております」

 董胡の饅頭を思い出すと力が湧いてきた。

「ならば、玄武公のはかりごとに腐っている場合ではないな」

 玄武公が一刻も早く黎司を皇帝の座から引きずり下ろしたいのは分かっている。黎司が翠明と離れ、おそらく最も油断するであろう一のきさきぐうで何かをたくらんでいるはずだ。

 黎司も翠明も、玄武の一の后を最も警戒していた。


 その一の后が董胡その人であり、すでに王宮にいることなど、二人はもちろんこの時気付いてもいなかった。

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