第9話

 董胡は土間に下りて、酸味のある饅頭を作った。

(酢で漬けた梅を餡に混ぜてみよう。食欲増進にも効果があるはずだ)

 急いで蒸して、再びレイシに差し出した。

「どうぞお召し上がり下さい。食べやすいはずです」

 レイシは小ぶりに作った饅頭を、一口でぱくりと頰張った。

「…………」上品な口元がもぐもぐとみしめている。

「どうですか?」

 董胡は期待を込めてレイシの反応を見つめた。

「酸っぱいな。悪いが美味しいとは思わぬ」

 董胡はがっくりと肩を落とした。

「だが不思議にのどごしがいい。いつも無理して飲み込んでいたが、この饅頭は苦も無く飲み込める。こんなことは久しぶりかもしれぬ」

「!」

 董胡は、ぱあっと明るい顔になった。

 そうだ。体が欲する味だから喉ごしはいいはずだ。酸味を欲するのは毒がまだ体内に残っているから。毒が抜ければ、本来の味の好みが出てくるはずだ。

「毒が抜けるまで酸味の強い饅頭を出しますが、毒さえ抜けたらきっと美味しいと言わせてみせます。もうしばらく我慢して下さい」

「何度も言うがおそらく美味しいとは言わない。甘いものも辛いものも好きではない」

「いいえ。必ず美味しいと言わせてみせます。だから、約束して下さい。もしまんじゆうを美味しいと思ったら、もう二度と死んでもいいなんて思わないで下さい。ちゃんと、あるべき場所で生きて下さい」

 決意を込めて言う董胡に、レイシは目を見開き、ほんの少し微笑んだ。

「いいだろう。そなたが美味しいと私に言わせたならば、自分のあるべき場所に戻り、もう一度もがいてみることにしよう。何があろうとあきらめず、命ある限り生き抜いてみよう。約束する」


 その日から、レイシのための饅頭作りが始まった。

 普通の料理人なら、いろんな味を試してみるだろう。だが、董胡はレイシの周りに見える色に従った。青が出ている限りは、酸味のある饅頭を出す。

 だが余程長く毒にさらされてきたのか、どれほど肝の臓にいい薬湯を飲ませても、一向に青しか示してはくれない。肝の臓が長年の酷使で弱り切っていた。

 だが数日が過ぎるうちに体力自体は戻り、庭を散歩できるまでになった。


「見て下さい、レイシ様。これはといいます。赤い葉と青い葉をつける種類があるんです。どちらも香りがよくていろんな料理に使えます。赤い方は乾燥させるとようという生薬にもなるんですよ」

 昼間は人目につくので、月明かりの下での散歩が日課になっていた。

 小さな庭には董胡が育てる薬草畑と洗い場と、薬草を干す台だけがある。

「そなたは薬草の話をする時が一番楽しそうだな」

 レイシは少しあきれたように苦笑した。まだ料理を美味しいとは言ってくれないが、打ち解けた様子を見せてくれるようになっていた。

「私はやくぜん師になりたいのです。美味しくて体に良い料理を作る伍尭國一の薬膳師に」

「薬膳師か……。平民で大成した者はいないのではないか? どうせなら医師や薬師になった方が仕事は多くあると思うが……」

 レイシはいろんな事をよく知っていた。

 レイシの意見を聞いてみたくて、董胡は楊庵にも打ち明けたことのない話もした。

「ですが斗宿の麒麟寮は薬膳師の養成に力を入れていると聞きました」

「……。みかどの病に薬膳が大事だからだろう。だが今から育てて間に合うのか……」

 レイシの表情が月明かりの下で少しかげった。

「皇帝陛下はお体が悪いのですか? まさかお命が危ないのですか?」

 斗宿の田舎村では、皇帝の噂をすることさえおそれ多く、董胡は何も知らない。

「どうであろうか……。私に未来が読めたならな……」

「え?」

「いや、なんでもない。帝のお側には、薬膳専門の者が数人いるようだ。だが、みな亀氏の息のかかった大家の者たちばかりだ。そなたのような身分の者が入り込める場所ではない。かと言って庶民が薬膳師を必要とするかと言えば、病の予防に金を積んで雇うような金持ちなどおるまい。結局一握りの薬膳師が世襲で継ぐ職だ。悪いことは言わぬ。平民ならば医師か薬師を目指すがいい」

「…………」

 レイシの言うことはもっともだ。卜殷にも以前に言われたことがあった。

 医師や薬師ならば庶民にも需要があるが、薬膳師は貴人相手の職なのだと。

「なぜ平民は薬膳師になれないのでしょう? どれほど努力しても、どれほど薬効が高く美味おいしい薬膳料理を作れても、平民だからなれないのはどうしてですか?」

「それは……」

 レイシは董胡に問われ、困ったように口ごもった。

「生まれの身分が違うだけで、夢を持つことすら許されないのですか? 平民とは貴族の方から見ると、それほどつまらぬ人間なのですか?」

「…………」

 レイシは目を見開き、しばし考え込んだ。そして静かに口を開いた。

「いや……何も違わぬ。むしろ欲におぼれた貴族よりも、ずっと人として尊いと私は思う」

「それなのに私は薬膳師になれないのですか?」

「そうだ。なれない。そういう世なのだ」

 少し投げやりに答えるレイシを見て、董胡は悔しさに唇をかみしめ涙を浮かべた。

「そういう世は変えられないのでございますか?」

「変える?」

 レイシは驚いたように董胡を見つめた。

「はい。平民でも薬膳師になれる世に変えるのでございます。努力をすれば、身分を問わず男でも女でも誰もが夢をかなえられる世に変えるのでございます」

「無茶を言うな。長く決められていた制度がそうそう簡単に変えられる訳がないだろう。余程力のある権力者が死力を尽くしても難しい」

「難しいということは、可能性はあるのですよね? レイシ様なら出来るのではありませんか?」

 董胡は子供の無邪気さで尋ねていた。

「私が? なぜそう思うのだ?」

「だってとても偉そうですもの。高貴なお生まれの方なのでしょう? 違いますか?」

 レイシはいよいよ絶句していた。

「だからレイシ様が変えて下さいませ」

 しばし言葉を失っていたレイシは、なにかに思い至ったように笑い出した。

「は……はは。なるほど。私が変えれば良いのか。確かに……ははは……」

「そうです。そしてレイシ様が私を雇って下さいませ」

「簡単に言う。それがどれほど大変なことか分かっているのか?」

「そんなに大変なのですか? レイシ様は良家の方でございましょう? 薬膳師も雇えますよね? 医師の免状を取ってもだめですか? 今からたくさん勉強して、必ずお役に立てる薬膳師になってみせます。だからどうかお願いします」

 董胡は自分が女であることも忘れ、夢中で懇願していた。

 レイシは考え込むように月を見上げた。満月には少し欠けるじゆうさんだ。

「……そうだな。私なら出来るのか……。誰もが夢を叶えられる世か。そんな世を私も作ってみたいと思う。いや、私こそがやらねばならぬのかもしれぬ」

 レイシは月に誓いを立てるようにつぶやいた。

「レイシ様……」

 力強く月を見つめるレイシは、天に選ばれし使つかいのように見えた。

「ならば生き延びねばならぬな」

 董胡を見下ろし神々しく微笑むレイシに、董胡の鼓動は大きく跳ねた。

 そして思いつきで言ったはずの言葉が、自分の運命なのだと確信した。

 この方のために立派な薬膳師になる。だから。

「はい。私のために生きて下さい」

 予想外の言葉だったのか、レイシは驚いて董胡を見た。

「そなたのために?」

「はい。大事な雇い先がなくなっては困ります」

「はは。確かに」

 レイシは再び声をたてて笑い、言葉を継いだ。

「誰かのために生きるなどと考えたことがなかったな」

「え?」

「みなが私のために生き、私のために死んでいった。自分のために生きてくれなどと言われたのは初めてだ」

 主人にそんなことを言うずうずうしい従者などいないのだろう。

「だが……誰かにそう言って欲しかったのかもしれないな」

 助けられ、守られるばかりの人生ではなく、誰かを助けられる人生。

 それはひどく甘美で温かいもののようにレイシには思えた。

「分かった。私がきっと世を変えて、そなたを必ず呼び寄せよう。だが、まずは美味しい饅頭を作ってもらわねばな」

「はいっ! 任せて下さい!」

 董胡の目にはすでに希望が見えていた。

 何かを吹っ切ったようなレイシの体から、かすかな色が放たれるのが見えたのだ。



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