第10話

 董胡が黒水晶の宮に来て五日が過ぎていた。


「まああ! 鼓濤様! 何をなさっておいでですかっ?」

 声を張り上げたのは茶民だった。声が大きくしゃきしゃきしていて、断定的な物言いをする。色黒でやせていて、董胡の二つ下の十五歳ということだった。

 共に過ごすうちに侍女達の個性がはっきり見えてくるようになった。

「髪が邪魔で落ち着かないんだよ。の中なら誰にも見られないしいいでしょ?」

 董胡は慣れた手つきで長い髪を角髪みずらにして両耳のあたりで束ねていた。重ねたうちきも脱いで、ひとえはかまだけの軽装姿だ。下着姿と言ってもいい。

 侍女二人から敬語を使わないでくれと言われ、緊張していた董胡もすっかり普段の口調と素が出るようになっていた。

 玄武公の大きなお屋敷には大勢の使用人がいるが、姫君の御簾の中まで入ってくるのは侍女ぐらいだ。外の人々には見られることもない。

「い、いいわけがございません! 間もなくみかどに嫁がれようってお方が、しつけながら、なんという破廉恥なお姿と言葉遣いでございますか!」

「公の場ではちゃんとするよ。どうせ仰せの通りにとしか答えられないんだしさ」

 結局、玄武公に逆らうことなど許されないのだ。何を言ったとしても踏みつけられるだけだ。董胡が下手を打てば、家族のように暮らした楊庵が危険にさらされる。そして董胡をだましたという卜殷先生だって、本人の口から真相を聞くまでは信じていたい。

 二人を守る。

 それが董胡のかろうじて出した結論だった。そして何より……。

「私が帝の一のきさきになれば、玄武公より身分が高くなるんだよね?」

「え、ええ。そのように聞いております。一の后様に命令できるのは、帝ただお一人でございます。おやかた様も嫁がれた後は鼓濤様に敬語でお話しになることでしょう」

 次の皇帝はうつけ者と聞いたが、どんな男であろうと一の后になっている間は董胡にもそれなりの権力というものが備わる。その間に楊庵と卜殷を玄武公の権力の及ばぬどこかに逃がす。どこにどうやって逃がせばいいかなんて分からないが、それはおいおい考えることにする。そして二人を逃がした後で、出来ることなら董胡も王宮から逃げ出せないかと画策していた。

 うまくいけば斗宿を離れ、五年前に会ったレイシ様を探して薬膳師として雇ってもらう。それが現状の董胡の最高の筋書きだった。可能性は皆無に近いが……。

「鼓濤様。ちゆうぼうでおやつを頂いて参りました。今日は蒸しまんじゆうでございます……」

 御簾の中に饅頭をのせた手盆を持って現れたのは、もう一人の侍女の壇々だ。

 色白でふっくらしていて笑うと目が線になる。まだ十三歳らしく、まったりした口調で語尾をにごすような話し方に幼さがにじみ出ている。

 二人ともそれなりの貴族の姫君ではあるが、ここでは中流貴族の部類らしい。

「また厨房に行ってたのね、壇々! 鼓濤様のお側にいてと言ったでしょう!」

 董胡がくだけた物言いだからか、二人の侍女も素が出てくるようになってきた。

「でも、おやつの時間になったから……」

「おやつと鼓濤様と、どっちが大事なのよ!」

「それは……」

 迷いなくおやつと答えそうだった。

 壇々は侍女の中でも一番の食いしん坊らしい。

「まったく! どうしてあなたが帝に嫁がれる鼓濤様の侍女になれたのかしら?」

「そういう茶民だって……お金にがめつい嫌われ者って言われているわ……」

「なんですって? 誰が嫌われ者よ!」

 茶民は地位の割に貧乏な貴族らしく、小金を貯めるのが趣味だった。自分が食べなかった侍女用の茶菓子などを御用聞きの従者に売って小銭を貯め込んでいるらしい。ついでに食べ残った菓子まで持っていくため、多少のめ事を起こしていたようだ。

「もう、ちょっとけんしないでよ。ほら、せっかくだから饅頭をいただこうよ」

 どうやら黒水晶の宮の侍女の中でも問題児の二人をつけられたらしい。

 だが董胡にとっては、貴族然としたすました女性よりも気楽で良かった。

「私もいただいていいのですか?」

 食べ物の話になると、壇々は人懐っこい子犬のようになる。その様子が饅頭を前にした時の忠犬のような楊庵と重なって可笑おかしくなった。

「いいよ。どうせこんなに食べられないもの。一緒に食べてくれた方が助かる」

「二個食べてもいいのですか?」

 壇々は信じられないという顔で聞き返した。

「二個でも三個でも食べていいよ。私は一個で充分だ」

「華蘭さまのお部屋では、毒見の一つ以外は侍女たちが食べることはなかったので」

「じゃあ残った饅頭はどうするの?」

「捨てるそうでございます。もったいなくて涙がでます……」

 言いながらも壇々は毒見の饅頭を食べきり二個目に手を伸ばした。

 董胡の特殊な目には、壇々の周りに放たれている黄色の光が見える。黄色は甘味好きだ。

 美味おいしい美味しいと頰張る壇々だが、董胡が食べてみると塩味が強くて練りが足りない。肉の扱いが悪くてぱさぱさしている。

「壇々はもっと甘い方が好きでしょ? 私ならもっと美味しい饅頭が作れるのにな」

 つい斗宿にいた頃のように、好みに合わせた饅頭を作りたくなってしまう。

「え? 鼓濤様は饅頭が作れるのですか?」

 壇々は目を輝かせた。だがすぐに茶民が横やりを入れた。

「ご冗談はおやめ下さい! 炊事など貴族の姫君がすることではありません。まして鼓濤様は帝の后として嫁がれるお方でございますよ。他の者に聞かれたら軽んじられます」

 言いながら茶民は懐紙を出して饅頭を三個包んでいる。

「茶民は食べないの?」

 茶民は白っぽい光が強い。異様に強い。変人と呼ばれるほど辛味が好きなはずだ。

「茶民ったら、また部屋方の従者に売りつけるつもりでしょう」

 壇々が言うと、茶民は悪ぶれもせずにもう一個つかんだ。

「壇々が食べ過ぎて、これ以上太らないように持っていってあげるのよ!」

「あ、返してよ! まだ三個しか食べてないんだから……」

「三個食べたら充分でしょ!」

 二人が顔を合わせるといつもこんな感じだ。だが、それも仕方がない。

 貴族装束で大人びているように見えても、まだ子供のような年齢だ。

 そして平民育ちの董胡はめられているのだろう。

 前にいた華蘭の部屋では、言葉を発することもできず、もっと身分の高い侍女たちにずいぶんいじめられていたらしい。壇々はもっぱら毒見専門の侍女で、華蘭の御簾の中にも入ったことはないらしい。茶民は使い走りばかりだったそうだ。

「それにしても鼓濤様の侍女は私たち二人だけなのかしら?」

「華蘭様にはじよがしらをはじめ、十人以上の侍女がいるのにね……」

 立后式の手順や行儀作法、その他もろもろの貴族の振る舞いを教えにくる侍女はいるが、直接董胡の世話をする侍女は、今のところこの二人だけだった。

「私は二人で充分だけど、華蘭様は十人も侍女をつけているの?」

 そんなに侍女がいては、いざ逃げ出そうとしても隙を見つけられない。

「華蘭様には恐ろしい侍女三人衆がついているのです。少しでも失敗をすればねちねちとののしられ、気に食わないと無理難題を押し付けられて、できないとひどい罰を受けます」

「私は腐った饅頭を食べさせられて、吐いてしまったら三日間食事を食べさせてもらえませんでした。空腹で死んでしまうかと思いました。思い出すだけで、ああ恐ろしい」

 壇々は恐ろしさを思い出したように身震いした。

「私の場合は広縁を歩いていたら、わざとぶつかってきて庭まで転げ落ちたことがあります。それを見て華蘭様も一緒に笑っていました。本当に意地悪な人達!」

 茶民は口をとがらせた。

 華蘭の取り巻きの侍女三人衆を中心に、陰湿ないじめが横行しているご難場らしい。

「それに比べてここは天国ですわ! 鼓濤様は気さくで意地悪もしないですし」

「おやつも分けてくださいますし……」

 少し気を緩めすぎだとも思うが、董胡としてはいずれ逃げる時のために二人は味方につけておきたい。

「でもこのままずっと二人だけなのかな?」

 玄武公は、いくらうつけの帝といっても、こんな適当な三人を玄武の一の后宮に送り込むつもりだろうか。さすがに玄武の名が落ちるだろうと董胡は首を傾げた。

「あらあら、騒々しいこと。部屋の外まで声が聞こえてましてよ」

 の外から急に声がして、董胡たち三人はぎょっとした。

 部屋方の従者たちがふすまを開き、晴れやかな着物を着た女性たちが次々に入ってきた。

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