第7話

 三日が過ぎた。

 少しずつ重湯の量が増えて、病人はなんとか起き上がれるようになっていた。

 だが董胡の目に色は見えてこない。

 食べてはいるが、無理やり喉の奥に流し込んでいるようだ。

 食べたいという気持ちが出てくる気配はなかった。

(最後の冬虫夏茸だ。あんなに貯め込んでいたのにな……)

 薬草籠の中は空になった。口の悪さの割に、病人は思いのほか重体だった。

 無理やり食べさせなかったら、あの日死んでいたかもしれない。

(冬虫夏茸はまた次の梅雨のあとに探せばいいか)

 董胡の唯一の財産だったが、医家として一人の命を救えたなら惜しくはない。

「さあ、これが最後の重湯ですからね。大事に食べて下さい、病者様」

 董胡はいつものように病人の脇に座ってさじで重湯をすくった。

 病人はなんとか寝床の上に起き上がって座している。

「病者、病者と貧相な呼び方をやめぬか」

「されどお名前を教えて下さらないのだから、病者様としか呼べません」

「…………」

 三日が過ぎても正体を明かすつもりはないらしい。態度の悪さも相変わらずだ。

「さあ、簡単に手に入らぬような薬剤が入っているのですから、もっと感謝して下さい」

「その薬剤とは一体なんだ? 申してみよ」

「医家でない方がご存じか分かりませんが、冬虫夏茸という生薬です」

「冬虫夏茸?」

「そうです。蛾の幼虫からきのこが生えている不思議な生薬なんですよ」

「な!」

「さあ、口を開けて」

 董胡の匙を持つ手が、突然がしっとつかまれた。

「! 何をなさいますか」

「そなた。よくもこの私に蛾の幼虫などを食べさせてくれたな!」

「滋養にいい万能薬でございます。私の全財産だったんですからね」

「虫が全財産だと? 噓を申すな。このほら吹きめ!」

「ほら吹きですって? また馬乗りになってもらいたいみたいですね」

 しかし立ち上がろうとした董胡は、今度は反対の手で肩から押さえつけられた。

「!」

「ふふふ。この日を待っていたんだ。この私にこれほどの屈辱を与えたそなたを屈服させるためだけに我慢して食べていたが、もう限界だ。これ以上の無礼は許せぬ」

「なんて恩知らずなんですか! 私の全財産を食い尽くしておいて!」

「食べたいとは一言も言ってない! こんなもの好きで食らうか!」

 そう言うと董胡が手に持っていたわんと匙を払いのけた。

 椀が転がり、最後の重湯が床に飛び散る。

「私の最後の冬虫夏茸が……」

 暗然とする董胡は、そのまま押し倒され床に組み伏せられた。

「ふん! 体力さえ戻れば、お前ごときわらべにしてやられる私ではない」

「その体力を戻したのは私の貴重な冬虫夏茸ではないですか!」

「そんなこと頼んではいない! よくも私に無礼を働いたな。どうしてくれようか」

 両腕を押さえつけられ、董胡の目の前には勝ち誇ったように微笑む美しい顔があった。

 拒食の病人と安心していたが、董胡が最初思った通り、細身の割に質のいい筋肉を持っている。貴人らしからぬ腕力で董胡の腕を締め付け、まったく身動きがとれない。

「は、放してください!」

 怖い、と思った。

 男装していても、こんな場面では女としての恐怖を感じてしまう。

 そんなつもりはないだろうが、女性相手であればかなりひどいろうぜきだ。

 だがもちろんそんなことを知らない彼は、畳みかけるように董胡を追い詰めた。

「お前のような生意気な子供には身の程を教えてやらねばな」

「!」

 組み伏せられた手の下で、董胡は恐怖と共にひどく傷ついていた。

 大事に集めていた冬虫夏茸を使いきっても、この人を救いたいと思った。

 それなのにこんな風に思われていたなんて……。こんな理不尽なことはない。

 こんな人に宝物の冬虫夏茸を使うんじゃなかったと、愚かな自分に腹が立った。悔しさのあまり、にらみつけた目からぽろりと涙がこぼれ落ちる。

「!!」

 その董胡の涙を見て、彼がはっと顔色を変えたように見えた。

「私はあなたを助けたかっただけなのに……」

 董胡のつぶやきに、言葉をくしたように目を見開いている。

 その目は、初めて董胡を見たような驚きを宿していた。

 ずっと心ここにあらずといった目をしていた彼のひとみに、初めて一人の人間としての董胡が映ったように感じた。


 そこにちょうど部屋に入ってきた楊庵が、驚いて病者を突き飛ばした。

 彼は抵抗しないまま、あっけなく横に転がる。

「大丈夫か、董胡? あーあ、重湯も散らばって、なんてことすんだよ、お前!」

 楊庵はこの場の惨状に一人で腹を立てている。

 だが董胡と病者はお互いにむっつりと黙り込んでいた。

「おい、謝れよ。せっかく董胡が作ってくれた重湯を無駄にしやがって。あんたみたいな金持ちのお坊ちゃんには分からねえだろうが、この貧乏治療院ではそうろう一人食わすのだって大変なんだからな! そんなに元気なら出ていけよ!」

「…………」

 彼は素直に出て行こうとしたようだ。

 だが立ち上がろうとしても足元がおぼつかない。

 わずかな重湯だけでは、この乱闘で栄養切れのようだった。

「もういいです。その体じゃ門を出る前にまた倒れるだけですから」

 董胡は散らばった重湯を片付けながら、むっつりと言った。

「ちっ。面倒なやつだなあ。ほら、大人しく寝てろ」

 楊庵は仕方なく、ひざをついたまま立ち上がれない病人を、布団の中に寝かせてささやいた。

「知らないぞ、お前。董胡を怒らせたら怖いんだからな。冬虫夏茸は董胡の一番の宝物だったんだ。お前、れいな顔してひどいことするよな」

「…………」

 病者はどこかぼうぜんとした様子で、片付ける董胡をじっと見つめていた。

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