第6話

    ◆


 五年前、斗宿の治療院。

 十二歳になったばかりの董胡は、治療院の助手としての仕事にも慣れて、薬剤の管理と調合を一手に任されるようになっていた。医家の者が着るほうも董胡用にあつらえてもらい、少し大人になったような誇らしさに胸を躍らせていた頃だった。

 ゆうの後、前庭に干した薬草を取り入れるため、楊庵と共に外に出た。すると薄闇の中をこちらに歩いてくる人影が見えた。こんな夜に患者だろうかと見ていると、治療院の門の前でどさりと倒れた。

「楊庵! 人が倒れてる!」

 董胡はすぐさま駆け寄り、門を開いて倒れた人影を確認した。そして「あっ!」と叫んだ。人ではないものを見つけてしまったのだと思った。

 つやのある黒髪は角髪みずらに結い、一部が長く背に垂れて、光沢のある真っ白なあおい文様の袍を着ている。そして貴人が身に着けると聞くはくという装飾用の長い絹布が腰から腕に巻き付いていた。薄布に金糸で施されたりゆうしゆうが、暗がりの中でも輝いて浮かんでいる。

 何より顔の造作の見事さに、董胡はしばしれてしまった。

 これは天人が雲を踏み外して落ちてきたに違いないと本気で思った。

「大変だ、部屋に運ぼう。なにぼーっとしてるんだよ、董胡! そっち持って!」

 楊庵に名前を呼ばれて、ようやく我に返った。そして美しい貴人を二人で壊れ物を運ぶようにして診察台に連れていった。


「…………」

 酔っぱらって寝ていた卜殷だったが、董胡にたたき起こされて脈をみている。

 細いながらも息があることと、怪我をしている様子はないのを確認した。

「大きな怪我はないが、ひどく衰弱しているな」

 雑木林の中でも駆け回ったのか、手足にたくさんのさつしようがある。

 董胡は湿った布で傷口を丁寧にいて、卜殷特製のこんの塗り薬をたっぷりのせた。紫根ととうを豚脂でせんじた塗り薬は、傷跡を残さずに治す卜殷の秘伝薬だ。

「何かのやまいでしょうか?」

 楊庵は青ざめた顔色を見て尋ねた。

「うむ。特にどこかが悪いようには思えんが、目を覚ましてこれまでの経過を聞かぬことには判断できないな。どうしたものか」

 明らかな病因が見当たらないとなれば問診が重要だが、意識がなければお手上げだった。こういう時に頼れるのは董胡の妙な能力だけだ。

「董胡。何か分かるか?」

 卜殷は熱心に薬を塗り続けている董胡に尋ねた。

「それが……気が落ちているのか色が見えなくて……」

 董胡の目には、どんな人も必ず五色を放って見えるはずだった。だが、この麗人はなんの色も放っていない。こういう人を何度か目にしたことがある。それは……。

 死の間際にいる人。あるいは命の尽きた人。

(それともやっぱり天人だから?)

 そんな訳はないと分かっていても、死に逝くのだと認めたくない。

 この美しい人をなんとしても助けたかった。

 この危険な状態では処方を間違えば死に直結する。何か似た症例はなかっただろうか。

 目まぐるしく記憶に残るこれまでの症例を思い返して、はっと気づいた。

きよじき……」

「拒食?」

 卜殷と楊庵が董胡を見つめた。

「はい。ずいぶん前ですが一度だけ生きながら色の見えない子供がいました。ひどく親にせつかんされ、気うつから食べることを拒絶し、欲する味すらも映さなくなっていました」

「そういえば、そんな患者がいたな」

 卜殷も思い出した。あの頃は董胡もまだ幼く、食を拒む子供を救うことが出来なかった。だが、あの子供と同じようにこの麗人を死なせるわけにはいかない。

「うむ。確かに気血水すべてが落ちているこの感じは、栄養不足かもしれないな。ともかく虚証の煎じ薬、しようけんちゆうとうを飲ませてみるか。まずはを整え、食事ができる状態に戻すしかあるまい」

「はい。分かりました」

 董胡は薬棚から必要な薬草を取り出し、すぐさま煎じ始めた。

「楊庵ははりを打て。食欲増進のツボを刺激してみよう」

「はい」

 楊庵は鍼箱を持ってきて、足ツボを中心に鍼を打った。


 麗人が目覚めたのは翌日の昼過ぎだった。

 卜殷と楊庵が治療院で患者を診ている合間をぬって、董胡がさじで薬湯を飲ませていた時だった。

 手入れの行き届いたきめの細かい肌は、貴人の生まれに違いない。年は……十五歳の楊庵と同じぐらいだろうか。楊庵よりせているが意外にも筋肉質な腕をしている。これほど栄養が不足しているというのに質のいい筋肉があるのが不思議だった。

(青龍人だろうか?)

 生まれながらに筋肉質な体ならば、拒食でこの筋肉もあり得るのかもしれない。

(でもこの美しい顔立ちは朱雀の人かもしれないな)

 王都の南にあるという芸術の都・朱雀は、遊郭や芝居小屋などがたくさんあると聞く。朱雀人の中には天人のように美しい人もいるらしい。

(それとも異国の血が混じった白虎の混血かもしれない)

 王都の西にある白虎は『商術の都』と呼ばれ、伍尭國の西に広がる異国との取引が多く、青い目をした混血がいるらしい。

 そんなことを考えながら、麗人の口に少しずつ薬湯を流し込んでいた。意識がなくとも水分すら拒絶するのか、ほとんどが口端から流れてしまうが、わずかにのどが上下して胃腑に届いているようだ。

 もう少しだけ飲ませようとわんに匙を入れたところで、手首をつかまれた。

「わっ!」

 驚いて薬湯をこぼしそうになった。

 見ると、麗人が目を開けて董胡をにらんでいた。

「そなたは何者だ!」

 透き通った声音だが、ひどく険を含んでいた。

「あの……治療院の者でございます。家の前に倒れていたので……」

「…………」

 麗人はまゆを寄せ、昨晩のことを思い出しているようだった。

「あの……もう少しお薬を……」「いらぬ!」

 かぶせるように断られた。

「ですがずいぶん気血水が落ちていらっしゃいます。そのままでは起き上がることも出来ないはずです」

「…………」

 麗人は起き上がろうとしたようだが、董胡の言葉通り、出来なかったようだ。

「ではかゆをお召し上がりになりますか? 作ってまいりますが……」「いらぬ!」

 やはりかぶせるように断られた。

 この拒絶ぶりは、診たて通り拒食のようだ。しかも寝ている時は、慈愛に満ちた天人のように見えたのに、目を開けると悪童のように反抗的で寄り付きがたい印象だ。

「私はどれほど眠っていた? 答えよ」

 助けられたくせに横柄で感謝の言葉もない。董胡はため息をついて答えた。

「倒れていたのは昨晩のことですので半日と少しでしょうか」

「…………」

 答えてやったのに無言のまま天井を睨みつけている。

「あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか? どちらのご子息様でしょう」

 董胡が尋ねると、顔をこちらに向け怪しむように眼を細めた。

「なにゆえ私の正体を知りたがる? 何をはかっているのだ」

「い、いえ。はかりごとなどしておりません。ご家族が心配されているのではと思っただけです」

 見た目に反して嫌な人だと思った。だが麗人の次の言葉で少しだけ思い直す。

「心配する家族など……おらぬ」

 なにか事情があるようだった。


 それからが大変だった。

 卜殷が診察しようとしても、楊庵が鍼を打とうとしても全部拒否される。食事だけではなくすべてにきよを表明している。

 そのくせ起き上がることも出来ず、出ていく気配もない。どうしたいんだと、卜殷も楊庵もあきれて診察に戻っていった。董胡もあきらめて土間に下り、ゆうの準備を始めた。

 卜殷と楊庵にはいつものお気に入りまんじゆうあんを練り、わがままな麗人にも何か作ってやるかと考えた。そしてとっておきの生薬を思い出した。

(貴重な材料だけど、少しでも食べることが出来れば効果は絶大なはずだ)

 董胡は自分用のやくそうかごから生薬を取り出し、気味の悪い形態のそれを見てにんまりと微笑んだ。

 冬虫夏茸。

 いよいよ実際に使う時がきたと意気込んだ。

(ちょっと惜しいけど、わずかな量でも気を上げ胃腸を活性化してくれる)

 少しでも食欲が戻れば、欲する味の色が見えてくるはずだ。ほんのわずかな色でも見えれば、このわがままな麗人が美味おいしいと感じるものを作ってみせる。そして欲する味が分かれば、どのぞうが弱っているかも診えてくる。

 整えた生薬をおもに混ぜ込んだ。


「病者様。元気の出る生薬を入れて重湯を作りました。召し上がって下さい」

 卜殷と楊庵が来る前に先に食べさせることにした。

 天井を睨んで寝そべったままの麗人のそばに、椀を持って座った。

「いらぬと言ってるだろう!」

 相変わらず不機嫌に返された。

「ですがこのままでは起き上がることもできずに、この粗末な小屋で死ぬことになりますよ。いいのですか?」

「……。死ぬのはいいが、粗末な小屋は嫌だ」

 いちいち失礼な人だ。

「だったら一口だけでも食べて下さい。貧乏人にはなかなか手に入らない貴重な薬剤を混ぜています。苦い薬ではないので口当たりはいいはずですよ」

「……。ではまずお前が食べてみよ」

「え?」

「毒見だ。なにを驚いている」

「毒見……」

 この貧乏治療院で毒見が必要な貴人に会ったことはなかった。

 董胡は仕方なく匙ですくって自分の手の平にのせ、ぱくりと頰張った。

 味はつけていないので、ほとんど無味だ。

「これでいいですか? では次は病者様が食べて下さい」

「食べるとは言ってない」

「…………」

 董胡は頭の中のなにか大事な神線がぷつりと音を立てて切れた気がした。

 そのまま立ち上がると、麗人の胸の上に馬乗りなった。

「わっ! 何をするっ! どかぬか! 無礼者っ!」

「無礼なのはどっちですか! 食べるまでどきませんよ! さあ、口を開けて!」

 暴れる麗人の口に無理やり重湯を流しこんだ。そのまま口を押さえつけて閉じさせる。

 多少もがいても、弱っているので大した抵抗にはならない。

「うぐっ。やめ……。ごほっ。なんて乱暴な……」

 だが文句を言いながらもなんとか飲み込んだようだ。

 董胡は立ち上がり病人の脇に座り直した。

「お前のような乱暴者はざんしゆだ! この私によくもこんな……」

ざれごとは起き上がれるようになってから言って下さい。さあ、もうひと匙食べて下さい」

「ふんっ!」

 顔をそむける麗人を見て、董胡は再び立ち上がった。

「ではもう一度押さえつけて食べさせますか」

「!」

 麗人は青ざめた顔で、仁王立ちする董胡を見上げた。

「ま、待て。分かった。食べる。食べればいいのだろう」

 高貴な麗人は余程馬乗りになられたのが嫌だったのか、素直に口を開けた。

 おそらくこれまでの人生で、こんな失礼な扱いを受けたことなど無かったのだろう。

 診察を終えて部屋に入ってきた卜殷と楊庵が、面白そうに見ていた。

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