特別ショートストーリー「俺のササクラさん」
――その日、
井村は警察官である。
警察学校を去年卒業し、都内の所轄署に配属され、現在は交番勤務だ。いわゆる「お巡りさん」というやつである。
お巡りさんの仕事は多岐にわたる。管内をパトロールして、不審物の有無や怪しい人物がいないかどうかを確認する。何か事案が起これば、現場に出向いて対応する。道に迷った人が交番を訪れれば道順を教えるし、迷子の子供がいれば保護して家族に連絡するし、落とし物の対応もする。付近の会社や店舗を巡回して防犯指導を行うこともある。書類作成も大事な仕事だ。途中で仮眠をとるとはいえ、当番の日は二十四時間勤務である。配属されてすぐの頃は、一日の終わりにはへとへとになっていたものである。
勤務を終えて帰る先は、独身寮だ。
警察学校を出た独身の男性警察官は、大抵警察署の独身寮に入ることになっている。井村がいるのは個室タイプの寮で、部屋の中はその辺のアパートとあまり変わらない。勤務先の警察署までは徒歩数分だし、家賃も水道光熱費も非常に安い。
「他所の寮だと、築四十年のボロアパートで相部屋みたいなところもあるからな。相当恵まれてると思えよ」
入寮したとき、先輩警察官にそう言われた。実際、居心地が良すぎてなかなか寮から出て行かない者も多いらしく、新人が入ってきた際に古参の者から追い出されていくという。
独身寮の部屋には家具も
「俺が退寮するときには、お前にあのアイロン台を譲ってやるよ」
寮の食堂で一緒にメシを食いながら、中野は井村にそう言った。
「じゃあ、俺が退寮するときは、アイロンを譲ろう」
菅原もまた井村にそう言う。
二人とも、井村が入寮したときから何かと気にかけてくれている先輩である。二人がいつ出て行くのかはわからないが、そのときには井村のもとにアイロン台とアイロンが揃うことになるらしい。どちらもだいぶ古いが。
井村は「ありがとうございます」と二人に向かって言いつつ、ちらと隣のテーブルに座る
島田は、中野達より一年先輩の警察官だ。もう退寮が決まっており、近日中にここを出て行くことになっている。
視線に気づいた島田がこちらを向き、
「……何だよ。俺からも何か欲しいのかよ」
「あ、いえ、その」
井村が口ごもると、島田はにたりと笑って、
「――狙いは、俺の『ササクラさん』か」
ぐいとこちらに顔を近づけ、そう言った。
井村は顎を引くようにして、小さく「はい」とうなずく。
『ササクラさん』とは、島田が所有している
寮の部屋は狭い。炬燵なんぞ置いた日には正直、邪魔にしかならない。それでも炬燵の魔力というのはものすごくて、見るなりついつい吸い込まれてしまいたくなる。前に島田の部屋を訪れた際、井村も気づいたら炬燵に足を入れていた。長居するつもりは全くなかったにもかかわらずだ。日本人の遺伝子には、炬燵に対して従順になってしまう何らかの因子が含まれているのではないかと疑いたくなる。
だが、井村が『ササクラさん』に目をつけているのは、その快適さゆえのみではない。
「そうか――お前も聞いたか。『ササクラさん伝説』を」
手に持っていた茶碗をテーブルに置き、島田が言った。
『ササクラさん伝説』。
それは、かつてこの寮にいた佐々倉さんという警察官にまつわる話である。
佐々倉さんは交番勤務時代、管内で起きた殺人事件の犯人を
その彼が刑事になった際に後輩に譲り渡したのが、炬燵の『ササクラさん』だ。譲り受けた後輩が勝手にそう命名したそうだ。
『ササクラさん』は、その後も先輩から後輩へと譲渡され続けている。
所有期間は長くて二年。大抵はもっと短い期間で次に渡されると聞いている。
持っていると不幸が訪れるから、というわけではない。
その逆だ。
『ササクラさん』を譲り受けた者は、その後何らかの手柄を必ず立て、お巡りさんから刑事へとクラスチェンジするのである。そう、まるで佐々倉さんの背中を追うように。
島田は、去年『ササクラさん』を先輩から譲り受けた。
そして、先日ついに上司から刑事に推薦され、講習を受けて刑事になることが決まった。だから退寮するのである。『ササクラさん伝説』が今なお続いている証拠だ。
井村とて、刑事になりたくて警察官になったのだ。目指すは佐々倉さんと同じく、警視庁捜査一課である。しかし、今のところ井村が立てた最大の手柄は、徘徊中の老人の発見くらいのものである。夢はまだ遠い。そんな伝説があるのであれば、ぜひあやかりたい。
「俺も、佐々倉さんのようになりたいんです」
手元の飯茶碗を握りしめるようにして、井村はそう
島田がばりりと
「俺もだ。――お前、佐々倉さんに会ったことはあるか?」
「いえ、残念ながらまだ」
「そうか。俺は前に剣道の試合で会ったんだが、大きな人だった。しかも滅法強かった」
当時のことを思い出すかのように目線を遠くして、島田が言う。
その言葉に、井村は胸を熱くした。そうか、佐々倉さんはそんなに度量の大きな人なのかと。きっとそのとき島田はこてんぱんに負けたのだろう。そして先輩刑事の胸を借り、さらに強くなろうと誓ったのだろう。
中野と菅原が、島田に尋ねた。
「佐々倉さんって、交番勤務時代に窃盗犯やら暴行犯やら何人も捕まえてたんですよね? しかも地域住民にも慕われてたって」
「
「ああ。でも正確には、まんじゅうじゃなくておはぎな。手作りの」
そう言って、島田は味噌汁の椀に口をつける。
島田の話を聞きながら、井村はさすが佐々倉さんだと思う。心優しく、地域住民に愛される警察官。それもまた井村の理想である。警察というだけで一般市民からは少し怖がられることもあるのだが、きっと佐々倉さんは優しい顔をした人だったのだろう。
「もっとないんですか、佐々倉さんの話。俺、聞きたいです。憧れなんです」
思わず井村は身を乗り出し、島田にそうせがんだ。
ちょっと考え、島田がまた口を開く。
「そういえばちょっと前に、佐々倉さんが刺されたって話聞いたな」
中野と菅原がそれにうなずき、
「ああ、犯人を取り押さえようとして、刺されたんですよね。それでも応援が駆け付けるまで、一人で犯人を床に組み伏せ続けてたって」
「しかもその
三人の話を聞きながら、井村は頭の中に思い描く。負傷して血を流しながらも、死に物狂いで犯人を取り押さえ続ける佐々倉さんの姿。顔は知らないから、後ろ姿だ。でも、まるで刑事ドラマのワンシーンのようで、滅茶苦茶かっこいい。しかも旅先で事件まで解決するなんて。一体どれだけ優秀な警察官なのだろう。ますます憧れる。
「あー、あと、佐々倉さんといえば、なんかやたら綺麗な顔した幼馴染がいてさあ」
「あっ、それ、聞いたことあります! 剣道の大会を見に来たんですよね!」
「観覧席ですげえ目立ってて、芸能人がお忍びで見に来てるのかもって皆で噂してたら、なんと佐々倉さんの応援だったっていう話ですよね。大学で教えてる人なんでしたっけ」
三人の話を聞きながら、井村はまた頭の中に思い描く。剣道着を着た佐々倉さんが、超美人な幼馴染と並んでいるところ。佐々倉さんは後ろ姿だが、超美人な幼馴染の方はとりあえず好きな女優の顔にしてみた。大学で教えているということは、きっと知的な美人だろう。羨ましい。自分もそうなりたいとは思うが、今から美人の幼馴染を作るというのはいくらなんでも無理だ。それは諦めよう。というか、その美人の幼馴染は佐々倉さんの彼女ではないのだろうか。どっちにしてもとにかく羨ましい。
そのとき、全員のスマホが一斉に鳴った。
呼び出しだった。
独身寮は、別名を待機寮とも言う。管内で何かあった場合には、寮にいる者達は問答無用で呼び出されるのである。四人とも、手元の食いかけのメシを一気に口の中にかき込んで席を立った。
廊下を並んで走りながら、島田が井村に言った。
「じゃあ、今日のこの呼び出しでお前が手柄をあげたら、『ササクラさん』は譲ってやるよ」
「本当ですか!」
井村は目を輝かせて島田を見た。
「男に二言はない。だから頑張れよ」
「はい!」
井村は力強くうなずいた。
この日の呼び出しは、管内で未成年者が行方不明になっているというものだった。まだ中学生の女の子だ。
見つけたのは井村だった。男にホテルに連れ込まれそうになっていたところを、寸前で止めて確保した。
島田は約束通り、『ササクラさん』を井村に譲ってくれた。
「俺は佐々倉さんを目指す。だからお前も頑張れよ」
「はい!」
かくして『ササクラさん』は、井村の部屋にやってきた。
『ササクラさん』は、とても温かかった。
これまで幾人もの間を渡り歩いてきたことを物語るかのようにあちこち傷がつき、炬燵布団には染みも多かったが、温熱効果に問題はまるでなかった。
警察官の仕事は辛いことも多い。だが、部屋に戻れば『ササクラさん』が迎えてくれると思えば、耐えることができた。
仕事で疲れて部屋に戻った井村の心身を、『ササクラさん』は優しく
いつか、いつか自分も必ず佐々倉さんのようになるのだ。
まだ見ぬ佐々倉さんの姿を思い描き、井村はまるで佐々倉さんの恩恵を受けるかのような気分で、炬燵の温もりに包まれ続けた。
井村のもとに『ササクラさん』がやってきてから半月ほどして、管内で殺人事件が起きた。井村のいる警察署に帳場が立ち、本庁から刑事がやってきた。
その中に佐々倉さんがいる、と井村に教えてくれたのは、中野だった。
といっても、やってきた刑事は佐々倉さん一人ではない。おまけに井村は通常業務の方を優先しなければならず、捜査本部には入れなかった。佐々倉さんの顔を見たくても、なかなかそうもいかない。
だが、何しろ井村の憧れの人である。
一目だけでいい。顔を、姿を見てみたかった。
当番を終えて自室に戻り、『ササクラさん』に入りながら、炬燵の天板に向かって井村は祈った。どうか佐々倉さんに挨拶させてください、と。何しろこれは伝説の炬燵だ、今なお佐々倉さんとどこかでつながっているかもしれない。
佐々倉さん達が今捜している被疑者を、自分が警邏中に見つけるところを思い描いてみる。
不審な男を見かけ、近づいていく自分。
人相を確認したところ、男の顔は、捜査本部から回ってきた顔写真そのままだ。
職質をかけた途端、逃走する被疑者。井村は待てと叫び、男を追う。男は狭い路地に逃げ込み、ポリバケツや段ボール箱を蹴散らしながら逃げていく。井村はそれらを跳び越え、必死に男の後を追う。だが男の足は速く、距離は一向に縮まらない。
そのときだ。男の前方を、買い物袋を手に提げたおばあちゃんが横切ろうとするのが見える。どけ、という男の怒号に立ちすくむおばあちゃん。細く小さなその体に男は容赦なく突き当たろうとし――その寸前で、井村は男の肩と腕を捕らえ、地面に引きずり倒して手錠をかける。被疑者確保。おばあちゃんも勿論無事だ。
井村は捜査本部に呼ばれ、逮捕時の状況を報告することになる。
刑事達の中には、交番勤務の巡査ごときが手柄をあげたことを面白く思ってなさそうな顔の者もいて、井村は緊張しながら報告を終える。
部屋から出て行こうとしたとき、井村の肩を誰かが
振り返る。そこには刑事が一人立っている。
知らない人だ。だが、とてもよく知っているようにも思える人だ。
その人は井村を真っ直ぐに見つめ、「よくやったな」と優しい顔で言ってくれる。
ああ、この人こそが佐々倉さんなのだ――。
そう思ったところで、はっと目が覚めた。
いつの間にか寝落ちしていたようだ。天板にできたよだれの染みを、井村は慌てて袖で拭った。
現実は井村の夢の通りにはならず、被疑者はその翌日に逮捕され、帳場は畳まれることとなった。
交番勤務の報告書を上司に提出しに行きがてら、帳場に使用されていた会議室に寄ってみると、部屋の外に掲げられていた捜査本部の看板が外されるところだった。
もう部屋の中にはろくに人もおらず、きっと佐々倉さんももう帰ってしまったのだろうなと井村は思った。
だが、そのときだった。
廊下の角の向こうで、島田の声が聞こえた。
誰かと話している。その会話の中に「佐々倉さん」という単語が交じっているのに気づいて、井村は思わずそちらに走り寄った。
角の向こうにあるのは、休憩所だ。飲み物の自販機と、わずかばかりのベンチや椅子が置かれている。
島田はそこで見たことのない男性と談笑していた。こちらに半ば背を向けているのであまり顔は見えないが、どうやら相手は本庁の刑事らしい。
井村に気づいた島田が、「あ」という顔をして、その刑事に向かって言った。
「佐々倉さん。今、佐々倉さんの炬燵持ってるのこいつですよ」
どきりとして立ちすくんだ井村を、その刑事が――佐々倉さんが、ゆっくりと振り返る。
心臓が止まるかと思った。
何しろ憧れの警察官だ。数々の手柄を上げ、地域住民に慕われ、おばあちゃんからおはぎの差し入れまで受けていた、心優しく強い人。剣道に
初めて見る佐々倉さんの顔は――怖かった。
マル暴かと思うくらいには、怖かった。
「へえ……そうか、お前が俺の炬燵をなあ」
言いながら、佐々倉さんが立ち上がる。
佐々倉さんは、大きかった。度量ではない、物理的に大きかった。一七五センチの井村でさえ見上げる背丈。何センチあるのだろう。肩幅も広く、たくましい。なんというか、目の前に立たれるとものすごい威圧感だった。
思わず固まった井村を見下ろし、佐々倉さんは言った。
「つーか、まだちゃんと動いてんのな、あの炬燵。どこも壊れてねえのか?」
「……はっ、はいっ、問題なく動いております! 大変温かいです!」
「そうか。炬燵で寝落ちしねえように気をつけろよ」
佐々倉さんが言う。井村は背筋をぴんとのばしたまま、「はいっ!」と返事をする。警察学校で教官を前にしたときに戻ったような気分だった。格の違いを感じるのだ。
佐々倉さんが自販機に向かう。
井村はその場に固まったまま、視線だけでそれを追う。
佐々倉さんは缶コーヒーのボタンを押した。
途端、ぴろぴろという音が自販機から響いて、ランプが幾つも輝いた。自販機についているくじが当たったらしい。あの自販機のくじが当たるところを、井村は初めて見た。
「おい」
佐々倉さんが、井村を呼んだ。
「好きなの選んでいいぞ」
「えっ? い、いいんですか、自分がもらっても」
「ああ。……なんか俺、よく当たるんだよ、こういうの」
佐々倉さんが言う。
井村は恐る恐る指をのばし、佐々倉さんのと同じ缶コーヒーのボタンを押した。
がこん、と受け取り口に缶が落ちてくるのを見届け、井村は佐々倉さんに敬礼しつつ「ありがとうございます!」と礼を言う。
そんな井村を見て、島田が笑いながら言った。
「佐々倉さん。こいつ、佐々倉さんに憧れてるんですよ。いつか佐々倉さんみたいになりたいんですって」
「ああ? 何で俺なんかに」
佐々倉さんは、軽く顔をしかめて井村をまた見下ろした。井村は返事もできずに敬礼を続ける。
佐々倉さんはまあいいやという感じに小さく肩をすくめ、
「頑張れよ」
そう言って井村の肩をぽんと叩き、あっという間に缶コーヒーを飲み干すと、去っていった。
その背中はやはり大きく――そして、かっこよかった。
井村がずっと思い描いていた、刑事の背中だった。
ああ、と井村は佐々倉さんが叩いていった己の肩に手を置き、あらためて心に誓った。
いつか自分も、佐々倉さんのようになろう。あんな刑事を目指すのだ。
佐々倉さんの手は大きく、温かかった。
『ササクラさん』と同じ温もりだった。
ちなみに井村が『佐々倉さんの美人の幼馴染』が男だと知り、勝手な妄想をしていた自分を恥じることになるのは、もう少し先の話である。
准教授・高槻彰良の推察 SS 澤村御影 澤村御影/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
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