准教授・高槻彰良の推察 SS 澤村御影

澤村御影/角川文庫 キャラクター文芸

特別ショート・ストーリー

……どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 そう思いながら、尚哉はそっと自分の左隣を窺った。

 そこには佐々倉がいる。仕事帰りの格好で、襟元もネクタイも緩めてはいるが、その表情に寛いだ様子は全くない。ただでさえ強面の顔を凶悪に歪め、酒の入ったグラスを今にも粉々に砕きそうな勢いで握りしめている。怖い。できれば少し距離を取りたいくらい怖い。

 続いて尚哉は、右隣に視線を向けた。

 そこには高槻がいる。こちらはすでに仕事着のスーツから私服のサマーニットに着替えている。大きな二重の目をきらきらと輝かせ、わくわくした様子で少し前に身を乗り出した様は、まるで遊園地に来た子供みたいだ。もう三十五歳のくせに。

 そして尚哉は、視線を正面に戻した。

 そこには大型のテレビがある。画面に映っているのは、いかにも不吉な雰囲気を漂わせた古びた家と、今まさにそこを訪れようとしている若い女性。

 ――高槻が講義でしばしば言及するJホラーの金字塔の一つ、『呪怨』。その劇場版一作目の冒頭のシーンである。

 なぜ尚哉がこの二人に挟まれてホラー映画を見る羽目になったのかを説明するには、時間を少々巻き戻す必要がある。

 

 発端は今日の昼間だ。高槻の研究室を訪れた際、何かの話の流れで、「そういえば俺、『呪怨』って観たことないんですよね」と言ってしまったのがいけなかったのだと思う。

 そのとき研究室には、高槻の他に瑠衣子がいた。

「えっ、嘘、深町くんったら『呪怨』観てないの? ハリウッドリメイクもされてるし、結構有名な映画でしょ?」

「ホラー映画って普段そんなに観ないんですよ」

 高槻の講義を取っているとはいえ、尚哉は別にそこまでホラーが好きなわけではないのだ。小説ならまだしも、映像作品となると、自分から好んで手を出すことはまずない。

「あ、でも、ちゃんと観たことはないですけど、どんな映画なのかは知ってますよ。あれですよね、白塗りでパンツ一枚の男の子の幽霊と、白塗りで血まみれの女の人の幽霊が襲ってくる話」

「身も蓋もないまとめ方するわねー……まあ、俊雄くんも伽椰子さんもあちこちでパロディされまくってるから、観たことなくてもなんとなく知ってるって人は多いのよね」

 やや不満そうな顔で瑠衣子が言う。

 瑠衣子と尚哉のやりとりを聞いていた高槻が、少し笑って言った。

「まあ、『呪怨』も結構古い映画だからねえ。最初にビデオ版が出たのが二〇〇〇年で、劇場版一作目の公開が二〇〇三年だよ。ホラー映画が好きな人ならともかく、そうじゃないなら観たことなくても不思議はないよ」

「えー、でも、アキラ先生の講義でも『呪怨』は資料としてよく扱うじゃないですかー! やっぱりJホラーの基本として押さえておきたい作品ですよね?」

「うん、まあ、観ておいてくれた方が、講義への理解もより深まるとは思うけどね」

「じゃあやっぱり、深町くんも観ておくべきですよ!――というわけで深町くん、はい」

 そう言って、瑠衣子が自分の鞄から何かを取り出し、尚哉に向けて差し出した。

 反射的に受け取りそうになった手を、尚哉は直前で引っ込めた。

『呪怨』のDVDだった。表紙の青い顔をした男の子の写真が実に禍々しい。

「……瑠衣子先輩、何でこんなの持ち歩いてるんですか」

「別に普段から持ち歩いてるわけじゃないわよ、友達に貸してたのがちょうど戻ってきたところなの」

「どっちにしても先輩の私物なわけですね。……いやだから俺、ホラー映画はそんなに好きじゃないんですけど」

「これも研究資料の一つよ、観念して受け取りなさい。ああ、一人で観るのが嫌なら、アキラ先生の家で観たら? 前に研究室の皆で押しかけてホラー映画の上映会したことあるけど、テレビ大きくていいわよ」

「いやでも、さすがにそれは……」

 高槻の迷惑になるのでは、と思いながら、尚哉は高槻を見た。

 が、高槻はにこにこしながら、

「あ、僕もひさしぶりに『呪怨』観たいなあ。深町くん、今日予定あいてる? あいてるなら、うちにおいでよ。夕飯ごちそうするよ!」

 そう言って、瑠衣子の手からDVDをひょいと取り上げた。先日の叔父の来日以来、高槻は多少自炊をするようになったらしい。

 夕飯付きのうえに高槻の解説付きならまあいいかと、尚哉は高槻の家での『呪怨』観賞会を了承したのだった。


 ――とはいえ、そこに佐々倉まで加わることになったのは、ほぼ事故に近い。

 夕飯を済ませ、さてそろそろ映画を観ようかという段になった頃に、佐々倉の方からやってきたのだ。仕事帰りに、高槻の家に酒を飲みに来たらしい。

「あのね、健ちゃん。実はこれから僕達、これを観るんだけど」

 そう言って高槻がDVDを見せた瞬間、佐々倉はぐるりと背を向け、

「帰る」

 その背に向かって、尚哉がついうっかりこう言ってしまったのがまずかった。

「あ、やっぱり佐々倉さんって怖いの苦手なんですね」

「苦手じゃねえ!」

 滅多に歪まない佐々倉の声がそれはもう派手に歪み、尚哉は思わず耳を押さえた。

 高槻が苦笑し、佐々倉は無言で戻ってくると、どすんとソファに腰を下ろした。

そして、今に至るというわけだ。


 映画はエンドクレジットまで入れて約一時間半。随所で高槻が様々な解説を入れてくれたため、無言で観るよりはだいぶ恐怖も薄まったとは思うが、それでも佐々倉はよく耐えたと思う。

 再生の終わったDVDをケースに戻しながら、高槻が佐々倉に声をかけた。

「大丈夫? 健ちゃん」

「…………………布団の中に幽霊出るのは反則だろ……」

 佐々倉が答える。いつの間にか抱え込んでいたクッションは、すぐにも破裂しそうなほど変形している。映画を観始める前に封を切ったワインのボトルは、やけくそのように佐々倉が飲みまくったせいですでに空っぽだ。

「……彰良。酒。もう一本ボトル出せ」

「はいはい。明日は非番?」

「非番。……深町、お前も付き合え」

「え。俺は帰ります」

「付き合え。朝まで」

 立ち上がろうとした尚哉の肩をがっしとつかみ、狂犬のような目つきで佐々倉が言った。……ホラー映画より、佐々倉の顔の方が怖かった。

 飲み会は、本当に朝まで続いた。 

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