海の底を歩く



 十一月終わり近くの祝日。

 九曜くようが駅前で待っていると、ゆうは当たり前のように待ち合わせ時間から二十分ほど遅れてやってきた。


「遅えー。本気でもう帰ってやろうかと思ったぞ」

「九曜も律儀だねー。どうせあんたのことだから早めに来て、結果的に一時間近く待ったん×じゃない×?」


「分かってんならまともに来いや、仮面優等生が……。俺には本性バレてるからって、自由だとか思ってんじゃねえぞ」

「あははー。怒られた。ごめんごめん。×わざとじゃない×から許して」

「ダメだ」

「じゃあ×デコピンで許して×なーんて——」


 ビシッ! と鋭く一撃を決める。

 こういう時は有無を言わさぬ素早い反応が重要だ。


「————ったぁー!? 冗談! 冗談! 今のは本当に冗談だったんだけど!?」

「よし、満足した。さあ行こうか」

「うわーん。×デートDVだ×ー。DV彼氏だよぉー」


 言いながらも夕は九曜にすすっと近付いて、腕を絡めてきた。

 そうして二人で駅へと歩き出す。


 今日の夕の服装は、パンツルックに厚めのジャケットとスニーカー。

 中性的と言えば聞こえはいいが、どちらかというと普段着に近い雰囲気のラフな着こなしだ。

 いつも学校で見るようなファッションへのこだわりは感じられず、九曜をとことん誘惑してやろうという気概もない。


 全体的に自然体を重視したようなコーディネートにまとめられていた。


 それでもこうして近付くとシャンプーなのか香水なのか、あるいは元々のものなのか、ふんわりと良い香りがするあたり、女子というのはやっぱりずるい。


 腕を絡めたり、手を握ったり。

 常に小さな触れ合いをしながら、九曜と夕は列車に乗って水族館へと向かった。



 ◇



「さて、どっから回ろうか。えーと、全部見るための最短ルートは……」


 案内図を確認しながら、九曜が夕に話しかける。

 ——と、なぜかすでに夕はキレていた。


「なにをまともに巡回しようとしてんのよ、おのれは。こちとら付き合って二ヶ月のラブラブカップルなわけですよ? 問題はどれだけイチャつけるかであって、×魚なんぞどうでもいい×でしょーが」


「イルカやアシカは哺乳類だぞ」

「正確な分類とかそれこそどうでもええじゃろがい!」


 水族館に来ておいてそれはないだろう。

 生命の神秘を知るのも、こうした場所の大事な役割であってだな。


 などというのはさておいて。


「カップルはともかく、効率ばっかり求めても仕方ないのは確かだな」


 そんなわけで、足の進むまま気の向くまま。

 目的もなくふらふらと、二人は水族館を歩き回り始めた。


 サメやウミガメの泳ぐ大型の水槽を目の前で見たり、ただぼーっとしているペンギンの集団を眺めたり。南国系のカラフルな魚たちを無駄に追いかけたり、大きなエビと睨み合ったり。


 足を運んだ時にはすでに始まっていたイルカショーは、後方から立ち見で眺めることになったが、それでも水飛沫は足元まで届いてはしゃいだり。


 最大限まで楽しみきったというわけではないのだろうが、それでも二人は水族館を存分に満喫していった。


 そんなこんなで歩き疲れて、飲み物片手に一休み。

 コーヒーとオレンジジュースで乾杯する。


「はー。うま。ジュース。うま」

「語彙が無くなってるぞ。ゾンビになったか夕」

「この程度で死にはせんのよ。それは虚弱体質すぎるんよ」


 そう言いながら、夕は、はあー…………と長い息を吐く。

 そして九曜の肩に頭を預ける。


「久々に大きく羽を伸ばせたよー。やっぱり……九曜と二人は落ち着くー……」

「そりゃどうも。楽しんでもらえたなら何よりだ」


 犬か猫でもあやすように首をなでると、いつものチョーカーが九曜の指に触れた。


「……このあとはどうする? 結構時間使ったけど、たしかすぐそこに、まだ深海コーナーあるぞ」

「んー? ×そうなん×?」

「そうなん。お前好きなんだろ? 深海の生き物。せっかくだし最後に見て帰ろう」


 九曜の言葉に、夕は小さく笑った。


「……やっぱり九曜は怖いなー」

「は? 怖い? え、なんか俺まずいこと言ったか。前にお前が言ってたよな? 水族館は深海生物が好きだとかなんとか」

「そうだけど……ふふふ。まあいいよ」


 そう言うと夕は身体を起こして立ち上がり、


「じゃあ行こっか。最後はのーんびり、全然動かないやつらを見にいこー」


 九曜の手を取って、深海コーナーへと足を運んだ。


 少し照明の暗い、海の底をイメージしたコーナーには、変わった見た目の生き物が狭い窓越しにいくつも展示されていた。

 トゲトゲのカニや、透明な身体の魚など、これまで見てきた生き物たちとはまた幾分か雰囲気が違う。


 その中でも、夕は光るクラゲの水槽をぼんやり眺めていた。


「泳いでるねー」

「泳いでるな」

「光ってるねー」

「光ってるな」

「でも派手ではないねー」

「まあそうかもな」


「………………」

「………………」


 話すことがなくなったのか、夕はまた静かになり。

 九曜もまた、夕の隣でクラゲを黙って眺めていた。


 お互い何も言わないが、雰囲気が悪いという気はしない。むしろ、心地よい時間が流れているように感じられる。


 誰もが楽しいものかは知らないが、少なくとも九曜は、こういう時間は嫌いではなかった。

 夕もおそらくそうだというのが、普段の夕からすると、ずいぶん意外な印象ではあったが。


「九曜はさー…………」


 そこで夕が、ゆっくり呟くように話し始めた。


「多分わたしの心を読める能力者だと思うんだよねー……」


 突然の自説披露に、九曜は困惑を隠せなかった。

 しかも、合ってるようで合っていない。嘘を見抜けるというのはたしかに、心を読めると形容されることもあるだろう。だが、少なくとも正しくはない。


「……いや、読めないけど」


 実際、読めたらこんな苦労はしていないのだ。

 夕が人狼かそれ以外か。早くはっきりさせたいというのに。


「でも……わたしの性格が悪いのとか、見抜いてくるじゃん? 嘘をつくと軽く見破って笑うじゃん? だからやっぱり、そういう人だと思うんだよね」


 これは……慧眼けいがんについては知らない……ということか?

 ならば人狼ではない……と言い切るにはまだ決め手に欠けているか。どうなんだ?


「それでさー……わたしの気持ち、読んでる割に何も言ってこないなら、当然嫌われてるんだろうなー、とか、思ってたんだけどさ……。

 ヤケになって告白したら、付き合ってくれたから。ちょっと意味分かんなくて。混乱して。しばらくちょっと怖かった」


「ちょ、ちょっと待った。急展開に頭がついていけないんだが、何を突然……」


「本当は、今でもたまに怖いんだよね。……心を読まれることがじゃないよ。九曜の心を読めないことが。何を考えてるのか、企んでるのか、知りたいのに分からないことが」


 深海コーナーの暗い明かりが、ぼんやりとだけ夕の足元を照らし出す。

 夕はクラゲの水槽のガラスに手を伸ばしながら、続けた。


「……でも、それが普通なんだよね。みんな普通はそうしてる。だからわたしもそうするんだ。九曜にだけは、いつも」


「えっ……と……」


「……なんてね。わたしが九曜を好きだってお話でした。さ、帰ろっか。もう十分楽しんだでしょ」


 そう言うと夕はぱっと笑顔を作り出し、勝手に出口へ向かって歩き出した。

 困惑しきりの九曜は、ただそれに続くしかなかった。


 気付いてもいなかった、夕の恐怖。

 夕はどこまで知っている? どこまで把握した上で、怖がっている?


 九曜の正体。人狼の運命。

 何も分からないのはこちらの方だ。


 しかし。


 駅へ戻って帰るまで、夕が離さなかった手と手。

 そこから伝わるぬくもりは、夕の気持ちを伝えてくれているような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る