海の底を歩く
十一月終わり近くの祝日。
「遅えー。本気でもう帰ってやろうかと思ったぞ」
「九曜も律儀だねー。どうせあんたのことだから早めに来て、結果的に一時間近く待ったん×じゃない×?」
「分かってんならまともに来いや、仮面優等生が……。俺には本性バレてるからって、自由だとか思ってんじゃねえぞ」
「あははー。怒られた。ごめんごめん。×わざとじゃない×から許して」
「ダメだ」
「じゃあ×デコピンで許して×なーんて——」
ビシッ! と鋭く一撃を決める。
こういう時は有無を言わさぬ素早い反応が重要だ。
「————ったぁー!? 冗談! 冗談! 今のは本当に冗談だったんだけど!?」
「よし、満足した。さあ行こうか」
「うわーん。×デートDVだ×ー。DV彼氏だよぉー」
言いながらも夕は九曜にすすっと近付いて、腕を絡めてきた。
そうして二人で駅へと歩き出す。
今日の夕の服装は、パンツルックに厚めのジャケットとスニーカー。
中性的と言えば聞こえはいいが、どちらかというと普段着に近い雰囲気のラフな着こなしだ。
いつも学校で見るようなファッションへのこだわりは感じられず、九曜をとことん誘惑してやろうという気概もない。
全体的に自然体を重視したようなコーディネートにまとめられていた。
それでもこうして近付くとシャンプーなのか香水なのか、あるいは元々のものなのか、ふんわりと良い香りがするあたり、女子というのはやっぱりずるい。
腕を絡めたり、手を握ったり。
常に小さな触れ合いをしながら、九曜と夕は列車に乗って水族館へと向かった。
◇
「さて、どっから回ろうか。えーと、全部見るための最短ルートは……」
案内図を確認しながら、九曜が夕に話しかける。
——と、なぜかすでに夕はキレていた。
「なにをまともに巡回しようとしてんのよ、おのれは。こちとら付き合って二ヶ月のラブラブカップルなわけですよ? 問題はどれだけイチャつけるかであって、×魚なんぞどうでもいい×でしょーが」
「イルカやアシカは哺乳類だぞ」
「正確な分類とかそれこそどうでもええじゃろがい!」
水族館に来ておいてそれはないだろう。
生命の神秘を知るのも、こうした場所の大事な役割であってだな。
などというのはさておいて。
「カップルはともかく、効率ばっかり求めても仕方ないのは確かだな」
そんなわけで、足の進むまま気の向くまま。
目的もなくふらふらと、二人は水族館を歩き回り始めた。
サメやウミガメの泳ぐ大型の水槽を目の前で見たり、ただぼーっとしているペンギンの集団を眺めたり。南国系のカラフルな魚たちを無駄に追いかけたり、大きなエビと睨み合ったり。
足を運んだ時にはすでに始まっていたイルカショーは、後方から立ち見で眺めることになったが、それでも水飛沫は足元まで届いてはしゃいだり。
最大限まで楽しみきったというわけではないのだろうが、それでも二人は水族館を存分に満喫していった。
そんなこんなで歩き疲れて、飲み物片手に一休み。
コーヒーとオレンジジュースで乾杯する。
「はー。うま。ジュース。うま」
「語彙が無くなってるぞ。ゾンビになったか夕」
「この程度で死にはせんのよ。それは虚弱体質すぎるんよ」
そう言いながら、夕は、はあー…………と長い息を吐く。
そして九曜の肩に頭を預ける。
「久々に大きく羽を伸ばせたよー。やっぱり……九曜と二人は落ち着くー……」
「そりゃどうも。楽しんでもらえたなら何よりだ」
犬か猫でもあやすように首をなでると、いつものチョーカーが九曜の指に触れた。
「……このあとはどうする? 結構時間使ったけど、たしかすぐそこに、まだ深海コーナーあるぞ」
「んー? ×そうなん×?」
「そうなん。お前好きなんだろ? 深海の生き物。せっかくだし最後に見て帰ろう」
九曜の言葉に、夕は小さく笑った。
「……やっぱり九曜は怖いなー」
「は? 怖い? え、なんか俺まずいこと言ったか。前にお前が言ってたよな? 水族館は深海生物が好きだとかなんとか」
「そうだけど……ふふふ。まあいいよ」
そう言うと夕は身体を起こして立ち上がり、
「じゃあ行こっか。最後はのーんびり、全然動かないやつらを見にいこー」
九曜の手を取って、深海コーナーへと足を運んだ。
少し照明の暗い、海の底をイメージしたコーナーには、変わった見た目の生き物が狭い窓越しにいくつも展示されていた。
トゲトゲのカニや、透明な身体の魚など、これまで見てきた生き物たちとはまた幾分か雰囲気が違う。
その中でも、夕は光るクラゲの水槽をぼんやり眺めていた。
「泳いでるねー」
「泳いでるな」
「光ってるねー」
「光ってるな」
「でも派手ではないねー」
「まあそうかもな」
「………………」
「………………」
話すことがなくなったのか、夕はまた静かになり。
九曜もまた、夕の隣でクラゲを黙って眺めていた。
お互い何も言わないが、雰囲気が悪いという気はしない。むしろ、心地よい時間が流れているように感じられる。
誰もが楽しいものかは知らないが、少なくとも九曜は、こういう時間は嫌いではなかった。
夕もおそらくそうだというのが、普段の夕からすると、ずいぶん意外な印象ではあったが。
「九曜はさー…………」
そこで夕が、ゆっくり呟くように話し始めた。
「多分わたしの心を読める能力者だと思うんだよねー……」
突然の自説披露に、九曜は困惑を隠せなかった。
しかも、合ってるようで合っていない。嘘を見抜けるというのはたしかに、心を読めると形容されることもあるだろう。だが、少なくとも正しくはない。
「……いや、読めないけど」
実際、読めたらこんな苦労はしていないのだ。
夕が人狼かそれ以外か。早くはっきりさせたいというのに。
「でも……わたしの性格が悪いのとか、見抜いてくるじゃん? 嘘をつくと軽く見破って笑うじゃん? だからやっぱり、そういう人だと思うんだよね」
これは……
ならば人狼ではない……と言い切るにはまだ決め手に欠けているか。どうなんだ?
「それでさー……わたしの気持ち、読んでる割に何も言ってこないなら、当然嫌われてるんだろうなー、とか、思ってたんだけどさ……。
ヤケになって告白したら、付き合ってくれたから。ちょっと意味分かんなくて。混乱して。しばらくちょっと怖かった」
「ちょ、ちょっと待った。急展開に頭がついていけないんだが、何を突然……」
「本当は、今でもたまに怖いんだよね。……心を読まれることがじゃないよ。九曜の心を読めないことが。何を考えてるのか、企んでるのか、知りたいのに分からないことが」
深海コーナーの暗い明かりが、ぼんやりとだけ夕の足元を照らし出す。
夕はクラゲの水槽のガラスに手を伸ばしながら、続けた。
「……でも、それが普通なんだよね。みんな普通はそうしてる。だからわたしもそうするんだ。九曜にだけは、いつも」
「えっ……と……」
「……なんてね。わたしが九曜を好きだってお話でした。さ、帰ろっか。もう十分楽しんだでしょ」
そう言うと夕はぱっと笑顔を作り出し、勝手に出口へ向かって歩き出した。
困惑しきりの九曜は、ただそれに続くしかなかった。
気付いてもいなかった、夕の恐怖。
夕はどこまで知っている? どこまで把握した上で、怖がっている?
九曜の正体。人狼の運命。
何も分からないのはこちらの方だ。
しかし。
駅へ戻って帰るまで、夕が離さなかった手と手。
そこから伝わるぬくもりは、夕の気持ちを伝えてくれているような気がした。
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