もうすぐ一ヶ月



「——どうぞ」


 差し出されたのは一つのカップ。

 中には乳白色をした、固体と液体の中間をさまよう物体が流し込まれている。


「……では。いざ」


 そこに一さじのスプーンを入れて、くいと中身を持ち上げる。


 澱みのない色具合を確認し、わずかに匂いを嗅ぐ。

 今のところ難は無し。一息にスプーンを口に運ぶ。舌の上で転がし、とろける感触と甘みを確かめる。


 そして確信する。


「…………うん。美味いな。このプリン」

「本当!? よかったぁ……」


 本日の授業が終わったあと、九曜くようみどりの家にお呼ばれしていた。

 目的はもちろん、二人きりでイチャイチャ……ではなく、翠の作ったお菓子——濃厚牛乳プリンの試食である。


 試食といっても、翠がお菓子作りをする最大の理由は九曜に食べてもらうためなので、ほぼ実食と言っていい。

 ただ、お菓子を作ったら食べると約束した手前、九曜はただ味わうだけでなく、審査員も兼ねる形となっているのだ。


「先に自分でも食べてみて、いけるとは思ってたんだけど……やっぱり九曜くんに食べてもらう時は緊張するね」

「この短い期間で成長するもんだな。これ普通に美味いよ。どろどろなのに焦げてる奇妙なクッキー作ってたとは思えん」


「そ、その頃のことは、どうか忘れていただいて……」


 気恥ずかしそうに顔を赤らめる翠を見ながら、九曜はプリンを高速で口に運んでいく。

 コーヒー好きの九曜ではあるが、苦い物ばかりが専門というわけではない。むしろ甘党と呼んで差し支えないくらいで、自宅で自習をしている時などは、頻繁に甘い物を口にしている。


 そんな九曜の舌が合格点と宣言しているのだから、このプリンの味はかなりのレベルにあると考えていいだろう。


「じゃあ改めて、このプリンはテスト勉強を手伝ってくれたお礼っていうことで。中間テストお疲れ様でした」

「ん。お疲れ」


 最後の一口をぱくりと咥え、九曜はうんうんと満足した顔をする。

 翠もその顔を見て、また一段、笑顔が広がった。


「まあお礼って言うなら、先週の水着姿でだいぶ返してもらってるけどな。百合川ゆりかわにしてはかなり大胆な水着で驚いたけど」


「あ、あれは、ゆうちゃんが×無理矢理×押し付けてきて……」

「ほう? 自分の意思ではなかったと?」

「う。……ごめんなさい、嘘です……九曜くんにアピールしたくて最後は自分で選びました……」


 実際、効果は抜群だった。

 九曜にとって、周囲の女性でスタイル抜群と言えば黒鐘くろがねイルイのイメージがあった。

 しかしあの水着を見てからは、こと胸部のクオリティ——端的に言えば、おっぱいのサイズのことである——に関しては、翠が一気に頂点の座に躍り出ていた。


 今も目の前にあの豊満な身体があると思うと、若干興奮を隠しきれないところはあったりもする。


 もう少し見れないだろうか。どうせなら触れないだろうか。でもキスもしていない間柄で、そこまでするのもなあ。

 そもそも恋の呪毒で恋に恋している相手に手を出すのは、道理に反する気がする。本当になんで人狼はこんな厄介なことをしでかしてくれたんだ。


 そんな悶々とした思いを溜め込んでいる真っ最中だった。


「そ、そういえば……」

「うん?」


 二人揃ってだいぶ破廉恥な水着姿を思い出す恥ずかしさに耐えかねたのか、翠が話題を変えてくる。


「あの……き、気付いてるか、分からないんだけど……わたしあのプール行った時から、九曜くんのこと、下の名前で呼んでる……でしょ?」

「ああ。そうだな。前は名字呼びだったけど、変わってたよな」


 気付いてはいたが、九曜はスルーしていた。

 おそらく妹の雪姫ゆきひめと関わったので、区別する意味合いだろうと解釈していたからだ。


「そ、それで……その……。……だから……」

「——俺も翠って呼んだ方がいいか?」


 意図を察して、尋ねる。

 予想は当たっていたのか、翠の顔がぱあと輝くように見えた。


 前から思っていたが、大人しめな態度のわりに、感情の分かりやすい女の子だ。


「う、うん。やっぱりこっちの方が、恋人っぽい! え、えへへ……九曜くん」

「……翠?」

「九曜くん」

「翠」


 えへへへへー、とまた翠がにやけていく。

 なんだこのバカップル行為は。


 翠がそそっと近付いてきて九曜の隣に座り直し、肩を触れてくる。

 小指から少しずつ指を絡め、手を握る。


「そろそろ、わたしたち付き合ってから一ヶ月になるね」


 そう。もう一ヶ月が経過しているのだ。

 一度目の満月まで、もうあと二日に迫っている。


 恋の呪毒の期限は、約三ヶ月。

 三度の満月を迎えた時に、呪いと毒が全身を回り死に至る。

 それまでに相手が人狼か人間かを判別し、人間ならばキスをして呪毒を解除してやらねばならない。


 そしてそれは、その少女との蜜月の終わりも意味する。


「そ、それで、ね? だから……も、もう一ヶ月付き合ったわけだし、わたしたちそろそろ……次の段階に進んでも、いいんじゃないかなって……」


 あれ? これまずくね。


「えーと……それはつまり……」

「た、例えば……こういう……こと、とか…………」


 絡めた指を握り直し、翠はそっと目を閉じる。


 喉がごくんと一つ息を呑み込んだように動いて、こちらに少しずつ顔が、唇が近寄って、止まる。


 ——間違いない。これは、キス待ちだ。


 どうする? この状況、どうする?


 翠が人間ならば問題ない。このキスは解呪の効果であり、翠は死の危機から解放されることになる。

 呪われた恋心は解け、翠との恋人関係は失われるだろうが、それは元から辿り着くつもりだった結末だ。望むべき結果といえる。


 問題は、翠が人狼でない確証が、まだまるで見付けられていないこと。


 もし人狼ならば、このキスで九曜は魂を喰らわれることになる。死ぬか、抜け殻になるか、いずれにしろ人間としての生を終える。


 正直なところを言えば、こんなかわいい女の子とは、今すぐにでもキスしてしまいたい。

 しかしそれが命と天秤にかけるとなれば、男子高校生の欲望も少しは冷静になるというものだ。


 どうするべきだ?

 所詮は何分の一かの確率、一か八かでキスしてしまうか?

 止めたとしてもここで拒否したら、翠との関係が今後難しくならないか?

 そもそも、部屋に呼ばれて、手作りのプリンを食べて、名前で呼び合って、この状況で逃げていいのか?

 男としてそれはどうなんだ?

 というか俺は、翠のことを本当はどう思っているんだ?


 わずかな時間。高速に思考を回転させた末。


 九曜は翠の唇に————


「待った」


 ——人差し指を触れた。


「…………あ……ご、ごめんね。い、嫌だった……かな……」

「あー……そうじゃなくて。だな。……次の満月の日。あるだろ。どうせなら、そこでしよう。その時は俺から誘うから。待っててくれ」


 悲しみ、戸惑い。少しの迷い。

 それから、少し頬を紅潮させて、


「……うん。わかった」


 翠は笑顔で、そう頷いた。


「じゃ、じゃあ、わたしはプリンの容器とか片付けてくるね。お母さんもそろそろ帰ってくるかもだし……わ、もうすっかり外暗くなってるよ」


 自分から積極的に迫ったことが今更気恥ずかしくなったのか、あるいは、キスをするタイミングをはっきり宣言されたことで、緊張しているのか。

 どこか落ち着かない様子で、翠はお菓子を片付けて部屋を出て行く。



 ——期限は切られた。


 あと二日。あと二日のうちに、翠が人狼である証拠。もしくは、翠が役能者である証拠を見つけ出すことになる。

 そしてどちらにせよ、翠との恋人関係は、そこでお終いだ。


 いい加減、覚悟を決めなければ。


 そう決意しながら、九曜は窓の外の月を見つめた。



 ◇



 翠の家からの帰り道。


 すっかり暗くなった夜道を歩きながら、九曜はもう満月に近い形の月を見上げた。

 昔から月には魔力が宿っているというが、恋の呪毒について考えていると、月から降り注ぐ光にも妙な恐怖すら覚える。


 街灯がそこら中に点いている今の時代でも、月の光は変わらず夜の道を照らしている。

 助けられているのか、危険に晒されているのか。今はまだよく分からない。


「満月まで——かあ」


 呟きながら、大きな鉄橋を渡っていると、遠吠えが聞こえた。

 狼の遠吠えだ。と、九曜はなんとなく思った。


「……いやいや。狼じゃなくて犬だろ。今の日本に狼はいないし。人狼が月を見て吠える——なんて、そんな生態はしてないだろうしな」


 自分の思考に自分でツッコミをかましながら、一人漫才しつつ鉄橋を歩いて行く。


 そこで、月光の影が九曜に伸びてきているのに気付いた。

 何の影だ……? なんとなしに視線を上げる。


 ——と。


「………………は?」


 そこには、もこもこの毛皮を着た。

 いや、毛皮を身につけた? いいや、全身に毛の生えた。


 二足歩行する狼が、鉄橋の柱の上に立っていた。


「……は? は? いや、いやいやいや。人狼って、そういうことじゃねえだろ。人狼って呼び方は喩えであって、見た目は人間のはず——」


 柱の上から、狼人間が飛び降りてくる。

 九曜の前に着地して、平然と身体を持ち上げる。普通の人間なら軽く足の骨が折れている高さだ。


「ニオウ……ニオウゾ……。ヤツラノニオイダ…………!」


「喋——!? いやいや、やっぱりおかしいだろ。世界観がまるで違うでしょうがよ——ってぇ!?」


 右腕の大振りを、九曜はとっさの動きで躱す。

 鉄橋が爪に削られて火花が散った。


「ニガサン……ゾ……」

「…………冗談だろ、おい」


 後ろを向いて走り出す。

 月の影が、不自然に浮いたように見えた。


「うを——ッ!? ——っとぉ!」


 飛びかかってきた狼人間から、ギリギリのところで飛び退く。倒れ込みそうなところでアスファルトを叩き、姿勢を立て直す。


「どうなってんだこれは!? 意味が分かんね————」


 振り向いた。

 ——その瞬間。長い爪の生えた腕に、腹を深く抉り、飛ばされた。


「か——ッ——は!?」


 九曜の身体が宙に舞う。

 鉄橋から弾き飛ばされ、流れる川へと水しぶきを上げて落ちていく。


 ——静寂。

 そして再び、狼の遠吠えが辺りに響いた。

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