第2話 挑んで落ちて
暗闇は息苦しかった。
まるで死者の行列だ。前を歩く影についていくのはいいとして、とにかく無音が気持ち悪い。
この奇妙な夜がいつまで続くのかと叫び出したいのを必死にこらえた。訪れるかもしれない襲撃に神経を尖らせ、しつこく空を見上げた。
夜になるのも唐突だったが、朝になるのも唐突だ。急に明るくなるから目がくらむ。号令はないが、全員が立ち止まった。
とたんに音が戻ってくる。鳥も一斉に鳴いた。でも姿は見えない。木を叩くような鳴き声や、甲高い鳴き声がうるさいほど合唱している。何種類の鳥がいるんだろう。さっきまで一羽もいなかったくせに。
「休憩だ」
隊長のひとことで食事の時間になった。配られたのは固い焼き菓子が二枚と、薄く切った燻製肉が一枚。みんな同じだ。
美味いものは最後に食べて、その味を口の中に残したい。だから先に焼き菓子をかじった。不味くはないが、美味くもないんだ。味がしないと言ったほうがいいか。
誰かの溜息を耳が拾う。みんな無口だった。俺も黙々と焼き菓子をかじり、お待ちかねの燻製肉を口に放り込んだ。
「休めるときに休まないとね」
ガシルは手早く食事を済ませ、俺の隣で横たわった。それがいけなかった。
肉を胃に収めたとき、急に地面が持ち上がった。ケツの真下から突き上げられたんだ。なにが起きたかを考える前に、急いで飛び降りた。
振り返ると、ガシルが空中に放り出されていた。身をよじって地上を見つめたガシルは、大きな大きなトカゲの口の中に落ちていった。
巨大なトカゲは地面に引っ込んだ。あとにはなにもない。幻でも見たのかと思うほど、草に覆われただけの地面があった。
「ガシルは?」
誰にともなく尋ねた。幻を見たのなら、ガシルが宙に浮いて落ちたのも幻だ。
「どこにいる? ガシル、返事をしろ」
「ロウガ」
近くにいた仲間が俺の腕を引いた。声だけでユウファだとわかる。俺と同じ日に配属された、小柄で童顔の男。
「危ないから離れろ。また現れるかもしれない」
「ガシルはどこだ」
「食われた。見ただろう」
「幻だ。この森はおかしい。惑わされてるんだ」
頬に衝撃があった。遅れて痛みがやってくる。
隊長が俺の顔を殴ったのだと理解した。ユウファの手が俺の体を支えているのも理解した。
「隊長、ガシルがいません」
厳つい顔と向き合って現状を報告する。反対側の頬を殴られた。鉄臭い。鼻水が垂れてくる感触もある。
「ガシルは死んだ」
隊長は表情を一切変えずに、濁声を発した。
「幻などではない。見たものを疑うな」
「死体がありません。行方不明になっているだけです。捜させてください」
「無駄だ。あいつは死んだ。骨も残さず綺麗に死んだ」
断ち切るように隊長は歩き出し、出発を宣言する。
背を押された。「鼻血を拭け」と囁かれる。口の中は燻製の味がして、好きだったはずなのに気分が悪い。
振り向いて地面を見ても、木立の隙間に目を凝らしても、空を睨んでも、ガシルはどこにもいなかった。
怪物の襲撃は続いた。
巨大化するリスも、腐った竜も、何度か遭遇して撃退した。けれどあの化け物トカゲだけは見なかった。
仲間は何人も死に、あるいは脱落し、三回目の夜を迎えた。「三回目」が「三日目」と同じ意味なのかはわからない。時間というものが信用できない。
一回目の夜も二回目の夜も、音が不自然な聞こえ方をするだけで、怪物の襲撃はなかった。だからなのか、三回目の夜は休息を多めに取ることになった。
幹を背もたれにして座ると、どっと疲労が押し寄せてくる。一歩も動けないような感覚になる。
「脱落者が多すぎます」
副隊長の声が耳元で聞こえた。だけど姿は近くにない。かなり離れたところで話しているようだ。
「みな、見事に戦っている」
隊長の声は背後から聞こえた。三本ほど後ろの木が喋っているような聞こえ方だ。
「この森は常識が通用しません。いまなら、まだ引き返せます」
「撤退はない。進むしかない」
「しかし……!」
「引き返したところで活路はない」
これじゃ内緒話なんてできないな。俺も愚痴をこぼすのはやめておこう。すべての発言は意見であり、公言だ。
溜息が深くなった。
太陽が信頼できない。この夜が明ける確信もない。森から出られるかもあやしい。――いや、全滅だ。そうだろう。
あいつは綺麗に死んだと隊長は言った。骨も残さず綺麗に死んだのだと。
その言葉の正しさをずっと考えている。だけど、どうしても納得できない。考えれば考えるほど、内臓が焼けるような心地になる。
髪の毛の一本、骨のひとかけらも故郷に還せないで、なにが「綺麗」だ。なにが「見事」なんだ。
なにを護るためでもなく、こちらから勝手に攻め込んで始めた戦争で、無理やり連れて来られて、無謀な作戦に従い骨も残さず散ることを、綺麗だとは思わない。犬死にって言うんだ。国に人生を奪われた末の無駄死にだ。
生きて故郷に帰ることをガシルは望んでいたはずだ。あいつのところは女ばかりの家族で、母ちゃんも姉ちゃんも妹もいる。あいつの帰りを待ってるはずだ。
ガシルだけじゃない。死体になった仲間も、生きたまま置き去りにされた仲間も、みんな帰りたいはずだ。
帰りたい。
この森さえ抜けられたら。奇襲はたぶん失敗するからそれも乗り切って、負傷してるので戦えませんって判断してもらえたら、片足を失った親父のように帰国できる。
よし。それでいこう。死ぬなら納得して死にたいんだ。どんな体になろうと、
「こんなところで無駄死にするよりマシだ」
腰が浮いた。
心で考えていたことが、はっきりと肉声で聞こえた。自分の声じゃない。聞き間違いでなければ、ガシルの声だった。
急いであたりを見回す。休んでいる仲間たちの影が見えるが、肝心の姿は見つからない。ほかの誰かがいまの声を聞いた様子もない。
ガシルのことがあまりに心残りで、幻聴を聞いたのだろうか。
それとも、この森が持つ不思議現象のひとつなんだろうか。
呼吸を整えた。肩を軽く回して力を抜き、座り直す。
なんにしろ、結論は出た。
戦い続けることを放棄する。どうにかして、帰国する。
目を閉じると自然にうとうとして、仲間に起こされたときには朝だった。三回目の夜は無事に明けたらしい。
立ち上がるため地面に手をつく。そのとき、かすかな揺れを感じた。
ビリッと肌が粟立つ。剣を抜き、盛り上がった地面から駆け降りた。目の前の光景を捕捉する。
あの化け物トカゲだ。何人かが宙に放り出されている。
いちばん高く飛ばされているのは隊長だった。化け物トカゲが口を開けて上を向く。
地面を蹴った。
ガシルを食った怪物。同じ個体かどうかは知らない。けど、きっと同じやつ。こいつだ、こいつがガシルを「綺麗」に食った。
首を狙いたいが届かない。ぶっとい前足を避けて胴体に斬りかかった。
硬い。斬れない。
「隊長!」
副隊長の悲鳴が響く。化け物トカゲが口を閉じた。隊長の姿がない。
「食われた!」
「逃げろ!」
誰かと誰かが叫んでいる。
化け物トカゲが頭を下げた。
地面に潜ろうとしている?
やめろ。逃がさない。
胴体と足のあいだを走り抜けて剣を突き立てた。首じゃなくて、目玉。地面に潜り込む寸前の目玉に剣先をねじこむ。
怪物が頭を跳ね上げた。
剣が一緒に持ち上がる。足が地面から浮く。上からのしかかるような圧が来る。
剣を握り続けていられなかった。背の高い樹木を上から見おろす。
化け物トカゲが片目から血しぶきを上げていた。俺の剣がまだ突き刺さっている。
遠巻きに仲間たちがいる。木と木のあいだに散らばりながら、怪物と、俺を見上げている。ユウファも彫像みたいに止まってこっちを見ている。
化け物トカゲは胴体の上だけを地上に出して、下半身は地面に埋まっていた。口を閉じて、頭を振り回している。
落ちていく。すべてがゆっくりに見える。
ガシルもこんなふうに地上を見たんだろうか。
化け物トカゲはあんなに大きく動いているのに、どうして近くの木は静かなんだろう。ぶつかってもおかしくないのに。
いや、ぶつかっている。でも、すり抜けている。
やっぱり幻なんじゃないか。
それともそういう特殊な能力でも持っているのか。
怪物が大口を開けた。俺に向かって口を開けた。
隊長がいる。
怪物の口の中に隊長がいる。真っ赤な舌に剣を突き立てて、しがみついている。
目が合った。
隊長が剣の前によじのぼる。剣を背にして、ひろげられた腕の中に俺は落ちた。
うねる。
怪物の舌が外へ出る。
手が掴んだものを引っ張り上げながら体をねじった。
この人はこんなに目を剥いて切迫した顔もするのか、と思ったとき、それが消えた。
真っ赤な舌が横っ面をはたいてくる。乱暴に口の中へ戻されてしまった。ぽっかり開いた外への穴が見える。が、すぐに塞がり真っ暗になった。
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