六冊目 愛しい名前

六冊目 愛しい名前-1

 桜子は、椅子の上で膝を抱えて縮こまっていた。その姿は、赤い花が蕾に戻ってしまったようだった。家の中には、桜子の生み出す音しか聞こえない。とても、静かだった。


「なぜじゃ……」

 呟かれた言葉に答える者はいない。書き置きもなく、柳が姿を消してから、何日も経った。近くを探し歩いてみたり、おばちゃんたちに聞いても手がかりはなかった。


「ふんっ! 柳がおらぬことくらい何てことないわ」

 椅子から飛び降りて、桜子は紅茶を淹れることにした。確かお菓子も少しは残っていたはずだ。まずはティーポットの用意、なのだが、それが仕舞ってある棚には桜子の背では届かない。踏み台を両手で抱えて持ってきて、そこに背伸びをして立って、ようやくティーポットを手元に置く。ついでにティーカップも。続けて、茶葉を選ぼうとしたのだが、そもそもどこに置いてあるのか分からない。


「むぅ……柳のやつ、どこに隠したのじゃ」

 温度や湿気の管理が大切だとは聞いていたが、ここまで場所が分からないとは想定外だった。いくつかそれらしいところを見てみたが、どれも外れだった。確認するために、台を抱えて移動して、背伸びをして探して、降りて、移動して、と繰り返して桜子は疲れてしまった。


「別に、喉がものすごく渇いているわけではないからのう。別に。いいのじゃ」

 桜子は、紅茶タイムから、読書タイムに気分を切り替えた。店の壁を埋めつくしている本たちに無作為に手を伸ばす。規則的に紙と紙とがこすれる音が物書き屋を満たす。読み終わると、次に目についた本に手を伸ばし、読み始める。そのサイクルをどれくらい繰り返しただろうか。桜子は、入り口近くの本棚の前にしゃがみこんでいた。今、手にしているのは十五年ほど前に書かれた、マグカップの話。


 読書に集中していた桜子は、戸の向こうに人影が現れたことに、気がつかなかった。


「あの、こんにちは……」

「ぬわっ!」

「わっ」


 桜子は、突然の来客に驚いて声をあげ、客の方は視界の下に少女がいたことに驚き、お互いに一瞬、固まってしまった。


「えっと、ここって物書き屋、だよね」

「うむ、そうじゃが」

 桜子は胸を張って、威厳を醸し出してそう答えた。しかし、客である女性はきょろきょろと店内を見回していた。


「店主さんは、お休み? 依頼をしたかったんだけど……」

「うむ、今は――――いや、何でもない。依頼があるなら、この桜子が聞いてやるのじゃ」

 柳の不在を理由に断ろうとしたが、それではなんだか腹が立つので、やめた。女性は少し迷ったようだったが、やがて、口を開いた。


「えっと、出張、はしてくれますか?」


「む?」

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