五冊目 時は進む、あなたと共に-7




 それから一週間ほど経ったころ、灯が物書き屋を訪ねてきた。店には客はおらず、桜子も留守にしていた。


「こんにちは、灯さん。桜子さんに用事ですか? あいにく今は出掛けていて」

「いや、お前に用があってきた」

 灯の声には少し硬さがあり、柳は何事かと眉をひそめた。作業をしていた手を止め、灯を奥のテーブルへと促し、自身も腰かけた。


「柳、本部に来い」

「いえ、それは、お断りをしたはず……」

 灯はその返答を予想していたのか、一つ頷いただけで流した。そして、両肘をテーブルにつけて、顎の下で手を組んだ。


「言おうかどうか迷ってたんだがな。柳、付喪神が覚えていない・・・・・・記憶が曖昧・・・・・、なんてことはあり得ないんだ」

「……え」

「ただの物であるときも、付喪神となってからも、俺たちは一度見聞きしたことは忘れない。忘れられないんだ」

「でも、トキさんは前の持ち主の顔は覚えてないと」

 柳の言葉に、灯は複雑な表情をした。そして、痛みをこらえるように、言った。


「まあ、実を言うと例外もいる……。だが、トキのそれは強がりだろうな。自分を捨てたやつの顔を、忘れたことにしたかったのだろう」


 少し冷静になった柳は、物書き屋を始めてから来店した客のことを、例外なく覚えていることに気がついた。桜子の元でただの万年筆として過ごしていた日々もきちんと覚えている。人に使われていたことも。しかし、人の手から桜子の手に渡ったころのことが、全く分からない。覚えていない。


「桜子は、お前に出会ったころのこと、何と言っている?」

「特には。気がついたらいた、とかそんな感じでした」

「やはり、そうか」

 灯は確信を得たように、しかしどこか落胆して、息をついた。


「柳。桜子は、お前に重大な嘘をついている」

「そん、な……」

 柳は、驚きのあまり、吸った息を上手く吐き出せずに肩を小刻みに震わせた。灯は硬い声で続けた。


「管理課には、多くの付喪神の情報がある。それらが付喪神となる前のことも、調べれば出てくるんだ。ここ一週間、お前のことを調べてみた。人の手から、桜子の手に渡るまで、空白の期間がある。桜子はその頃はすでに開化している。譲り受けたのなら、空白は出来ない。つまり――」

「捨てられたんですね、私は」


 灯の沈黙が答えだった。今まで、捨てられた物の話を聞いて執筆することもあった。しかし、頭のどこかで自分とは関係のないことだと思っていた。自分は、ずっと必要とされてきたのだと、そう思っていた。


「……俺の憶測だが、記憶が飛んだのは不可抗力だろう。お前は、六十年ほど、二世代に渡って人の元にあった。人の物として順応していた、それはごく自然なことだ。その後、桜子の――四百年もこの世に在る付喪神の物になったことで、バランスが崩れ、その付近の記憶が飛んだ、ということだと思う」

 柳は混乱していたが、意外と頭は冷静だった。灯の言うことを理解し、納得して静かに頷いた。


「実はな、本部には、さっき言った例外、記憶がないやつもいるんだ。能力を持っているやつもいる。会ってみないか」

 その言葉に、柳はすぐには頷かなかったが、揺れているのは見てとれた。灯はもう一言付け加えた。


「お前のその能力、こっちで使わないか」

 答えあぐねる柳に、待っている、と言い残して、灯は物書き屋をあとにした。








「強引な真似したが、許せよ。桜子。こっちも手が足りなくて大変なんだ」

 灯は、店を出て少し歩いたところで振り返り、家そのものにそう語りかけた。嘘を言ったわけではないが、言わなくていいことを言った自覚はある。胸ポケットに手を当てて、ぽつりと呟いた。

「トキを置いてきて正解だったな、これは怒られる」








 柳は、灯と話した体勢のまま、長い間動かなかった。頭だけがずっと働いている。思考の渦の中で、もがいていた。

「…………」

 そして、柳の中の、何かを繋いでいた糸が、切れた。

 万年筆と、簡単な荷物だけ持って、柳は物書き屋に背を向けて、歩き出した。一度も振り返ることはなかった。









「帰ったのじゃー。おーい、やーなぎー」

 静かすぎる店内に首をかしげて、桜子は柳の姿を探す。カウンターの下や、本棚の後ろ、執筆室も覗くが、見当たらない。二階に上がり、押し入れの中のシャツをかき分けてまで探したが、いなかった。買い物に行くなどという書き置きもない。

「柳……?」

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