四冊目 また会う日まで-3



 翌日、ひとみが物書き屋を訪れた。約束通り英語を教えにきたのだ。薄手のジャケットを着て、昨日はしていなかったメガネをしていて、中指でクイっとブリッジを持ち上げた。


「おぬし、普段はメガネをかけておるのか?」

「ううん。これは伊達メガネだよ。先生っぽいでしょ?」

 形から入るタイプらしい。席についたひとみは、改まって背筋を伸ばした。


「では、改めまして、英語の家庭教師をする、ひとみです。どうぞよろしくー」

 その口調に合わせて、柳が拍手をして、パチパチパチと渇いた音が響く。頬杖をついたままの桜子に人差し指を突き立てられた。


「さっちゃんも、ここで拍手!」

「さっちゃん!?」

 初めての呼ばれ方に、桜子は思わず大声で聞き返した。ひとみは動じることなく、むしろ得意気に解説を始めた。


「桜子ちゃんを短くして、さっちゃん! 呼びやすいし、可愛いでしょ」

「むぅ……。まあ、よいか」

 ひとみの楽しそうな表情を見て、桜子は訂正させることを諦めた。ちらりと柳の方を見て、桜子はひとみに問いかけた。


「柳のことは何と呼ぶのじゃ?」

「うーん、どうしようかな。柳さんだから……やっさん?」

「ぶふっ」

 何気なく聞いた、その答えが想像以上に面白くて、桜子は吹き出してしまった。当の柳も複雑な表情を浮かべている。


「あの、もう少し違うものでお願い出来ませんか」

「えー、じゃあ、ナギーで!」

「一気にグローバルになりましたね」

 柳は呆れが入った笑顔で返したが、やっさんよりはましだと判断したのか、それ以上不満は言わなかった。


「ではでは、まずは単語をやっていくね」

「うむ。よろしく頼むのじゃ」

 ひとみはもう一度、メガネをクイっと上げると、人差し指を自分に向けた。


「私のことは、I」

「あい」


「あなたのことはyou」

「ゆー」


 続けて、柳、桜子の方に指先を向けた。それに合わせて、桜子の目線も動く。


「彼はhe 彼女はshe」

「ひー、しー」


 流暢なひとみの言葉を繰り返すが、どうも桜子はひらがな口調になってしまう。ひとみは、柳にも単語のリピートを促した。


「I you he she」

「アイ、ユー、ヒー、シー」

 桜子よりは、英語に近づいているように聞こえる。桜子は、一人であい、ゆー、ひー、しーを繰り返していたが、あることを思いつき、ひとみの袖を引っ張った。


「これは、机はなんと言うのじゃ」

「机は、table 椅子はchair」

「てーぼー、ちぇあー」

 だんだん楽しくなってきた。知らない言語のことを知っていくのは、面白い。桜子は目についた物を次々に指さしては、目を輝かせてひとみの方を振り返る。


「本は?」

「book」


「ペンは?」

「pen」


「ペンはそのままペンなのじゃな。ふむふむ、では窓はどうじゃ?」

「windowだよ」

「うぃんどー」

「windowですか」

「あ、ナギー今のいい感じ!」

「恐縮です」

 柳は首に手をやって、少し照れたように笑った。そして、桜子と同じようにひとみに質問をする。


「あの、紅茶はどう言うんですか?」

「紅茶はteaだよ」

「てぃー」

「tea」

 すっかり生徒になった桜子と柳はひとみの言葉を繰り返す。紅茶からの連想で、桜子はお菓子を聞いてみた。日々に欠かせないものなのだから。


「お菓子かー、お菓子全般のことだと、sweetsかな」

「おお、スイーツは知っておるぞ! スイーツ!」

 桜子は、嬉しそうにスイーツを連呼する。そして、ふと今日のお菓子のことを思い出した。


「柳、今日のお菓子は何じゃ?」

「今日は、チョコレートバウムクーヘンにしましょうか」

「うむうむ」

 桜子は満足そうに頷き、ひとみも顔をほころばせている。昨日は、プレーン、今日はチョコレート。二日続けて違う味を食べるとはなかなか楽しみがいがある。柳は微笑んで立ち上がった。


「では、持ってきますね。ひとみさんの分も用意してよろしいですか?」

「うん! やったー」

「バウムクーヘンじゃー」

 英語の授業は一時中断で、お菓子タイムが始まった。白いプレートに、切り分けられたバウムクーヘンが元の円状に並んでいる。桜子はさっそくフォークでそれを食す。


「うむ。昨日のも美味しいが、チョコも美味しいのう~」

「ねー。あたし、お菓子大好きだけど、食べる専門だなー」

 トレーに紅茶を乗せて戻ってきた柳がひとみの言葉に首を傾げた。今日は香りからしてレモンのものらしい。濃い味のチョコレートバウムクーヘンとのバランスが良さそうだ。


「食べる以外にもあるんですか?」

「ん? ああ、あたしの高校の友達で、すごいお菓子作りが上手な子がいて。その子を思い出してねー。来週会うから楽しみで」

 柳はなるほど、と微笑み、遅れて席につきバウムクーヘンを食べ始めた。フォークで小さく切り分けて、バームクーヘンを口まで運ぶ。柳の食べ方は手本のように綺麗である。


「その子ね、洋菓子も和菓子も出来るの。すごいでしょ」

「それは、すごいですね。桜子さん、その方からお菓子の作り方を習ってみたらどうですか?」

 柳の口調はからかうようなニュアンスを含んでいる。紅茶を楽しんでいた桜子は、少し口を尖らせて、ぷいっと顔を振った。


「わたしは食べる専門でよいのじゃ」

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