三冊目 赤い記憶-5
物書き屋に帰ってきた桜子は、ショートケーキパンを食べながら、本の完成を待っていた。刻んでいたチョコは、柳が牛乳を加えてホットチョコレートにアレンジした。甘い香りが店を包んでいた。
桜子がホットチョコレートのおかわりをしようか迷いだしたころ、執筆室から柳が出てきた。その表情は険しく、意識的に深い呼吸を繰り返していた。何かを言いかけて、口をつぐみ、桜子に本を差し出した。
「うむ」
~・~・~・~・~・~・~・~
「いいもの作るには、いい道具からだよな」
あいつとの出会いはその言葉だった。俺を色んな角度から見てそう言った。それが誇らしかった。こいつのためなら、働いてもいいか、と思った。
それから、ほぼ毎日、俺はあいつのために働いた。忙しいが、まあまあ充実してたな。あいつを観察していると、だんだんと分かってきた。あいつは知り合いが多いようだ。それに、仕事らしき電話、家に来た友人とのやり取りを聞く限り、要領のいいやつなんだろう、ということも分かった。今まで、危なくない橋を選んで歩いてきたんだろうな。
ああ、あとは、彼女はいるってこともすぐに知った。それも、二人。家に入れ替わりにやってくる二人の女は、正反対だった。静かに笑う黒い頭のやつと、よくしゃべる金色の頭のやつ。
「俺が好きなのは、君だけだ」
とか、同じ言葉を両方ともに吐いていた。なんか、まあ、よくやるなあと。それ以上は考えないようにしていた。俺には関係のないことだと。
この場所にもだいぶ慣れてきて、仕事ぶりも様になってきたと自負していた。何度か手入れもされていたが、それが終わるたびにあいつは言った。
「やっぱりいい道具は、いいな」
それを聞くたびに、俺のいるべき場所はここだと思った。ここで働くことが、俺に与えられた使命だと。
あるとき、いつものようにあいつが黒い頭の方と夕食を食べていた。俺は一仕事終えて、休憩をしていたが、突然、黒い頭が怒り出した。よくよく聞いてみると、金色頭のことがばれたらしい。ついに。いや、やっとか。
「二股なんて最低よ!」
「待て、話を聞いてくれ」
「言い訳する気? あり得ない。触らないで」
「落ち着いてくれ。今日は遅い。また後日、ちゃんと話をさせてくれ。頼む」
まあ、こんな感じで黒い頭をなんとかなだめて、その場を収めたようだ。あいつは、送っていく、と言って連れ立って家を出た。そのとき、何故か俺も鞄に入れられて、連れて行かれた。
長い時間、鞄の中にいた気がする。外に出されて、見たのは怯える黒い頭だった。俺は汗ばんだあいつの手に握られていた。
「いやっ、来ないで……やめて!!」
「お前が悪いんだぜ。黙って俺に、金を出していれば良かったものを」
一瞬で状況を把握して、凄まじい怒りが込み上げてきた。ふざけるな、やめろ。
グサッ。
嫌な音がした。
ギリギリで俺は、刃を反らせて深く刺さる前に骨に当てた。刃先が少し欠けたが、どうでもいい。とにかく、致命傷は避けられたはず。頼む、死ぬなよ。
俺は、料理の手伝いをすることが仕事だってのに。今まで役に立ってきたはずだろう。なのに、どうして、こんな。
「ああ、やっぱりいい道具は、よく切れる」
………………は?
こんなことに使っておいて、その言葉はないだろう。俺が、どんなにその言葉を……。ふざけるな。
綺麗に拭きとったって、俺が赤く染まった事実は消えない。許さない。いっそ、黒い頭と共に置いていってくれればよかったものを。許さない。
この店に持ってきたのも、俺の話を聞きたいわけじゃない。見つかりにくい証拠の隠し場所ってことだ。要領のいいあいつらしい。
ふざけるな、俺は、お前を絶対に許さない。お前を許さない。許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない
~・~・~・~・~・~・~・~
「……そうか」
読み終えた桜子は、それだけ呟くと、本の表紙をゆっくりと何度も撫でた。表紙には『赤い記憶』と書かれている。
「この“包丁”は、傷害事件の凶器、ですね」
「うむ。昨日、重傷者が病院に運ばれたと言っていたからのう。十中八九それじゃろう」
「ということは、依頼に来られたあの人が」
柳は、依頼者の様子を思い出して、顔を曇らせた。確かに早々に店を出ていって、愛想がいいとは言えなかったが、ごく普通の男だった。とても狂気を秘めているようには見えなかった。スーツを身に付けていたということは、あの後は仕事に行ったのだろうか。赤く染まった包丁を握っていたその手で、電車のつり革を握ったのか。
「あの人を探しに行きますか」
柳の問いかけの中には、依頼者の男への嫌悪が生まれていた。捕まえるべきだと目が言っている。しかし、桜子はゆっくりと首を左右に振った。
「いいや。わたしたちは、物書き屋としての仕事をするだけじゃ」
「でも――」
「柳。物書き屋の仕事は何じゃ」
柳は、反論を止められ、一度深呼吸をした。気持ちを落ち着かせてから、桜子の問いに答えた。
「物の想いを本に書いて、お預かりした物と一緒に持ち主へ返すこと、です」
「そうじゃ」
「……」
不満を隠そうともしない柳。桜子は諭すように続けられた言葉。その口元にはわずかに笑み。
「では、持ち主の名前も連絡先も分からない不審な物は、
「……!」
桜子の意図を理解した柳は、息を飲んだ。そして、出来上がったばかりの本と包丁をてきぱきと布で包んだ。それを紙袋に入れて、柳と桜子は店を出た。
目的地は、交番。目につきやすい入り口に、そっと紙袋を置いた。通りがかった人でも、見回りをしようと外に出た警察官でも誰でもいい。この存在に気づくのならば。
「ここから先は、人間の問題じゃ」
温度のない言葉を投げ捨てて、桜子は背を向けた。振り返ることもなく、来た道を戻っていく。人を傷つけるために、物を使ったような人間に対して、これ以上関わりたくはない、ということだろう。
柳は、包丁をじっと見つめて、静かに声をかけた。
「あなたの持ち主の物語の続きが、正しいものであると願っています」
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