三冊目 赤い記憶-4
「おかしいですね……」
休憩のために一旦、執筆室を出た柳は、時計を見て呟いた。針が示すのは午後二時五十分。普段なら、どうということもないのだが、今日は違う。理由は昨日の会話である。
~~
「カヌレ、美味しいのう! 次はチョコがけで食べるのじゃ」
「食べ過ぎですよ。チョコがけはまた明日にしましょう」
「なんじゃと!」
「はい、仕舞いますよー」
「むむむ。ならば、明日の三時のおやつの時間に食べるのじゃ! 柳、チョコを用意しておくのじゃ!」
「はいはい、かしこまりました」
~~
わざわざ時間まで指定して、桜子がお菓子の約束をしたのだ。あれだけ食べたがっていたのだから、それを棒に振ることは、まずない。
「まあ、とりあえずチョコを溶かしておきましょうか」
チョコレートを包丁で丁寧に刻んでいき、ボウルに入れる。甘いのが好みの桜子のために、練乳を少し加える。湯を沸かして、湯せんの準備をしようとするが、柳は手を止めた。一度溶かしたチョコが冷めてしまうと、美味しさが半減してしまう。
桜子が帰ってきてから作業を再開することにし、店で待つことにした。
「……遅いですね」
十分、二十分たっても帰ってこない。執筆室に置いている物と結び付けて、嫌な予感が背中に張り付いてきた。
「あーもう、仕方ないですね」
柳は、わざと音を立てて戸を開閉した。物書き屋を出て、近くを探し回る。が、赤い少女は見当たらない。自然と足が早まる。いったいどこまで行ったのか。
付喪神として長く在る桜子は、決して子どもではない。一人にしたところで、桜子なら心配はいらない。ということは、よく分かっている。分かってはいるが、こちらが落ち着かない。
「桜子さん……」
「ちょっとー! イケメンのお兄ちゃん!」
「こっちこっち!」
「ん?」
後ろから肩を叩かれて、振り返ると、近所のおばちゃ――奥さん集団が笑っていた。悪意がないことは分かっているが、勢いが凄まじいため、柳はあまり彼女たちが得意ではなかった。
「どうも、こんにちは」
挨拶もそこそこに、立ち去ろうとする。が、そう簡単には解放してくれないようだった。
「相変わらず、かっこいいわねー」
「本当に。目の保養だわ。あ、飴いる?」
「いえ、お構いなく……」
あっという間に、彼女たちのペースだった。柳はどうやってこの場から抜け出すかを考えていた。その間にも、会話は続いていく。
「そうそう、最近、変質者がうろついてるらしいから、気をつけなさいね。桜子ちゃんには言っといたんだけど、あなたにも一応ね」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「ところで、ショートケーキパン、美味しかった?」
「?」
聞き慣れない名前に首をかしげると、今度は彼女たちが、首をかしげた。
「あれ? 桜子ちゃんが買って帰るって言ってたのよ」
「せっかくだから、感想を聞こうと思ったのだけど」
変質者、聞き覚えのないパン、帰ってこない桜子。ますます嫌な予感がした。張り付いてきたその予感は、どんどん存在を主張してきた。しかし、柳はそれを顔には出さない。
「実は、さっき桜子さんが行ったときは売り切れだったらしく、もう一度見てきてほしいと言われたんです。でもお店の場所が分からなくて。教えていただいてもいいですか?」
さらさらと吐いた嘘とともに、彼女たちに問いかける。柳の営業モードの笑顔のおかげもあって、答えはすぐに返ってきた。
「そうだったのー。そのパン屋に行くなら、反対方向になるわね」
「この道を真っ直ぐ行って、二つ目の角を左に曲がって、少し行ったら正面に見えるはずよ」
「ありがとうございます」
柳は礼を言うと、後ろからさらに聞こえる彼女たちの声には聞こえないふりをして、パン屋へと向かった。教えられた道順の通りに行くと、すぐにパン屋は見つかった。穴場なのか、周囲の人通りは少なめだった。少なくとも、このあたりにはいたはず。
「どこです……」
周囲を駆けまわり、だんだんと息があがってきた。頭を大きく左右に振って見回す。夕陽があたりを照らし始めた。ふと、目の端に赤い花が映った。正確には花ではない。赤い着物に咲いた花だ。
柳はすぐさまその花の元へと走る。
「!」
そこには、予想通り桜子がいた。が、見知らぬスーツの男に腕を掴まれているところだった。
「まずいっ」
瞬時に状況を把握した柳は、焦りに満ちた声を上げた。深く考える前に、走って男との距離を縮める。
「なんだ、おま――」
柳は左足のかかとに重心を置いて、右脚を振り上げる。と、同時に体をひねる。顔の前に構えた手の奥で、鋭い目が男を捉えている。膝、足首までが真っ直ぐに伸びた右脚が、的確に男の脳に衝撃を与えた。
「うっ」
抵抗する間もなく、華麗な回し蹴りを受けた男はその場に倒れ、気絶した。柳は詰めていた息を吐き切った。
「はあ……」
「おお、柳。お見事」
桜子は、小さな手でパチパチパチと間の抜けた拍手を送った。
「何してるんですか、桜子さん」
「こいつが一緒に来いなどと言うのでな」
桜子はしゃがんで、無様に倒れた男をまじまじと見る。おそらく軽い脳震盪だろう。しばらくしたら目を覚ます。
「まあ、わたし一人でも大丈夫じゃったがのう」
「大丈夫じゃないです! この人が!」
のん気に言う桜子を叱りつけるように、声を荒げた。柳が駆けつけたとき、桜子は、腕を掴まれてはいたが、腰を落とし、重心を後ろに乗せていた。全力の戦闘準備の体勢だったのだ。止めに入らなければ、無事では済まなかっただろう。今伸びているこの男の方が。
「今度は何を割る気だったんですか」
「それは、あた――」
「いや、いいです」
物騒な予感がしたので、柳は桜子の言葉を遮った。考えてみれば、自分の身を守るためなら、男の足を払うぐらいで逃げればよかったものだが。柳は小さな疑問を投げかけてみた。
「桜子さん、なんでそんなにやる気、というか倒す気満々だったんですか」
「……柳、おぬし車は運転するか?」
「しませんよ。というか、そもそも物書き屋に車なんてないじゃないですか」
「そういうことじゃ」
「?」
答えになっていない答えを返されて、首をかしげた。桜子は渋々といった様子で捕捉をしてくれた。
「悪意しかない嘘など、他の者がおぬしを騙るなど、わたしは嫌いじゃし、気に食わぬのじゃ」
桜子はそれ以上言うつもりはないようだった。なんとなくこの男が何を言ったかを察した柳は、追及をやめ、再び男に視線を移した。
「この人どうしましょう。一瞬、朝いらっしゃったお客さまかと思いましたが、別人でしたね。噂になっていた、変質者、でしょうか」
「うむ。縛っておくかのう」
桜子は赤い袂から縄を取り出した。2mはあるそれを柳に放り投げた。
「え、なんでこんなの持ってるんですか」
「気にするな」
柳は、なんとも言えない表情をしながら、男を身動きが出来ないように縛り上げた。がさごそと手を動かしていた桜子は、男の胸元のポケットからペンとメモ帳を見つけたようだった。そして、何かしら書いて男に持たせるようにして置いた。
「ふんっ」
そこには『私は見知らぬ可憐な少女に声をかけて連れ去ろうとする変態です』と書かれていた。
「さあ、帰りますよ」
「うむ」
「手でも繋ぎますか?」
「子ども扱いするでない」
およそ子どもらしくない、赤い着物の少女が隣にいる、柳にとっての日常が戻ってきて、安心で肩の力が抜けた。目線の先に、先ほどのパン屋が見えてきた。
「ショートケーキパン買って帰りましょうか。私も気になってきました」
「仕方ないのう。付き合ってやるか」
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