三冊目 赤い記憶-2




 そのまた翌日。物書き屋には変わらず、静かでゆったりとした時間が流れている。柳は店にいるが、桜子は自室で暇を持て余していた。


「うむ。やはりこれは、さわり心地がよいな」

 桜子の部屋には、ぬいぐるみも同居していた。可愛らしいクマ、うさぎ、招き猫、ウシ、ブタ、もう一つクマ。桜子は小さい手のひらで、それらと戯れている。


「ふにふに具合は、うさぎが一番じゃな。いや、ウシもなかなか……」

 桜子は、うさぎをお供に柳の部屋に入ってみる。部屋の主は、一階にいて、おそらく気づかない。


「何か面白いものないかのう~」

 勝手に物色を始めた桜子は、愉快そうに鼻歌を歌っている。が、そもそも物が少ない柳の部屋は、早々に見るものがなくなってしまった。ふと、桜子の頭にあるものが思い浮かんだ。


「紅茶帳は、机の引き出しかのう? ……おっ、あった」

 桜子が見ようとするたびに、何気なく柳に阻止されていた。本人がいない今なら、見ることが出来る。わくわくしながら、桜子は紅茶帳を開いた。


「うーむ」

 そこには、紅茶の銘柄、等級、味、淹れ方、特徴などがこと細かに記されていたが、桜子にとっては、そう興味があるものではなかった。飲むことは、好きなのだが。

見慣れない単語が目に入った。


「ごーるでんどろっぷ?」

 整った柳の字で書かれたメモによると、ティーポットからティーカップへ紅茶を注いだときの最後の一滴のことをゴールデンドロップというらしい。紅茶の美味しさが凝縮されているという。


「ほぉー、面白いのう。今度淹れてるところも見てみるかのう」

 桜子はパラパラと紅茶帳のページをめくっていく。ふいにその手が止まる。


「む?」

 桜子の視線は、ピンク色で書かれている小さな文字を見つけていた。よくよく見ると、それは<桜子さんのお気に入り>とあった。


「や、柳のやつ……」

 何かからかう材料を見つけようと物色したというのに、逆にしてやられたような気分だった。お供のうさぎに顔をうずめて、頬の赤みが落ち着くのを待った。

 唐突に、大きな音が響いた。一階、店の方からだった。続けて、柳の声が聞こえる。




 店の引き戸が荒々しい音を立てて来客を知らせた。静かな朝を吹き飛ばすような音に驚きながらも、柳はいつものように笑顔で出迎えた。

「ようこそ、物書き屋へ」

「ここが噂の、物について話を書くという店か」


 スーツ姿の男が、周りの本には目もくれず、柳に問いかけた。マスクをしているため、その声は少し聞こえにくかったが、会話には問題ない。


「ええ。ご依頼ですか?」

 二階から、桜子が足音を弾ませて降りてきた。久々の客が、暇を追い払ってくれるだろうと期待の表情を浮かべている。


「これを頼む」

 男は、紙袋ごと柳に差し出してきた。書類を書いてもらうために、テーブルへと案内しようとする。


「どうぞ、こち――」

「急ぐから、これで」

 それだけ言うと、止める間もなく踵を返して店を出てしまった。


「……行ってしまいましたね」

「せわしないやつじゃのう」

「お名前も連絡先も分からないですね。どうしましょう」

「まあ、そのうち取りに来るじゃろう。で、なんじゃこれは」

 桜子に促されて、柳は紙袋の中から依頼の物を取り出す。丁寧に布で包まれていたそれをテーブルの上に置き、まじまじと見る。


「少し、欠けてますね……。使い込んだ物なんでしょうか」

 桜子もその横でじっと見つめている。桜子が見ているのは、物そのものではなく、傍にいるツボミ。桜子は目線を動かさないまま、柳に声をかけた。


「柳、すぐに書くのじゃ。今、すぐに」

「え?」


 柳もツボミに視線を移すと、身振り手振りで必死に何かを訴えている。切羽詰まった様子で、尋常ではない。

 柳がツボミの声を聞くことが出来るのは、万年筆を持ち、集中している時だけだった。今この場では声は聞こえない。だから、桜子は早く書け、と言っているのだ。


「急いだらどれくらいじゃ?」

「全速力ですれば、明日には」

「今日中じゃ」

「そんな」

 無茶なことを言っているのは、桜子自身も分かっているはずだった。だが、それほどこの物には“何か”あるのだろう。折れるのは柳の方だった。


「分かりました。今日中に」

「うむ」

「では、名無しさま、そして桜子さんからの至急でのご依頼、物書き屋が店主、柳が――」

「それはよいから、早くするのじゃ!」

 桜子に背中にぐいぐいと手のひらで押されて、執筆室に押し込まれた。


「えぇー、それくらい言わせてくださいよー」

「ほら、書くのじゃ」

 軽口を口にした柳だったが、それは緊張をほぐすため。そして、桜子が柳の冗談を流すほどに、時間が惜しいというのが、不安を煽る。


「では、始めましょうか」


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