三冊目 赤い記憶-2
*
そのまた翌日。物書き屋には変わらず、静かでゆったりとした時間が流れている。柳は店にいるが、桜子は自室で暇を持て余していた。
「うむ。やはりこれは、さわり心地がよいな」
桜子の部屋には、ぬいぐるみも同居していた。可愛らしいクマ、うさぎ、招き猫、ウシ、ブタ、もう一つクマ。桜子は小さい手のひらで、それらと戯れている。
「ふにふに具合は、うさぎが一番じゃな。いや、ウシもなかなか……」
桜子は、うさぎをお供に柳の部屋に入ってみる。部屋の主は、一階にいて、おそらく気づかない。
「何か面白いものないかのう~」
勝手に物色を始めた桜子は、愉快そうに鼻歌を歌っている。が、そもそも物が少ない柳の部屋は、早々に見るものがなくなってしまった。ふと、桜子の頭にあるものが思い浮かんだ。
「紅茶帳は、机の引き出しかのう? ……おっ、あった」
桜子が見ようとするたびに、何気なく柳に阻止されていた。本人がいない今なら、見ることが出来る。わくわくしながら、桜子は紅茶帳を開いた。
「うーむ」
そこには、紅茶の銘柄、等級、味、淹れ方、特徴などがこと細かに記されていたが、桜子にとっては、そう興味があるものではなかった。飲むことは、好きなのだが。
見慣れない単語が目に入った。
「ごーるでんどろっぷ?」
整った柳の字で書かれたメモによると、ティーポットからティーカップへ紅茶を注いだときの最後の一滴のことをゴールデンドロップというらしい。紅茶の美味しさが凝縮されているという。
「ほぉー、面白いのう。今度淹れてるところも見てみるかのう」
桜子はパラパラと紅茶帳のページをめくっていく。ふいにその手が止まる。
「む?」
桜子の視線は、ピンク色で書かれている小さな文字を見つけていた。よくよく見ると、それは<桜子さんのお気に入り>とあった。
「や、柳のやつ……」
何かからかう材料を見つけようと物色したというのに、逆にしてやられたような気分だった。お供のうさぎに顔をうずめて、頬の赤みが落ち着くのを待った。
唐突に、大きな音が響いた。一階、店の方からだった。続けて、柳の声が聞こえる。
店の引き戸が荒々しい音を立てて来客を知らせた。静かな朝を吹き飛ばすような音に驚きながらも、柳はいつものように笑顔で出迎えた。
「ようこそ、物書き屋へ」
「ここが噂の、物について話を書くという店か」
スーツ姿の男が、周りの本には目もくれず、柳に問いかけた。マスクをしているため、その声は少し聞こえにくかったが、会話には問題ない。
「ええ。ご依頼ですか?」
二階から、桜子が足音を弾ませて降りてきた。久々の客が、暇を追い払ってくれるだろうと期待の表情を浮かべている。
「これを頼む」
男は、紙袋ごと柳に差し出してきた。書類を書いてもらうために、テーブルへと案内しようとする。
「どうぞ、こち――」
「急ぐから、これで」
それだけ言うと、止める間もなく踵を返して店を出てしまった。
「……行ってしまいましたね」
「せわしないやつじゃのう」
「お名前も連絡先も分からないですね。どうしましょう」
「まあ、そのうち取りに来るじゃろう。で、なんじゃこれは」
桜子に促されて、柳は紙袋の中から依頼の物を取り出す。丁寧に布で包まれていたそれをテーブルの上に置き、まじまじと見る。
「少し、欠けてますね……。使い込んだ物なんでしょうか」
桜子もその横でじっと見つめている。桜子が見ているのは、物そのものではなく、傍にいるツボミ。桜子は目線を動かさないまま、柳に声をかけた。
「柳、すぐに書くのじゃ。今、すぐに」
「え?」
柳もツボミに視線を移すと、身振り手振りで必死に何かを訴えている。切羽詰まった様子で、尋常ではない。
柳がツボミの声を聞くことが出来るのは、万年筆を持ち、集中している時だけだった。今この場では声は聞こえない。だから、桜子は早く書け、と言っているのだ。
「急いだらどれくらいじゃ?」
「全速力ですれば、明日には」
「今日中じゃ」
「そんな」
無茶なことを言っているのは、桜子自身も分かっているはずだった。だが、それほどこの物には“何か”あるのだろう。折れるのは柳の方だった。
「分かりました。今日中に」
「うむ」
「では、名無しさま、そして桜子さんからの至急でのご依頼、物書き屋が店主、柳が――」
「それはよいから、早くするのじゃ!」
桜子に背中にぐいぐいと手のひらで押されて、執筆室に押し込まれた。
「えぇー、それくらい言わせてくださいよー」
「ほら、書くのじゃ」
軽口を口にした柳だったが、それは緊張をほぐすため。そして、桜子が柳の冗談を流すほどに、時間が惜しいというのが、不安を煽る。
「では、始めましょうか」
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