十月二日② 藤行幸恵

 津久野つくの流華るかは、今日、幸恵さちえの娘の菜帆なほが会っていた娘だった。

 流華の妹と菜帆が小学校からの同級生で、お互いの家を行き来して遊ぶうちに仲良くなった。

 幸恵のことをさっちゃん、と呼んでとても懐いていた。

 県外の大学進学を期に寮に入ってからは、流華と会う機会はほとんどなくなってしまっていた。


 彼女は近くにいた看護師に通行証のようなカードを見せると、姿勢良く幸恵のベッドまで歩いてきた。

 病室にいた人々は手慣れた様子で、何も言わずに退室していった。


「お久しぶりです」


 流華は艷やかな栗色の髪を揺らし、綺麗にお辞儀をしてから椅子に座った。

 敬語での挨拶がよそよそしさを感じさせたが、幸恵を真っ直ぐ見つめて微笑む顔は、昔ながらの「流華ちゃん」だった。


「パ……父が、ここの院長先生とちょっとした知り合いなんです。さっ……幸恵さんのことが心配で、無理言って入らせてもらいました」


 そんな簡単な説明で、幸恵が納得できるはずもなかった。何もかも。


「詳しく話すと長くなってしまうので、大事なことだけ先に言いますね」


 幸恵の心を見透かしたように、流華は穏やかに続けた。


「幸恵さんにしか見えていなかったあの黒い蟲、とても良くないものです。とても。えっと、パ……父が、ああいうモノに対処する仕事をしているんです。私もちょっと見えるっていうか」


「良くない、モノ……」


 さっきまであれほどはっきり見えていたのに、消えてしまった今では夢だったのではないかと幸恵は感じていた。でも、確かにいたのだろう。幸恵だけでなく流華にも見えていたのだから。


「たぶん、今家に帰るのは危ないと思います。なので、退院したらうちに来てください。できるだけのことをしてくれるように父に私から頼んでおきます」


 幸恵は理解が追いつかなかった。逃げおおせたと思っていた元夫からの手紙、明らかにこの世のモノでない大量の蟲、平然とそれを消す目の前の彼女。

 何を言うべきか、何を思考するべきかわからず曖昧に口を動かすしかできなかった。


「混乱しちゃいますよね」


 流華は困ったように笑い、左手の人差し指から指輪を外して幸恵の手に握らせた。


「幸恵さんの事情はわかりません。ただ、さっきみたいな普通じゃないモノから守るのは、ちょっとだけ得意なんです、私も父も」


 優しく、ゆっくりとした口調で囁く。


「今、ここは安全です。この指輪が御守り代わりになります。菜帆ちゃんも、今夜はウチに泊まることになってます。だから、今日は安心して休んでください」


 重ねられた手も、言葉も、温かい。


「怖かったですね」


 怖かった。

 復唱するように、幸恵も口に出した。今頃になって震えがやってきた。

 そう、怖かった。今も。

 手紙を開封してからずっと、全身を覆っていた感情を言葉にされて、幸恵は涙が溢れてきた。


 嗚咽を漏らす幸恵を、流華は落ち着くまで抱きしめていた。


 流華が持たせてくれた指輪は、暗がりの中でほんのり青く光を放っていた。病室で一人見つめていると、幸恵の心は落ち着いた。

 無心で眺めているうちに、幸恵は恐怖も混乱も忘れて深い眠りに落ちていった。

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