十月二日① 藤行幸恵

 藤行ふじゆき幸恵さちえは、人生の半分以上を地獄の中で過ごしてきた。

 幼い時分は親元で、長じてからは元夫のそばで。

 しかしそれは改めて思い返した時にそう解釈するだけで、その只中にいる間は案外心持ちはいでいた。

 生きるとはそういうものだと、そこに疑いはなかった。

 幸恵がはっきりと変わったのは、娘を妊娠した時だ。

 親になる。

 これも後付の解釈に過ぎないが、当時の感情に一番近いものはやはり「喜び」だった。


 当時の夫は大反対した。ろくに避妊もしないまま過ごしておきながら、彼はいつになく取り乱していた。

 幸恵が何を言われても納得できず首肯しゅこうせずにいると、頬を張り飛ばされた。

 どうせ俺の子ではないだろう、お前はすぐに外で色目を使うのだからと反対の頬をもう一度。

 いつもなら、黙って下を向いていれば時期に甘えた声で身体を撫で回す。

 そうして“仲直りの儀式”を経て、話は彼の意向通りに進むのだ。

 幸恵は、頭で考える前に身体が動いていた。

 夫が席を外した隙に、携帯電話だけを握りしめて飛び出した。

 唯一交流の続いていた友人に助けを求め、かくまってもらった。

 夫との話し合いの席にもついてきてもらった。女だけでは危ないからと友人の兄まで出張ってくれた。


 喫茶店で夫は激昂した。

 間男を連れてくるほど恥知らずな女だとは思わなかったと叫び幸恵の髪をじりあげた。

 毎日晒されていた時より、少し離れてからの方が暴力への恐怖が強く感じられ、彼女は身動きできなかった。

 色んな人に間に入ってもらい、全力で彼から逃げた。

 心理的なストレスは相当なはずだったのに、お腹の子は全く順調に育ち、生まれる時もびっくりするほど安産だった。

 新天地での一人の子育ては苦労と共にあったが、それ以上に幸恵は幸せに包まれていた。


 散歩中に話しかけてきた元夫は、悪夢の再現よりも凶悪だった。

「命にかえてもこの子を守る」という彼女の中の固い誓いは、左腕と共にあっさりし折られた。

 またしても周囲に助けられたのは、あまりにも幸運で、でももうそれは人生最後かもしれないと怯えて過ごすようになった。

 自分は無力だという感傷に浸っていられないほど目まぐるしく時が過ぎた、育児というものの壮絶さは幸恵にとって救いだった。

 彼女の心情をよそに娘は悪意とは無縁に育った。

 二年後に高校を卒業する。進学するとしたら費用だけがネックで毎日幸恵の頭を悩ませる、でも頑張れば何とかならないこともない。平和な問題だった。


 秋風が心地良い週末のある日、差出人不明の封筒が郵便受けに入っていた。


 南田幸恵様


 とっくに捨てた姓で書かれている時点で不穏だった。だが開封しないわけにもいかなかった。

 手紙には何枚にも渡っておぞましい文章が続いていた。

 幸恵や友人への罵詈雑言、生まれた子供への憎悪――当時徹底的に否定したのにいまだに不義の子であると信じ込んでいる!――それら全てを水に流してやるという自己陶酔、南田幸恵という彼の中の虚像に宛てた愛の言葉。

 恐怖と嫌悪で足が竦んでいると、手紙の文字が動き出し、彼女の手を伝って身体を這い回った。

 うごうごと小さなムカデのような黒い蟲が何十何百と幸恵の身体を覆い尽くし、悲鳴をあげるそばから鼻にも口にも侵入し彼女は意識を失った。


 気がついた時には病院のベッドの上だった。

 真っ白い紙を握りしめて失禁しながら倒れていた幸恵を、帰宅した娘とその友達が発見したらしい。


 黒い蟲が夢であれば、どんなに良かっただろう。

 壁に、床に、窓に。病室のそこかしこに、黒い影がうごめいている。

 取り乱しているのは幸恵だけで、医師にも看護師にも見えていなかった。


 どうして。何故見えないの、あそこに貼り付いているじゃないの!


 暴れる彼女を押さえつける人達の腕に、顔に、まぶたに、沢山のあしを持つ蟲が這っている。


 嫌だ


 侵入はいってくる


 やめて


 蟲が


 むしが



 年嵩としかさの看護師が、廊下に向かって院長を呼ぶように叫んだ瞬間。


 パン


 柏手かしわでのような乾いた音がして、視界が一瞬青く染まった。

 幸恵を含め何人もが大声を出していた中、不思議と音は病室中に響き渡り、誰もが虚を突かれた。

 気がつくと、大量に湧いていた黒い蟲が一斉に消えていた。


 開いていた病室の扉から、一人の人物が入ってきた。


「失礼します」


 にこやかに、彼女は言った。

 娘の友人の、津久野つくの流華るかが、立っていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る