盾と鎧とお姉ちゃん
惟風
十月二十六日 南田博雄
夜道を進むその足取りは力強い。彼の周囲を、大小様々な形の黒い影が取り巻いている。が、それを気にする者はいなかった。
次第に街灯は減り、車通りは少なくなり、やがて民家もまばらな未舗装の荒れた道となった。
彼は大きなバックパックを揺らし、一歩一歩踏みしめるように歩みを進める。
彼の頭の中は一人の女性のことでいっぱいだった。
「
愛しい女の名前を呟く。
南田には、幸恵という名の妻がいた。
幸恵のことを、彼は心の底から愛していた。
彼女は愚かで気が弱く、流されやすい性格であったため、南田は毎日妻の世話をしてやらねばならなかった。
間違っていればその都度叱り、同じ失敗を繰り返す時には愛の
俺がいなければお茶一つ満足に淹れられない、自分が面倒をみてやらねばと、南田は使命感に燃えていた。
そのうちに、妻は妊娠した。
南田は大の子供嫌いだったので彼女を激しく叱責した。もちろん堕ろさせるつもりであった。
だが、幸恵は
あまりにも突然のことに、彼は困惑した。
とにかく話し合いをしたいと言えば、友人とその兄だという男を連れて三人でやってきた。
南田はそこで、すべて合点がいった。
妻は、この男と不貞を働いていたのだ。
腹の子も、二人の子に違いない。
危うく
話し合いに選ばれた喫茶店で、南田は幸恵に掴みかかり、周囲の人間に取り押さえられた。
離婚に同意させられることで示談となり、暴行罪での起訴は免れた。
可哀想な幸恵は、悪い男に騙され洗脳されてしまった。
彼女を救い出すため、南田は再び会いに行った。引越し先を突き止められずに苦労し、見つけた時にはもう子供は生まれてしまっていた。
道端で声をかけると、ベビーカーを押していた妻は立ち竦んだ。
お前を許してやる、二人で帰ろう。汚い子は置いていけと命じると、彼女は狂ったように暴れて抵抗した。とりあえず片方の腕を折ると、ヒステリックに一声鳴き、大人しくなった。
これ以上ワガママを言うのであれば赤ん坊の首をひねらなければならないと
南田は愛する妻の心が戻ったことに安堵し、彼女を優しく抱きしめた。あの時ほど、幸恵を愛しいと思ったことはなかった。
さあ帰ろう、と身を離した瞬間に、南田は駆けつけた警察官に拘束された。
今度は傷害罪の実刑がついた。
「あそこか……」
思い出に浸りながら歩いていた南田は、目の前の雑木林を見つめ、呟いた。
足元を注視すると、黒い
この蟲が、幸恵に導いてくれる。
刑務所にいる間に、彼はいつしか他人には見えないものが見えるようになっていた。
誰に教えられたわけでもないが、それらが怨念や憎悪に満ちた存在であることを南田は感じ取った。まるで彼の怒りに寄り添うように、黒い塊達は集まってきた。
手懐けるのには少々骨が折れたが、出所して書物やネットでかじった知識を元に、式神のようにそれらを使役できるまでになった。
この能力を得たことは
幸恵はきっと感動したことだろう。
だが、便りを出してすぐにまた彼女は南田から遠ざかってしまった。
追跡しようにもうまくいかず、どうやら南田と同じく霊的な力を行使する者が邪魔をしているようだった。
それでも南田は諦めることはなかった。その程度で消えてしまうような
今夜こそ迎えに行こう。
何者も、二人を引き裂くことはできないのだ。
木々を抜けた先、灰色の四角い建物の前で南田は立ち止まった。
三階建の小さなビルは周囲の景色からは明らかに浮いていた。
蟲の列は、ビルの入口に真っ直ぐに続いている。
「あなた」
幸恵の声が聞こえるようだった。
鉄の扉を開いた。
「幸恵」
名前を呼んで中に入る。
中には誰もいなかった。短く伸びた廊下の先に、また扉が見える。
南田は、十数年服役しながらずっと後悔していた。
自分は、間違っていた。
折るべきは、腕ではなく足だった。
そうすれば、どこにも行かなかっただろう。
自分は、優しすぎた。
「いるんだろう、幸恵」
辿り着いた木の扉には、南田が見たことのない紋様がびっしりと描かれていた。
開ける直前、中の部屋が一瞬青白く光り、空気の質が変わった。だが、南田にはどうでも良かった。とにかく、幸恵に会いたくてたまらなかった。
壁も床も天井も白い広間の中央に、西洋甲冑が一体、ぽつねんと
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