6³と復習

 湯船に浸かり、水滴が滴り落ちる天井を何気なく見上げていた。

「なんなんだろうなぁ」

 数時間前の出来事が嘘のような浮ついた思考のまま、今日を終えようとしていた。

 湯の中で両腕を大きく伸ばし、首元まで深々と浸かって目を閉じる。

 不意に、脳裏を掠めるあの〈6〉という数字があしらわれたペンダント。

 同時に、そのペンダントを受け取った後の事が思い出された。

 別室で受けた、〈6³〉についての説明。

 神原じんばらという名字の、眼鏡を掛け白衣を身に纏い、いかにも研究者然とした雰囲気を持った中年男性。

 〈6³〉にある研究部門の主任らしいのだが……。

 どういうわけか、その神原さんの説明をすんなりと受け入れる事ができた。

 やはり、自分が〈影滅〉をしているからだろうか。

影滅者えいめつしゃ、か……」

 ゆっくりと目を開けて呟くと、数時間前の説明を思い返した。

 影滅者とは、自分のように〈影〉と対抗する力を使役する人間のこと。

 そして、その影滅者を集めた極秘の公的機関〈6³〉。

 〈影〉とは、人間に危害を加える存在のことであり、一般的には、魔物、妖怪、悪魔などと呼ばれている。

 そもそも、人間と〈影〉は同じ空間を共有しているが、存在している層がそれぞれ異なる。

 そして、〈影〉と人間がお互いを認識できる窓のような層があり、それを〈リンク〉と呼んでいる。

 〈影〉を認識するためには、自身の認識レベルをその〈リンク〉に合わせることが必要になる。

 また、人間が持つ認識レベルを数値化したモノを〈m値〉と呼び、〈影〉を認識できる〈m値〉は数値で表すと〈666〉となる。

 数値が〈666〉でなくても、微小の誤差であれば、〈影〉を認識することは可能。

 そして、その〈m値〉は、〈影〉を認識できる値であるということから〈認識値〉と呼び、通称〈6³〉とも呼ぶ。

 影滅者の集団である極秘の公的機関は、この通称からその名を取っていた。

「公的機関かぁ」

 呟きながら風呂から出ると、タオルで身体を拭き、洗面所の端に置いておいたペンダントを手に取った。

 よく見ると、あしらわれた〈6〉という数字の右上に、小さく〈3〉の数字が付いていることに気が付いた。

「細かいなぁ」

 ペンダントを目の前に掲げ、まじまじと眺めると、これを自分に与えた老婆の事を思い出す。

 一見、上品そうに見えたが、実際は言動がぶっきらぼうで高慢な印象。

 おそらく、組織のトップに位置する人間なのであろう。

 〈6³〉は影滅者の集まりであり、云わば、特殊な人間の集まりと言っても過言ではないだろう。

 その中で、あの老婆はどれほどの力を持った存在なのか。

「俺のm値はどうなんだろう?」

 説明をしてくれていた神原が途中であの老婆に呼び出され、俺はその時点で家へと帰されたということもあり、自身の〈m値〉を知ることが出来なかった。

 そもそも、その〈m値〉というモノを計測できるのかどうかも定かではなかった。

 神原の説明で、人間には個々に〈m値〉の基準値というものがあり、その値は鍛練で変動させることが可能だと言っていた。

 そして、人間の〈m値〉はあらゆる影響を受けやすく、状況や精神状態によって、大きく変動するらしい。

 要するに、〈影〉を認識できるかどうかは、自身の〈m値〉を如何にして〈認識値〉に近付けるかということになる。

 また、理論的に言えば、誰もが〈影〉を認識できるということになり、どうやら、〈6³〉にはそれを実現させる技術があるらしい。

「……影滅か」

 タオルを腰に巻き、ペンダントを洗面所に置くと、そう呟いた。

 神原の説明の中で最も着目したこと。

 それは、〈m値〉が〈認識値〉に近ければ近いほど、〈影〉を滅する力が強力になるということ。

「そもそもm値のm、って何だよ?」

 洗面所から、独り言をいいながら居間へと向かった。

「それはね、メートルのmよ!」

「わぁっ?!」

 突然の返答に軽く飛び退くと、外れ落ちそうになったタオルを押さえた。

「えっ?! ええっ?! 栄月さん?! ええぇーっ?!!」

 居間の二人掛けソファの中央に腰掛ける栄月美紅を見受け、思わず驚愕の声を上げてしまった。

「美紅でいいわよ」

 そう言って、笑顔で美紅さんは俺の体を舐めるように眺める。

「結構、いい身体してるねぇ。それに、傷だらけ……キミ。ずっと、一人で――」

「あ、ははは、服着ますね!」

 美紅さんの言葉を遮るように、そそくさと隣の寝室へ入っていった。

「ふふっ! ……ところで、数哉くん? 何でメートルなのか、分かる?」

 扉の向こうから美紅さんが問い掛けてくる。

「あ、いえ、分かりません。説明してくれてた神原さんが途中で何処かに呼び出されちゃったんで」

「だよね! どうせ、いつか分かる事だから教えてあげるよ……あ! ふふっ! おかえり~」

 着替えを終えて居間に戻ってくると、美紅さんは組んだ足に頬杖を突いて微笑んだ。

「どうも。ただいま、です」

 頭を掻きながら答えると、美紅さんと向かい合うように床に腰を下ろした。

「あっ、もう! こっちこっち……こ・こ、ね?」

 足を解き身体を横にずらしながら、美紅さんは開けたスペースをポンポンと叩いて、ウインクをする。

「えっ?! あの、その……てゆーか! 栄月さん! 何でウチに居るんですかっ?!」

 美紅の魅了から我に返ると、照れを隠すように大きめの声で問い質した。

「ふふっ! 別にいいでしょ? キミに興味がある。それでいいでしょ?」

「興味って。俺は、大した人間では」

「大したことあるよ。それより、早く座って? さっきの続き、聞きたいでしょ?」

「え? あ、はい。聞きたいです……では、失礼します」

 俺は観念して、おずおずとソファの隅へと腰掛けた。

「もぉ。まぁいいか……さて、と。なんで、m値のmがメートルなのか、だったわね?」

 美紅さんは少し不服そうな溜息を吐くと、俺を見据えながら、そう続けた。

「はい、あの……メートルって、長さの単位の、ですよね?」

「そう! そのメートル! じゃあ、何でメートルなのか……その答えは、速度!」

「速度ですか?」

「そう、人間が影を認識できる速度からきてるの。そして、その速度は分速666メートル……いわゆる、認識値よ」

「分速666メートルですか……」

「時速にして、約40キロメートルね」

「そうですか……って、あれ? それだと、車とかに乗ってたら、誰でも影を認識できるんじゃないですか?」

「ふふっ! 良い所に気が付いたね! 理論的に言えばそうなるよね。だけど、一般的にその速度で走れる車とかは製造されてないんだよねぇ……というか、その速度を維持できないように、どれも調整されてるの。秘密裏にね」

「なるほど。でも、自転車は? それに、自分の足で走ったりしたら?」

「自分の足で、って……数哉くん? 百メートルを9秒で走れる?」

 美紅さんはそう言いながら、俺の膝に手を置いた。

「……いえ」

「だよね? それに、走れたとしても、ほんの一瞬。その速度で走り続けられる人間はそうはいない。だけど、自転車はねぇ……まだ、ちょっと危険かも」

「ですよね! 自転車なら簡単にその速度で走れますよ」

「うーん。簡単ではないと思うけど、可能なんだよねぇ」

「そうですよ! 自分の足で走るよりは簡単です!」

「うん。だけど、〈6³〉の働きかけで法改正もされてきてるし、なにより、電動自転車が普及してきてるから、その点は大丈夫そうよ」

「なるほど……やっぱり、公的機関。なんですね」

 俺はそう呟くと、〈6³〉という組織が持つ力を改めて推し量った。

「……さて、帰ろうかなぁ?」

 美紅さんはそう言いながら、俺の顔を物欲しげな表情で覗き込んできた。

「え? あ! は、はい!」

 美紅さんとの距離が身体が密着する程に近い事に気付き、俺は慌てて立ち上がった。

「ふふっ! あっ! そうそう、あのペンダント、ちゃんと身に着けててねっ! ……じゃあね~」

 微笑んで立ち上がると、美紅さんはひらひらと手を振り、玄関へと向かった。

「……なんなんだろうなぁ」

 玄関のドアが閉まるのを見届けると、溜息混じりにそう呟いた。

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