1994年、春。
受験は大変だった。
担任に勧められて政治経済を社会科選択にしたのは成功だったのか失敗だったのかよくわからない。
Jリーグなどの明るいニュースほど受験には無関係で、チェコとスロバキアの分離やEEC発足、カンボジアPKOに関連してUNTACなど国連に関係する事柄は重点的に対策しなければならなかったのはまだ良い。問題は時事的事項が入試問題にどこまで影響するか。55年体制の崩壊あたりが時季的に、大学側の入試問題作成に間に合うかどうかの見極めをしなければならなかったから、念のためとかなり幅広く学ぶ必要があった。政治経済選択者の避けられない宿命とは言え、これには大いに悩まされた。
「まあ、結果オーライだけど」
念の為センター対応入試も受けたが、そちらは英語があまりに難しすぎて絶望した。ただそれは、解答速報を見ながら自己採点した結果を先生に報告したところ、どうも全受験生に共通だったようだ。
だいたい、そもそも入試そのものが地方の人間に優しくない。地方入試だって大都市ばかりだし、彼のように田舎の人間は入試に合わせて上京するだけで精神的にも体力的にもかなりのダメージを負うのだから。
第一志望が入試スケジュールの最後だったのは幸いだった。
そうそう何度も上京する訳にもいかないから、一週間ホテル住まいで一気に受験したせいか最終日には自動改札とやらの存在にもだいぶ慣れた。初日は人の多さとドアに開閉ボタンがないことにあたふたしてしまったが。
『間もなく上野、上野。在来線各線、京成線、営団地下鉄はお乗り換えです』
アナウンスが流れ、新幹線は地下に入る。
受験の時もうんざりしたが、とにかく長かった。もう何年かしたら第三セクターが開通して特急も走らせると聞いていたが、今現在の彼には無関係だ。両親が新幹線を許可してくれたから良かったものの、それでも4時間近く移動にかかっている。
けれど、と大きな鞄を抱え上げて乗降口に向かいながら、暗くなった窓に映る自分の姿を見る。全く意識していなかったが、緊張と興奮がないまぜになって妙な笑顔がそこには映されていた。
我ながら変な顔をしている、と認識したところで気持ちを引き締め直す。
いや、変な顔と言っても去年の夏よりマシか、と苦笑する。
帰省した彼女に先輩からの告白を断った話や、そのままの勢いで自覚した妙な潔癖症からの独占欲など支離滅裂なままに彼女に想いをぶつけたら、もう少し雰囲気を考えろと両頬を引っ張られた。ならば、と彼女は自分だけのものであって異分子の混入は容認できない旨を伝えたら、今度は一瞬呆れた顔をした後頬を引っ叩かれた。怒ったのかと思いきや、泣きながら笑っていたのだからどうにも解せない。
彼の胸に顔を押し当てて泣くものだから、濡れると苦情を言ったら反対側の頬も引っ叩かれた。ますますもって解せない。
とは言え、それがどんな効果を齎したのかと言われれば、元から別段悪くはなかった彼の成績が急上昇し、秋の三者面談では地元の国立か関関同立、あるいは早慶上智を目指すよう指導されたという結果に繋がったが、それは丁重にお断りした。彼の目的は彼女と過ごすことであって、上位の大学に入りたいからではない。変にうきうきした親の聞き耳を避けつつ電話したら、目的を純化させるそんなところも拓らしいね、と彼女に笑われたが。
地元の電車と違い、静かに速度を落とした新幹線がホームに滑り込む。
車両のドアが自動で開くことすら新鮮な彼だったが、あまりきょろきょろするのもみっともない、すでに受験の時に経験済みなのだしと変な玄人感を出しながら前の人に続いてホームに足を踏み出す。
借りたアパートまではまだここから距離がある。JRだけでなく営団地下鉄にも乗り換えなければならないのだから。営団だの都営だの、同じ地下鉄なのに名称が違うのは未だよくわかっていないけれど、どうせ行き先は同じ案内人がいる。とりあえず任せておけば良いだろう。
だからさほど不安はない。
むしろわくわくしているくらいだ。
それは新しい生活、まだ見ぬキャンパスライフに憧れるような田舎者特有の高揚などではなく、もっと間近に迫ったイベントへの高鳴りだ。
ホームに立ち止まって周囲を見回す。
一緒に降りた人たちがエスカレーターへ向かう波も引き、ホーム上にはまばらに人がいるだけだ。この先は東京しかないため、上野から乗車する人もいない。次の新幹線を待つ人もいないから降車客の波が引けば見通しはよくなるはずだ。
残っていた数人の姿が壁の向こうに消え、ホームの最後まで見通せるようになる。
そこに立つ姿を認めた彼は、足早にホームを歩き出す。
向こうも気づいたようだ。小さく手を振りながら近づいてくる姿は何も変わっていない。
小走りになりながら、笑顔になっていくのを彼はもう止めようと思わなかった。
無人のホーム。景色はまったく違うけれど、誰もいないホームからまた、新しい時間が続いていくのだと彼は笑った。
1994年の春。
新しくて懐かしい時間が、再び動き始めた。
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